第八幕 恋心の隣で、剣は問う:前編
司「左之助、子どもの頃って何してた?」
左之助「俺か? 川で魚獲ったり、山で遊んだりだな。……司は?」
司「私は……昔、ジローと正道って子がいて、一緒によく走り回ってた。石投げとか、木登りとか。ジローは屋敷から抜け出してきてさ、正道はどこまでもついてきて……。みんなでよく、秘密基地ごっこしてたんだ。」
左之助「へぇ……そのジローと正道って、今はどうしてるんだ?」
司「さあ……正道はたぶん、京にいると思うけど。ジローは……よくわからない。あの家は厳しかったし、手紙も返ってこなかったし。」
左之助「ふーん。なんか、寂しいな。……でも、司も昔からやんちゃだったんだな。」
司「そうかも。左之助みたいに魚獲るのは苦手だけど、木登りは得意だった。」
左之助「今度、一緒にやってみるか? 木登り。」
司「ふふ、いいね。……でも、ジローと正道にも、また会えるといいなって、時々思うよ。」
左之助「きっと、会えるさ。世の中、案外狭いからな。」
司「……そうだといいな。」
――日常と恋心――
(左之助視点)
最近、どうも調子が狂う。
いや、調子が狂う原因は分かっている。――司だ。
あの子ときたら、とんでもなく美人なくせに、妙な距離感でずけずけと懐に入ってくる。
たとえば道場の帰り道、俺の腕に平気でぶら下がってくるし、油断してると膝の上で昼寝まで始めやがる。
「なあ左之助、あの雲、なんの形に見える?」
「さぁな。司は?」
「うーん……団子」
「お前は本当に、食い気だけだな」
「だって美味しいもん」
屈託のない笑顔で、平然と頬を寄せてくる。まったく、女の子ってやつは普通もう少し恥じらいがあるもんだと思っていたけど――こいつの場合、“恥じらい”なんて存在しないのかもしれない。
まあ、そんな調子で今日も、俺と司は試衛館の門を並んで出た。
「今日は練兵館、行こうよ!」
司が無邪気に言い出す。
「え、また?お前、あそこまで歩くの、結構しんどいだろ」
「大丈夫、左之助がいればどこまでも歩けるよ」
にこりと笑われて、心臓が一瞬止まりかける。
――ったく、そういうのを“可愛い”って言うんだよ。自覚しろよ……。
でも、こいつに言っても無駄だろうな。
こいつに“女”を意識させる言葉を投げても、きっと「どうして?私は私だよ」って、キョトンとした顔をするだけだ。
それなのに、どうして俺だけこんなに意識してしまうんだろう。
「ほら左之助、早く!」
ぐいっと手を引かれた。小さな手は温かい。その手を、俺は思わず握り返してしまう。
道場へ向かう道すがら、司が無邪気に話しかけてくる。
「ねぇ左之助、もし私たちが夫婦になったらさ、どんな家がいいと思う?」
「……は?」
「私は小さくても庭があって、梅の木があったらいいな」
「……はあ……」
まるで恋愛の“れ”の字もない、夢見る子どものような台詞。
それがまた、俺を余計に混乱させる。
(こんな調子で、こっちがドキドキしてんの、馬鹿みてぇじゃねぇか)
――まいったな、俺はたぶん、もう、司のことが好きなんだろう。
けれど、本人にそれを悟られるのは、なぜか怖かった。
――永倉新八、来訪――
試衛館に新しい風が吹き込んだのは、そんな日常の只中だった。
「お邪魔します」
門を開けて現れたのは、背筋を伸ばした若者。年は俺より少し下くらいか。だが、その目つきは実に真面目そうで、着流しの着こなしもどこか堅い。
「練兵館で修行していた永倉新八です。お噂はかねがね――ぜひ手合わせ願いたく」
凛とした声だった。
司が「新八さん!」と声を弾ませる。
「えっ、知り合い?」
「ううん、名前だけ。強いって有名だから!」
「へぇ、そうなんだ」
道場の面々も興味津々で永倉を迎えた。
その日、俺たちは自然な流れで試合の段取りになった。
「司、出るか?」
「いいよ。じゃあ、左之助、後で相手してね」
司と永倉が向かい合う。
永倉は一礼して、静かに構えた。司も、いつもの落ち着いた構えで応える。
一合、二合。剣が交錯する音は、張りつめた空気の中で研ぎ澄まされていた。
正直、永倉の動きは筋がいい。いや、相当強い。司が軽々と打ち込める相手じゃない。
「へぇ……やるな、あの真面目くん」
俺も脇で、思わず手に汗を握っていた。
だが、三合目を交えた瞬間だった。
「てめぇら、騒ぐんじゃねぇ!」
突然、道場の外から怒号が響く。見ると、乱暴な浪人者が数人、無礼にも庭を荒らしている。
司が反応して、すぐ駆け寄ろうとする。だが永倉が一歩前に出た。
「ここは、私に任せてください」
あっという間だった。
永倉の動きは素早く、冷静だった。一人、また一人と浪人をあしらい、残りを追い払ってしまう。
