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第九幕 ただいま、と言える場所

みつ「……ねえ、司。ちょっと帳簿見てくれる?」


司「はい。……あれ? 今月、ずいぶん米の減りが早いですね」


みつ「それがさ、新八くんが来てから、ご飯の釜、空っぽになるのが倍の速さなのよ」


司「確かに……彼、おかわり三杯は当たり前ですし。昨日なんて鯵の干物も五枚消えました」


みつ「ほら見て、今月の買い出し伝票。お米、味噌、干物、みんな前月比一・五倍」


司「……思ったより深刻ですね。あと、左之助も新八さんにつられて食べる量が増えてる気がします」


みつ「ええ、あの二人、おかわり競争してるのよ! このままじゃ家計が――」


司「……いえ、まだ大丈夫です。最悪、私がまた道場巡りに行けば」


みつ「司、そんなこと言ってると、そのうち体まで食べられちゃうわよ……」


二人で帳簿と財布を見つめ、青ざめた顔を見合わせる。


司「……新八さん、家から米俵でも持ってきてくれないかなぁ」


みつ「ほんと、それお願いしたい……」

――道場巡りと「熱」の残像――



(司視点)


 


試衛館が賑やかになったのはいいけれど、そのぶん家計は限界だった。


「……食うや食わずとは、まさにこのことじゃのう……」


先生――周助さんが頭を抱えた。土方さんはため息をついて算盤を弾く。井上さんは遠慮がちに自分の俸禄を持ち出そうとするし、みつ姉さんは台所でため息ばかり。


私が最後にお米を盛ったとき、茶碗に少ししか残っていなかった。


(……これ、私の分……? いや、まあ、別にお腹すいても困らないし)


左之助は「大丈夫、腹が減ったら井戸の水でも飲めば……」と言いかけてみつ姉さんにどつかれていた。


そんな混乱の中で、先生がぽつりと言った。


「司、お前なら、どこ行っても通用する。江戸中の道場、出稽古して“稼いで”こい。……頼んだぞ、試衛館の稼ぎ頭!」


周囲の空気が一変した。みつ姉さんが不安そうに「無理しないでね」と声をかけてくれる。でも、私はむしろ、どこか――ほっとしていた。


(戦いの夜のあの“熱”――まだ消えてない)


血が沸騰するような感覚。斬撃の手応え。生きている実感。そのあとに残ったのは、現実世界の輪郭がどこか色褪せて見える自分だった。


日常は静かで、平和で、温かい。けれど、剣を振った夜の鮮烈さに比べれば、まるで古びた絵巻の中を歩いているような――そんな心地がする。


 


道場の外へ


まずは顔が利く場所へ。私は桂先生――練兵館の桂小五郎を頼ることにした。


「桂先生。道場を渡り歩いて稽古させてほしいのですが――」


桂先生は思ったよりもあっさり「いいとも」と笑った。


「君が来てくれるなら、こちらも門下生が張り切る。遠慮なく稽古していきなさい」


そのときだった。


「――おお、桂さん、今日はまた粋な子がおるがじゃ!」


いきなり割って入るような、土佐訛りの太い声。


振り返ると、色黒で背の高い、妙に生き生きとした青年が立っていた。ひょうきんな笑顔、ざっくばらんな雰囲気。見覚えがある。いや、知っている。坂本龍馬。


(まさか、こんなに早く会うなんて……)


「こりゃあ、桂さんのところにおるとは思わんかったき。わしは坂本龍馬いうがじゃ。よろしくのう!」


「あ……沖田司です。よろしくお願いします」


名乗りながら、私の心臓が一瞬だけ跳ねた。けれど、あの夜ほどじゃない。私の中の熱源は、いまだ燻ったまま。


「司さんはな、凄い子なんだぞ」


桂先生が口を開いた。「練兵館の“名物”になりかけてる」


「名物て、うまそうな話じゃの。どれどれ、わしと手合わせせんか?」


龍馬は竹刀をひょいと取ると、目を細めて私を見た。


「ぜひ」


私は構える。竹刀を持つ手に、微かに熱が戻る。龍馬の姿を前にしても、私の心は凪いでいる。あの夜の、あの“斬りたい”“もっと斬りたい”という衝動には遠く及ばない。


構えた瞬間、龍馬は一歩、ふわりと間合いを詰めた。


(この人、強い)


