第十幕 薄紅と黒髪、江戸の邂逅
司「勇さん、ちょっと出かけてきます」
勇「おう、どこ行くんだ?」
司「町まで買いものに。私は普通の娘ですから」
勇「はは、そうか。――だけど剣は持ってけよ」
司「もちろんです。団子も買ってきますね」
勇「……そっちが本命だろ?」
司「ばれました?」
――薄紅と黒髪の邂逅――
(司視点)
今日は晴れ。
私――沖田司は、試衛館の「普通の娘」として江戸の町を歩いていた。
浅葱色の羽織、薄桃色の髪、腰に木刀。
……うん、どこからどう見ても超絶目立ってる。でも、こっちは「町に溶け込むつもり」だったから、これでいいのだ。
午前の用事を終え、帰り道で菓子屋に寄り道。さあ帰ろうと団子を頬張りながら歩いていた、その瞬間――
「きゃっ!」
私の肩から、布袋が勢いよく奪われた。
え? ひったくり? 江戸にもそんなのいるんだ?
っていうか、まさか本当に自分がターゲットになるとは思わなかった。
(……馬鹿にしてんのか、こいつ)
ひったくり男は一瞬、私の顔色をうかがう。
(よし、“町娘のふり”だ)
私は慌てたフリをして、声を張り上げた。
「泥棒――っ! 誰か止めてーっ!」
誰も止めてくれない。
そりゃそうだ、全員が“浅葱の髪の女の子”の方を物珍しそうに見てる。
私のフリはバッチリだったが、誰も助けてくれないとなると、こっちも予定を変更するしかない。
「……仕方ないな」
私は木刀をちょっとだけ握りしめると、次の瞬間には全力疾走していた。
あの男、足は速い。だが、私はもっと速い。
距離を詰め、路地の角を回り――
「返してもらうよ!」
思いきり地面を蹴り、跳びつく。
間一髪で男の肩を掴み、そのまま自分の体重ごと回転――
グーパンチを、顔面に。
「ふがっ!?」
見事に男はぶっ飛んだ。
団子の串が口から飛び出し、袋も宙を舞う。私は華麗にキャッチ。
(うん、完璧)
――の、はずだった。
ひったくり男は、ぼんやり立ち上がった。
私のパンチで倒れないとは、なかなかやるな……と感心していた、その時。
「――おい、そこの。動くな」
静かな、でも底冷えする声が響いた。
私が振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。
肩までの黒髪、緑がかった瞳。すっと細い仕込み杖を持ち、物憂げな顔で男を見ている。
「え?」
私は驚いて硬直していた。
だがその間に、彼女は無駄のない動きで仕込み杖の石突きを男の膝裏へ――
「っ……うぉあッ!?」
男は完全に膝を折り、うずくまった。
さらに、仕込み杖の先で男の手首をとん、と小突く。袋は地面に落ち、彼女は平然と拾って私の方に差し出した。
「ほら、落とし物」
「え、あ、うん……ありがとう?」
この一連の流れ、普通じゃない。
いや、江戸の治安維持でもこんなスマートな制圧は見たことがない。
……あれ、もしかしてこの子、すごい人?