剣筋は正確無比――決して無駄な力は使わない。まさに“実力者”だった。
見事な立ち回りに、道場の皆が「おおっ!」と歓声を上げた。
浪人たちが退散し、永倉が頭を下げて戻ってくる。
「失礼しました。……試合の続き、お願いできますか」
司がぱちぱちと手を叩いて笑った。
「かっこよかった! 新八さん、すごい!」
……こいつ、こういう時は素直に褒めるんだよな。
俺も思わず、「おう、やるじゃねえか」と声をかけた。
「いえ、まだまだです」
永倉は照れたように笑った。
――新たなコンビの予感――
試合は最後まで白熱した。
結局、引き分けという形になったが、司も新八も、お互いの技量を認め合っていた。
「左之助さん、あなたも強いと聞きました。ぜひ、今度お手合わせを」
「おう、望むところだ!」
堅物そうなやつだが、話してみると根が素直で、どこか愛嬌がある。
司もすぐに打ち解け、三人で庭先で団子を分け合って食べた。
「新八さんって、真面目だけど冗談も言うんだね」
「はは、いや、私は不器用なだけですよ」
「いや、不器用じゃないだろ。俺よりしっかりしてるしな」
「左之助さんは豪快ですけど、細かいことは苦手でしょう?」
「うるせーな。お前みたいな奴がいれば、俺も楽できそうだな」
自然と、俺と永倉は言葉を交わしていた。
(……なんだろうな。こいつとはうまくやれそうだ)
まるで反対の性格なのに、不思議と気が合う感じがした。
「司、俺と新八、どっちが頼りになると思う?」
俺が聞くと、司は首をかしげて微笑む。
「二人とも、違う意味で頼りになるよ」
「そりゃずるいだろ!」
「本当のことだから」
呆れて笑いあいながら、三人で肩を並べて座っていた。
(こんな日が、ずっと続けばいい――)
ふと、そんなことを思ってしまった自分に驚いた。
それでも、司の無防備な笑顔を見ていると、俺はやっぱりどうしようもなく、こいつが好きなんだと痛感する。
――日が傾いて――
その日の夕暮れ、道場の廊下で、永倉と並んで話していた。
「左之助さん」
「ん?」
「司さんは、あなたにとても懐いていますね」
「そ、そうか?」
「ええ、分かります。……羨ましいです」
新八が真顔でそう言ったとき、俺は何も言い返せなかった。
「……でも、俺、まだ司のこと、よく分かってねぇんだ」
自分でも驚くくらい、素直な言葉が口をついて出た。
新八は微笑んだ。
「それでいいんだと思います。……俺も、これからもっと知りたい」
(……こいつとは、やっぱり、友達になれる気がする)
司が俺たちのもとへ駆け寄ってくる。
「二人とも、まだ帰らないの?」
「おう、行くぞ」
夕焼けの中、三人で連れ立って歩き始めた。
俺と新八――
正反対だけど、不思議と合う。
新しい“日常”が、またここから始まる気がしていた。
そして俺は、今日も、司の無邪気な横顔に振り回される。
――夜風と焚き火と、命の重さ――
(司視点)
「多摩で賊が出た――」
その報せは突然、試衛館に飛び込んできた。
昼下がりの道場。気怠い午後の空気が、一瞬で張り詰めたものに変わる。
「俺が行く。トシ、山南、源さん、頼む。宮川家の者たちには、俺の名で伝えろ」
勇さん――近藤勇は、すぐさま判断を下した。土方さんも「心得た」と無駄な言葉を挟まない。山南さんも静かに、源三郎さんはやや緊張した面持ちで、それぞれ支度に入った。
私は少し離れた廊下の端から、その様子を観察していた。
(賊。……多摩。)
行かない理由は、特になかった。
むしろ――自分が行くべきだと思った。
「左之助、ちょっと」
道場の脇で、私は左之助を呼び止めた。
「賊討伐、行くでしょ?」
「……お前も行くつもりか」
「うん」
「新八にも声かけてやるか」
「そうして」
新八さんは、「女性を危険な目に遭わせるわけにはいかない」と言い張ったが、私は聞く耳を持たなかった。
「新八さん、私は役に立つ。あなたより弱いとは思わないし、足手まといにはならない」
「でも……!」
「それとも、新八さんは、私の剣を見たことがないの?」
その一言で、何も言えなくなった。
私は手早く支度を整えた。剣帯、草履、予備の手ぬぐいと包帯。それに、乾し飯をいくつか。
(合理的に考えて、行動の目的は“討伐”だ。最善手を打つだけ)
出発の時、勇さんは最初だけ怪訝な顔をした。
「司、お前……」
「私は、行きます」
まっすぐに言った。
勇さんは少しだけ眉をひそめて、それ以上は何も言わなかった。
――
宮川家に着く頃には、陽はすっかり沈み、夜風が強くなっていた。
「今夜はここで泊まる。明朝、賊の動きを探る」
勇さんが言った。