直感が告げる。竹刀が交差し、瞬間の空白で私は一閃を繰り出す。


――だが、龍馬は避けた。冗談のような動きだが、芯が通っている。


「ほう、見事じゃ。こりゃ、桂さんも気が気でならんわの」


「僕も時々は手合わせするが、彼女にはすぐ追い抜かれそうだ」


ふたりの笑い声の中、私は淡々と次の一手に集中する。竹刀を振る――けれど、熱量が足りない。あの夜の「生きるか死ぬか」の感覚に、到底及ばない。


試合が終わると、龍馬は竹刀を床に置いて、大きな声で笑った。


「いやぁ、司さん、あんたは大したもんぜよ! ただの娘さんじゃ、なかろう?」


「……さあ。私が何者かなんて、私にも分かりません」


本音だった。周りはまた“異才”を褒める空気だが、私はただ、内側がどこか空っぽなままだった。


 


稽古のあと、龍馬と桂先生が、時代について語り始めた。


「日本も、いよいよ大きく変わるき」


「尊王攘夷の旗のもとで動く者も増えたが、道は険しい」


その話題になると、桂先生は私に目を向けた。


「司君なら、どう考える?」


私は少し考えてから、口を開いた。


「攘夷は“情”の運動です。誇りのために、異国を排する。でも、力の差が歴然ならば、戦っても意味がない。むしろ、“交渉”と“時間稼ぎ”こそが最良だと、合理的には思います」


「……合理的に、か」


桂先生は苦笑した。


「武士たちには通じにくい考え方かもしれませんね」


龍馬は、目を輝かせて私を見た。


「おもしろい! 司さん、あんた、ほんまに娘さんか? まるで先の時代を見てるようじゃ」


「先の時代――?」


私の心は、少しだけざわめいた。令和で歴史を知っていた自分。けれど、あの夜の熱には及ばない。


桂先生は「この子の知識は尋常じゃない」と龍馬にささやいていた。龍馬はそれを面白がるように、ニッと笑った。


「司さん、いっぺんわしの知り合いの道場にも来てみい。伊東大蔵いう、たいそうな御仁がやっとる名門道場じゃ。あんたの腕も頭も、きっと役立つぜよ!」


その時、私の胸が、ほんのわずかに熱くなった気がした。


(新しい場所、新しい出会い……何かが“始まる”のかもしれない)


けれど、あの夜の“熱”――あの時の、理屈では測れない昂ぶりには、まだ遠い。

目の前の現実は淡い。けれど、前へ進まなければ、私は空っぽのままだ。


どこに行っても「逸材」と呼ばれる。けれど、その度に、自分の中の熱を確かめる。


「私の“熱”は、どこにあるんだろう」



――藤堂平助との出会い――



伊東先生の道場は、想像していたよりずっと明るく、賑やかだった。練兵館や試衛館と違うのは、門弟たちの顔つきに余裕があって、どこか自由な空気が漂っていること。


案内され、まずは型の披露と手合わせを求められた。けれど、正直なところ、そのときの私は“例の熱”を求めてどこか上の空だった。


(斬るほどの勝負じゃない。きっと、また評価されて終わるだけ)


いつものように、無難に立ち回ればいい――そう思いながら竹刀を構えた。


「おい、そこの姉ちゃん! 手合わせ、俺とやってくれよ!」


その声は、壁際で竹刀を振っていた小柄な少年から飛んできた。くしゃっと笑った顔は子どもそのものだけど、その目だけは異様なまでに真っ直ぐだった。


「おい平助、出過ぎるなって!」


「うるせぇよ! 伊東先生も“好きにやれ”って言ってただろ!」


伊東先生が笑いながら「まあまあ、若い者同士、やらせてやれ」と手で制した。


藤堂平助。――私は、瞬時にその名を思い出す。


未来の知識が告げる。けれど、目の前の彼はまだ少年で、剣の世界に躍る一匹の獣のような空気をまとっていた。


「お願いします、平助くん」


「くん? いや、俺は“平助”でいいよ!」


「じゃあ……平助。よろしく」


思わず、いつもの自動的な笑顔じゃなく、どこか“ほころぶ”感覚があった。


――始まった。


平助の踏み込みは速い。雑味のない、純粋な速さ。駆け引きの間も、迷いも、余計な“構え”もない。ただ、真っ直ぐ。全身で「やりたいからやる」だけ。


一合、二合、三合――次第に私は、呼吸のリズムが揃っていくのを感じていた。楽しい、とは違う。なのに、心が踊っていた。


(……今、私、“楽しんでる”?)