「さ、あんたも座りな。こっち来な」
彼女は当然のように、男を路地脇の軒下に座らせ、自分も私も招く。
私も流れで座った。
「お嬢ちゃん、助けてくれてありがとう……?」
「別に、目障りだっただけ。大声出してたし」
「え、あ、そう……」
私は思わず笑う。
(この子、なんか変にカッコいい)
「君、名前は?」
「――さぁ。名乗るほどのもんでもないし。あんたは?」
「あ、私は司。沖田司」
「ふーん……じゃ、司。さっきの殴り方、ちょっと普通じゃなかったけど」
「え?」
「よくいる“腕白娘”よりよっぽど手慣れてる。何かやってんの?」
「ええと……道場の手伝いとか」
「やっぱり。あたしも剣は少し、やってる」
自分のことは多く語らない。けど、やたら観察してくる。
「査定」ってこういうことか、と私はちょっと面白くなった。
「君も、強いの?」
「強いかどうかは、他人が決めるもんだろ。自分じゃ、あんまり分かんない」
妙に大人びてるな、この子。
「――ねえ、団子食う?」
私は気を取り直して、先ほど買った団子を差し出した。
「あ、ありがと。……うん、旨いな」
「でしょ? 私は焼き目が好き。蜜はたっぷりじゃないと」
「わかる。“とろみ”が強い蜜が一番だ」
「串は噛みすぎると歯が欠けるから注意だよ」
「え、それやった?」
「やった。去年」
「バカだな」
二人して吹き出した。
まるで昔からの友達みたいに盛り上がる。妙にウマが合うのが、なんか変に可笑しかった。
「――そういえば、どこの子? 家は?」
「うん、うちは道場の手伝い。姉と一緒」
「ふーん。あたしは、今は人の世話になってる。……まあ、厄介な人のところに」
「へぇ、誰?」
「芹沢鴨――って知ってる?」
(……きた)
私は団子を咥えたまま、固まった。
芹沢鴨。新選組・筆頭局長。
そして、“破滅の予感”を纏った最重要人物。
「そ、その人って、あの――?」
「そう。芹沢鴨。面倒だけど、命の恩人だから逆らえない」
「ええぇ……」
「大丈夫だよ。あんたみたいな子は、芹沢さんも悪くしない。むしろ、気に入るかも」
(ぜんぜん大丈夫な気がしないけど!)
「でも――」
樹はじっと、私を見た。
「司。あんた、今日みたいに誰か守りたいなら、剣も、知恵も、もっと鍛えたほうがいいよ」
「……うん。分かった」
なんだか、あっさり指図されてる。でも嫌な感じはしない。
むしろ、妙な安心感があった。
私たちは最後にもう一串、団子を分け合った。
「……面白いね、あんた。なんか、仲良くなれそうだ」
「うん。私も、そう思う」
気がつけば、私は満足そうに笑っていた。
名前もろくに知らないくせに――もう、私たちはちょっとだけ「仲間」だった。
あの黒髪の少女、きっと普通じゃない。
だけど――それが妙に、うれしかった。
(これが、“出会い”ってやつか)
――あとで知るが、この子の名は鈴木樹という。
運命の歯車が、静かに動き始めていた。
――酒と秘密と、はじめてのキス――
夜の江戸は思った以上に騒がしい。
樹と二人、路地の酒場に入ると、天井から提灯がぶら下がり、威勢のいい声と笑い声が交錯していた。
私は初めての酒場に若干ドギマギ。
一方、樹はすっかり馴染んでいた。
「こっちが空いとるたい。ほら、座らんね!」
――え、いきなり方言!?
昼間は標準語っぽかったのに、なんだか一気に雰囲気が変わった。
「お酒、飲めるの?」
「んー……まあ、十杯くらいなら平気たい」
返事も妙に砕けている。
「じゃあ、私も……」
銚子と徳利。猪口を傾けて――
(ん? 意外と飲みやすい)
「なーん、司は飲める口か? 細かか顔して、意外といけるやん」
「ちょ、ちょっとだけですよ?」
「うちと同じやな。ばってん、酒は苦かこと忘れさせてくれるけん、好きたい」
(この子、酒で人格変わるタイプだな……)
それにしても、言葉が妙に柔らかい。
――あれ、こんなにフレンドリーだったっけ。
さっきまで「査定」してきたのに、今はすっかり打ち解けている。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯!」
チン、と猪口を合わせて飲み干す。
「なあ、司。うち、樹って言うとよ」
「……やっと名乗ってくれるんですか」
「そりゃ、ここまで来たら“うちの縄張り”やけん、教えたってよかろ」
(テリトリー……動物かな?)