囲炉裏の脇で、山南さんが淡々と炊事の支度をする。源三郎さんは戸締まりを念入りに確認し、左之助と永倉は警備の分担を決めていた。
私は焚き火のそばに座り、持参した包帯の点検をしていた。
やがて、全員が焚き火を囲んだ。
赤々と揺れる炎を前にして、自然と沈黙が落ちる。
(焚き火の光は、みんなの顔を奇妙に照らし出す。こういうとき、人は本音を語ることが多い)
最初に口を開いたのは、勇さんだった。
「……賊といっても、事情があるのかもしれない。できれば斬りたくはないんだ」
勇さんは手のひらを炎にかざしたまま、ぽつりと言った。
「人を斬るのは、剣士の本意じゃねぇ。俺たちにとっても――重いことだ」
源三郎さんが、「そうですね」と頷いた。
だが、土方さんは納得しなかった。
「甘いぜ、かっちゃん。斬らなきゃ斬られる。こっちだって、家族や道場を守るためだろ。容赦は無用だ」
「でも土方さん、何も殺さなくたって――」
「馬鹿言うな」
土方さんの語気が強くなる。
みんなの視線が自然と私に集まる。
私は、淡々と告げた。
「合理的に考えれば、敵は排除すべきです。生かして返せば、再び襲撃されるリスクが高まる。目的が“道場と家族を守る”ことなら、敵は確実に排除した方が、被害も少なくて済みます」
私は表情を変えずに続けた。
「賊がどんな理由であれ、ここで情けをかければ、未来の被害が増えるだけ。必要な数を“減らす”ことが、最も確実です。非効率な情は不要です」
その場が、一気に静まりかえった。
勇さんが、じっと私を見ていた。
「……司、お前、それが本気か」
「はい」
「……そうか」
彼は、ふっと顔をそむけた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
左之助は黙って炎を見つめていた。永倉も口を開こうとしなかった。
沈黙を破ったのは山南さんだった。
「……人の命に、損得や効率だけで判断を下すのは――危うい考え方だと思いますよ、司君」
「理屈ではそうでも、実際には理屈だけじゃ回らない。そこが“人の心”だ」
山南さんの静かな声に、私は少し戸惑った。
(なぜ“合理的”なだけで、責められるのだろう。なぜ皆は、感情で判断するのだろう)
土方さんが肩をすくめて言った。
「ま、俺は司に賛成だぜ。こっちがやられるくらいなら、遠慮なく斬る。迷いは死を招く」
左之助も珍しく真面目な顔で口を開く。
「でもな、司。お前の言い方だと、どっか“人間”が抜けてる気がするぜ」
「……人間?」
「俺らは人形じゃねぇ。斬ったあと、必ず何かが残る。……それでもやるしかねぇから、腹ぁ括るんだよ」
左之助の声は、少し苦しげだった。
私は、何も言い返せなかった。
(なぜ、みんなはこんなに“迷う”のだろう。なぜ、躊躇うのだろう)
私はまだ――その答えを知らなかった。
――守る者たちの夜――
焚き火が消え、家屋の戸が固く閉ざされた頃、村の人々が小さな宴を開いてくれた。
戦いの前夜だというのに、膳には素朴なご馳走が並び、囲炉裏端では笑い声が響いている。
(この人たちは……強い)
私はその輪の端で、焼き魚の小骨を指先で外しながら、静かに皆を観察していた。
勇さんは、村の長老に深く頭を下げている。
「ご心配おかけしますが、必ずお守りします」
その表情は穏やかで、けれど決意が滲んでいる。
(自分の家族でない者に、ここまでの誓いを……)
私は、感情ではなく“責任”として割り切るしかなかった。
宴が進み、皆の頬が赤らみ始めると、左之助が大きな声で私を呼んだ。
「司、お前、魚の頭食えるか?」
「食べられるけど、無理して食べる意味はないと思う」
「だよなぁ、俺も好きじゃねぇんだ。でもこういう時は全部食うもんだって母ちゃんに叩き込まれてさ……」
そう言って、ひょいと私の皿に自分の頭を載せてきた。
「……新八さん、食べます?」
「いや、俺も苦手だ」
新八さんは、妙に律儀で真面目な男だ。宴の席でも背筋が伸び、ひときわ落ち着いている。
ふと、左之助がぐいと盃を傾けながら言う。
「なぁ、近藤さん」
「なんだ」
「司のこと、俺が守るからな」
唐突な宣言に、みんなの目が向く。
土方さんは鼻で笑ったが、近藤さんは真顔で頷いた。
「……お前だけじゃねぇ、俺もだ」
「俺もです」
新八さんまで静かに言った。
「女の子だからって意味じゃない。司、お前は時々自分の心より理屈を選びすぎる。危うい時は俺が止める」
「……心配しなくていい」
私は平静を装った。
だが、その輪の中心で皆が“私のため”を語る不思議さに、胸が少しだけざわついた。
(私のことを守ろうとする人間が、こんなにいる……?)