「すげぇ! 姉ちゃん強ぇな! 俺、こんなにワクワクしたの初めてかも!」


真っすぐな歓声。気づくと、私も息を弾ませていた。


(私……今、笑ってる?)


竹刀を納めると、平助がまっすぐ私を見つめて叫んだ。


「また稽古してくれよ! な、司姉ちゃん!」


姉ちゃん――。不思議と悪くない響きだった。

私は、自然にうなずいていた。


「うん、また来るよ」


プログラムされた返答でも、打算でもなかった。本当に“また来たい”と思った。

それが、バグみたいに心を揺らした。


稽古の後も、平助は怪我した箇所を見せてきたり、道場の裏の猫を教えてくれたり、何かとまとわりついてくる。「うざい」とは思わなかった。むしろ――心の底が、ほんのり温まる。


数日後、私は自分でも気づかないうちに「今日も伊東道場に行く理由」を探していた。


怪我をした平助の手当てをしながら、「また変なことしてきたな」と思いながらも、どこかくすぐったい気持ちになる自分がいた。


(これが、“好き”とかいう感情なのか――いや、違う。なんだろう。でも……悪くない)



帰り道。平助が駆け寄ってきて、無邪気に「また来てな、司姉ちゃん!」と手を振った。


私は、笑って手を振り返した。自分の顔が、きっと“無防備な笑顔”になっていることに、そのとき初めて気づいた。


これが、バグだとしても――この気持ちは、捨てなくていいかもしれない。

私は、そう思った。





――帰る場所――



伊東道場での稽古が終わる頃、伊東先生が私を奥の座敷に呼んだ。広い畳の間。香炉の煙が静かに揺れていた。


「司くん――君の実力と頭脳は、この道場のどこにも収まらない。正式にうちへ来ないか?」


先生の声は、いつになく真剣だった。


「塾頭として迎える。給金も弾むし、将来の縁談も道場で面倒を見る。江戸一番の環境だ。君なら思う存分、好きな剣と学問に打ち込めるだろう」


――冷静に考えれば、申し分のない話だった。


(合理的に考えれば、“最善”の条件だ)


頭の中で計算する。もし受ければ、家も楽になるし、生活にも不自由はなくなる。私自身にとっても、能力を発揮できる最高の舞台だ。


けれど――言葉が出ない。


「……司くん?」


私は、初めて自分が“決断できない”ことに戸惑った。


なぜ、首を縦に振れない?


考えても、理由が出てこない。ただ、心の奥がきゅっと疼く。


(――試衛館に、帰りたい)


その思いが、頭よりも先に、胸の底から湧きあがってくる。


「……すみません、伊東先生。とてもありがたいお話ですが……私は、やっぱり試衛館に残ります」


一瞬、伊東先生の目が驚きで揺れた。


「なぜだ? 理屈で考えれば、君には得しかない話だぞ?」


「……理屈で選べないんです。私は……“あそこ”に帰りたい。“みんな”がいるあの場所に」


そのとき、初めて自分の口から「帰りたい」という言葉がこぼれた。


私はようやく知った。


帰る場所、守りたい場所、離れたくない人たち――それが自分の心に、こんなに深く根付いていたことを。


伊東先生はしばらく沈黙していたが、やがて静かに笑った。


「……惜しいな。でも、それも悪くない選択だ。いつでもまた来てくれ。ああ、出稽古代はたっぷり弾んでおいたからな」


私は、頭を下げた。


「ありがとうございます、伊東先生」


(合理性じゃない。これは、私が“人間”として選んだ答えなんだ――)


私は初めて、自分の「居場所」というものに執着している自分に気づいた。


――――


その夜、練兵館。


桂小五郎が縁側で煙管をくゆらせていた。隣では、坂本龍馬が湯呑を手ににやにやと笑っている。


「なぁ桂さん。おまん、司のことがだいぶ気になるがやろ?」


「……何を言うんだ君は。私は、単にあの子の将来を心配しているだけだ」


「またまた~、江戸一番の色男が、女の顔見て“心配”とか言うがかえ?」


「……まったく、君というやつは」


桂は煙管の先で龍馬をたしなめたが、その顔は少し赤かった。


「でも、あの子――もう、帰る場所、決めたようやなぁ。誰にも渡せんものを見つけた、っちゅう顔しちょったぜ」


龍馬はどこか誇らしげにそう言い、桂も静かに頷いた。


――司はまだ知らない。

自分の一つの決断が、周囲の心をこれほど大きく波立たせていることを。


それでも、彼女は静かに夜道を歩いていた。

自分の「帰る場所」――そのぬくもりだけを胸に抱いて。


(ああ、早くみんなの顔が見たい)