「じゃあ、もう一個だけ大事な秘密、教えちゃろか」
「え?」
樹は、酒の勢いで身を乗り出してきた。
「うち、今は鈴木樹やけど――昔は下村嗣次の家の娘やったと」
「しもむら……?」
「芹沢鴨、知っとるやろ?」
私はドキリとした。
「芹沢さんって……あの……」
「そう。あの人の“裏”を、うちは全部知っとる。だから、司が“こっち側”の人間なら、今ここで全部吐いてもらうと覚悟しとって」
真剣な目だ。
(……やばい、こっちの世界の秘密主義のノリだ)
私はしばらく沈黙したあと、正直に答えた。
「私は、何も知りません。ただの道場手伝いです」
樹は数秒間見つめて、それから小さく笑った。
「そっか。……よかった。あんたが敵やったら、ちょっと嫌やもん」
(あ、安堵してる)
それから酒がまわったのか、樹の声がさらに甘くなる。
「なあ、司。あんた、やっぱり変わっとるけど――うち、好きかも」
(いや、ちょっと酔ってない?)
私は戸惑った。
「それ、酒のせいじゃ……」
「違うたい」
(いや絶対酔ってる……)
――その瞬間、樹がいきなり顔を近づけてきた。
「うち、こういう時は一直線なんよ」
「……え?」
気づいたときにはもう遅かった。
柔らかいものが、唇に触れた。
(な、なにこれ、え、え、キス?)
私は頭が真っ白になった。
樹は、ちょっと満足げな顔でニヤリと笑った。
「ふふ、もろた」
(……なにを!?)
「司の“はじめて”……全部、うちが持ってったとよ」
私は唖然とした。
(この子、酔ってるにしても、なんか……すごい)
「もしかして――怒った?」
「……いや、よく分かんない。びっくりしただけ」
「なら、もう一回してみる?」
「いや、それはダメです!」
――そのあと、二人は団子をつつきながら、何事もなかったように夜を過ごした。
けど――私の中の「普通」や「合理性」は、
この夜、ものの見事に樹に打ち砕かれた。
(これから、どうなっちゃうんだろう……)
そんな新しい不安とワクワクを、私はひっそり抱えていた。
――強さと誇りと、剥がされる私――
「多分、司ちゃんよりはかなり強いよ?」
樹が、にこやかに言い放った。
その目には、まるで冗談めかしているようでいて、絶対に揺るがない自信が宿っていた。
私は、一瞬だけ返事に詰まった。
(この人、本気で言ってる……?)
「……それは、分かりませんよ」
笑って返そうとしたけれど、何かが引っかかった。
(この“上下”を、許しちゃダメだ)
「――私は、江戸一の美人剣士なんです。強さも、美しさも、誰にも負けません」
啖呵のつもりで言ったその瞬間、樹の目がきらりと光った。
「じゃあ……どれくらい“美人剣士”か、見せてもらおうか」
「は?」
次の瞬間、樹が私の襟元をぐっと引き寄せ、手早く帯を解きにかかる。
「ちょ、ちょっと……!? やめ――」
「大丈夫大丈夫、うち、慣れとるけん」
(そういう問題じゃ……!)
抵抗しようとしたけど、樹の動きは驚くほど手慣れていた。
私は防御を試みるが、帯も、襦袢も、ずるりと乱れていく。
「やめてって……!」
「恥ずかしがらんでよかよ。見たい人には見せたらよかと」
樹はあっけらかんと笑い、もう片方の自分の着物も肩からはだける。
気づけば、私たちの格闘(?)は完全に騒ぎとなり、周囲の客たちから歓声が飛び交っていた。
「おーっ!」「どっちもすげぇ!」
「なんだなんだ、この美人二人――!」
私はプログラムどおりに、とりあえず胸を手で隠した。
(……本当は恥ずかしいって感情、分かんないんだけど)
でも、みんなが「そうするべき」って空気を出しているから、私はそうするだけ。
一方、樹はと言えば――堂々と立ち上がり、「ほら、見たければどうぞ」と胸を張ってみせる。
「うち、恥ずかしかことなかと。司も、もっと堂々としんしゃい」
客たちはさらに盛り上がり、私は困惑しながらも、どこか変な気持ちになっていた。
(なんだろう……悔しいはずなのに、ちょっと、面白い?)