分からなかった。
守る理由も、守られる価値も。
けれど、その優しい空気が、なぜか遠く感じた。
やがて、宴も終わりに近づき、誰もが少しだけ陽気になっていた。
「明日は早い。今日は早めに休め」
勇さんが全員に声をかける。
私は、囲炉裏端に残った茶碗をまとめているふりをしながら、ふと天井の黒い梁を見上げた。
外は静かな夜だった。
(……本当に、このまま何も起きないでほしい)
そう思ったのは、初めてだったかもしれない。
皆が床に就いた頃、私は一人、納戸の片隅で刀を膝に置いて座っていた。
頭の中では、明日どんな動きを取るべきか、何度も“手順”をなぞっていた。
(合理的に、最善の配置。左之助は打ち合いに強い。新八さんは守りが堅い。私は機動力……)
でも、なぜだかその計算に“感情”が混じる。
(左之助は、私の盾になろうとするだろう。新八さんは必ず私の背を預かる。勇さんは、皆の中心に立つ……)
不思議なぬくもりが、胸の奥で小さなノイズになった。
(……情か、理か)
私には、まだ分からない。
夜も更け、全てが静まったときだった。
突然、外から激しい犬の鳴き声が響いた。
「……!」
寝ていた皆が、同時に跳ね起きる。
一瞬で酒気が抜け、目が鋭くなる。
外で叫び声、馬の嘶き、何かが叩きつけられる音――
勇さんがすぐに叫んだ。
「全員、武器を取れ!」
左之助は裸足のまま走り出し、新八さんは素早く脇差を手に取った。
私は、すでに刀を握っていた。
土間の戸が激しく叩かれる。
村の男たちが血相を変えて駆け込んできた。
「賊だ! 西の竹藪から回り込んできた!」
「勇さん、こっちだ!」
酒宴のぬるい空気は一瞬で消え、全てが“戦”に切り替わった。
私は一陣の風のように、みんなの後を追った。
冷たい夜風。
手のひらの汗。
鼓動が、やけに速い。
(……これが、“戦場”の始まり)
誰も、もう“守る”とは口にしない。
ただ、皆の眼が――火を灯したように輝いていた。
私は、剣を握る。
理屈も、情も、すべてはこの一瞬のために。
司「ねえ左之助、人を斬ったことある?」
左之助「……あるよ。」
司「どんな感じだった?」
左之助「うーん……そりゃ、気分のいいもんじゃねぇな。最初は手が震えた。でも、それどころじゃなかった。やらなきゃ、やられるからな。」
司「血、いっぱい出た?」
左之助「まあな。……目に焼き付くもんだよ。」
司「痛いって言われた?」
左之助「……いや、声を上げる暇もなかった。」
司「心が苦しくなった?」
左之助「……そりゃ、少しは。でもな、そうしなきゃ守れねぇこともある。」
司「その後、眠れなくなった?」
左之助「酒飲んで、無理やり寝たこともあるさ。……でも、慣れちまうもんだな。」
司「……人を斬るって、どんな感覚なんだろう。」
左之助「司、お前には分からなくていいよ。……できれば、斬らずに済むなら、それが一番いい。」
司「でも、知りたい。左之助がどうして剣を振るうのか、どうして生きてきたのか。」
左之助「お前は、変わってるな。……でも、そういうとこ、嫌いじゃねぇよ。」
司「ありがと。でも、また今度、もっと詳しく教えてね。」
左之助「おいおい、怖い話ばっかり聞きたがるな、ほんと。」
司「だって気になるんだもん。」