それが、彼女の心をあたためる、たったひとつの“本音”だった。





――帰る場所、そしてはじまり――



伊東道場から帰ってきた夜、私はしみじみと実感していた。

(――やっぱり、ここが私の帰る場所だ)


薄暗い廊下を歩くと、どこからか土方さんの怒鳴り声と左之助の豪快な笑い声が聞こえてくる。勇さんは、剣の稽古が終わったばかりの汗まみれの道着で、みつ姉さんにまた怒られている。


そんな騒がしさの中に、私は静かに溶け込んでいた。


「司、お帰り! 今日も遅かったな」

「どこでサボってたんだ? また賭けでもやってたんじゃないだろうな」

「違います。出稽古です」


いつものやりとり。みんなの視線も声も、温かい。


私は、ふと思い立って山南さんを呼び止めた。


「山南さん、勉強会をまた開きませんか? 今度は、みんなで“時勢”について話してみたいんです」


「……尊王攘夷、ですね?」

「はい。これからの時代を生き抜くには、知識も必要だと思うんです」


山南さんはすぐに賛成してくれて、翌日から試衛館の一角で「勉強会」が始まった。


近藤さんや土方さん、左之助、新八さん、そして平助――みんな真剣に話を聞いてくれる。私は、これまでの知識を噛み砕き、山南さんのサポートを受けながら説明した。


「攘夷」とは何か。なぜ「尊王」が必要なのか。外国と戦う意味は? どんな未来が待っているのか。


「……なぁ、司。お前は本気で攘夷ができると思うのか?」

土方さんが鋭い目で問いかけてくる。


「現状の武力と経済力を考えれば、非現実的です。だけど……それでも多くの人がそれを望んでいる。だから、知っておくべきだと思います」


私は、そう“プログラム”どおりに答えた。


「……ったく、夢みたいな話だな」

土方さんは鼻で笑い、すぐに黙った。


その時だった。


「お久しぶりですね、皆さん」

静かな声。ふと見れば、桂さんが廊下の陰から現れた。


私は、少しだけ表情を緩めた。


「桂先生、ようこそ」


桂さんは私をまっすぐに見つめ、席に加わる。

「君の考えは、実に理路整然としている。……けれど、冷たいな」

「私の目的は、“未来を支える”ことです。桂さんが未来に進めるように、知識を伝えるだけ」


その言葉に、桂さんは寂しげに微笑んだ。

「……私は、君と未来を並んで歩きたいだけなのかもしれない」


私には、その意味がよく分からなかった。ただ、桂さんの熱い視線が、私に向いていることだけは理解できた。


一方で、土方さんの空気が明らかにピリついた。

「……あんた、何しに来た」

「君たちの“志”がどこに向かうのか、見届けに来ただけですよ」


この小さな勉強会は、やがて時代の渦に巻き込まれていく試衛館の序章になった。


――――


夜。


座敷で静かに帳簿をつけていると、平助がそばに寄ってきた。


「ねぇ司姉ちゃん、今度また手合わせしようよ! 今日の話、難しかったけど面白かった!」


私は、「……うん」と素直に微笑んだ。


平助と話していると、自然と頬が緩む。

(私、こんなふうに笑うんだ)


それは、プログラムでも分析でもない。

“楽しい”という感情に、少しだけ触れている気がした。


「じゃあまた、稽古場でね!」


平助が駆けていく。その背中を、私は無意識に目で追った。


(帰る場所がある。守りたいものがある。それが、こんなにあたたかいことだったなんて――)


これから先、歴史がどう流れても、

私はこの場所と、この人たちと共に歩いていく。


心が、そう決めていた。

平助「左之助さん、これからよろしくお願いします!」


左之助「おう、こっちこそ頼むぜ。……んで、お前いくつだ?」


平助「え? 僕ですか? 今年十六です!」


左之助「……ってことは、司より一つ上か。見えねぇな、あいつ落ち着きすぎてて」


平助「司姉ちゃん、しっかりしてますから。けど僕のほうが“兄貴分”ってことでいいですよね?」


左之助「まあ、年はな。でも気合いと根性はまだまだ俺が兄貴分だぞ」


平助「む、負けませんよ!」

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