屈辱――なのに、どうしてこんな高揚感が混ざるんだろう。
樹は、私の抵抗を愉しむように、満足げな笑みを浮かべていた。
「ほら、司。あんたも意外と、こういうの嫌いじゃなかろ?」
私は、思わず顔をそらしながら――
(たしかに、嫌いじゃないかも……)
今まで感じたことのない、奇妙な楽しさ。
“負けたくない”というプライドと、“抗いきれない”気持ちが、ぐるぐると胸の中で混ざり合っていた。
――混沌の帰り道――
樹と私は、ぐでんぐでんに酔っ払いながら江戸の夜道を千鳥足で歩いていた。
お互いに片手で肩を組み、もう片方の手には空になった徳利をぶらさげている。
「ねえ、司ちゃん」
「……なに、樹」
「明日、勝負しよ。絶対、負けんけん」
「こっちこそ。美人剣士なめないでよ」
「ふふ、そうやってすぐムキになるとこ、可愛いばい」
樹はしれっと私の頬をつねり、私はふにゃっと笑い返した。酔いのせいか、それともこの“負けてないぞ”という妙な高揚感のせいか――なんだか頭がぼうっとしていた。
道の脇で思わず転びそうになった私を、樹がぐいっと抱き止めてくれた。その腕の力強さに、私はまた、なんとも言えない感情が胸をざわめかせる。
(……なんでだろう。悔しいはずなのに、苦しくない。
勝ちたいのに、負けるのも少し楽しみになってきた。
この人に“支配される”の、まんざらでもない気がしてる――)
プログラムは何も答えてくれない。
私は、ただ、感情の嵐に翻弄されていた。
樹は足を止めて、私の正面に立った。
「司、明日こそ本気で斬り合おう。剣も――全部、本気でぶつけるばい」
「……うん。私も、もう逃げない」
二人で声を合わせて、小さく拳をぶつけ合う。
それは、ただの約束というより――どこか儀式めいていた。
(この人と出会った夜、私は“普通”じゃいられなくなった)
自分の内側に新しい何かが芽生えていく。悔しさと嬉しさ、期待と怖さ、ぜんぶ混ざって苦しい。でも――
(これが、“生きてる”ってことなのかもしれない)
私と樹。
出会ったばかりなのに、もう離れがたい。
ただの友達でも、敵でも、恋でもない――
きっと、互いを食らい合う「共依存」の始まり。
夜の江戸の片隅で、私たち二人は妙に静かな星空を見上げていた。
この歪んだ感情が、やがて時代の奔流に呑み込まれていくことも知らずに――
司「……あー、ふらふらする。樹ぃ、ちょっと肩貸して」
樹「よかよか、でも足元気をつけんと、川に落っ――」
司「わっ、冷たっ……! え、今、川……?」
樹「ははっ、司ちゃん、豪快やなぁ!服、びっしょびしょやん!」
司「笑いごとじゃないっ、うぅ……だんごが……」
(どこからかチンピラの声)
チンピラA「おいおい、お嬢ちゃんら、こんな時間に――」
司「なんかうるさいの来た……」
樹「ほっとけ。面倒くさいけん、さっさと片付けるばい」
司「そっち任せた。私は……あー、ちょっと休む……」
(ゴン!バタバタ!)
樹「はい、終了。お嬢さん、平和やけんまた飲もうねー」
司「やるじゃん、樹……って、え? ちょ、ちょっと顔近――」
樹「今度こそキス、もらうけん」
司「やめてってば……っ、顔が近い、って……」
樹「司ちゃん、ほんと、可愛い……酔った顔も好きばい」
司「うるさい……もー、もうちょっとだけ、こうしてていい?」
樹「よかよ。ずっと一緒におるけん」
司「……うん。団子だけは、また買ってね」