第七幕 腐れ縁と若武者たち
司「ねえ、土方さん。武士って、何?」
土方「は? 急にどうした?」
司「みんな、なりたいって言うけど……何が違うの?」
土方「……刀を差すこと、だけじゃねえよ。覚悟とか、筋とか、そういうもんだ」
司「覚悟?」
土方「そうだ。どこで死んでもいい、って顔して生きるやつが武士だ」
司「それだけで、強くなれる?」
土方「強くなるために武士になるんじゃねぇ。武士になるから、強くなろうとすんだよ」
司「……よく分からないけど、土方さんは、もう武士みたいだね」
土方「バカ言え。俺はまだ百姓のガキだ。――でも、司、お前だけには負けたくねぇんだ」
司「ふふ、私も負けませんよ」
――腐れ縁の春、火鉢の前で――
(司視点)
多摩の春は、東京の下町よりも空が広く、空気が澄んでいた。
田畑の向こうに低い山が連なり、用水のせせらぎと畦道の草の匂い。どこか懐かしいような、それでいて私には馴染みきれない世界だった。
「司、ちょっと持ってくれ!」
勇さんが、米俵をひょいと担いで門をくぐる。私は素早く袖をまくり、畑の肥やし桶を受け取った。
「よっと。ほんとに、力あるな、お前は」
「勇さんこそ。……そんな重いの、よく運べますね」
「慣れだよ、慣れ! 司、こっち手伝ってくれ!」
勇さんは声も態度も大きい。けれど、子どものように真っすぐだ。
その後ろで、黙々と小荷物を運ぶ男――
「トシ!」と呼ばれて、ぶっきらぼうに「はいはい」と返事するのが、土方歳三だった。
「石田さんのとこの子は、本当に真面目だなぁ」
「黙ってやってりゃ済むことだろ、かっちゃん」
二人の間には、何か特殊な空気が流れていた。
勇さんが土方さんを見る目は、まるで弟分を構う兄のようで。土方さんの返事は素っ気ないが、時折どこか嬉しそうだ。
(――これが、腐れ縁ってやつか)
私は二人を観察する。
勇さんは豪快だが、細かい気配りを忘れない。土方さんは無愛想で、よく勇さんに毒を吐く。
けれど、不思議なことに、どちらも相手のことを完全に理解しているように見えた。
お互いに遠慮がない。強がっているくせに、時々それが素になる瞬間がある。
昼休み。母屋の縁側で、みんなで握り飯を食べる。勇さんの母親は豪快で、土方さんにも平等に大きな飯を握っていた。
「トシ、もっと食えよ。育ち盛りだろ?」
「うるせぇな。かっちゃんだって、昔はひょろひょろだったくせに」
(……意地悪を言いながらも、飯を一番たくさん食べてるのは、やっぱり勇さんだった)
私は二人の様子をじっと見ていた。
どこか懐かしい。けれど、私にはなかった光景だ。
午後になると、納屋の奥で火鉢を囲みながら、土方さんが黙々と紙を切り、薬包紙に散薬を詰めている。
勇さんはその隣で竹刀の手入れ。私は雑巾を片手に、黙って二人を眺めていた。
「かっちゃん、試衛館の話だけどさ……」
「ん?」
「やっぱり俺には無理かもしれねぇ。武士の家じゃねぇし、剣の道もな……」
土方さんの手が止まる。
火鉢の灰に光が差し込む。
勇さんは、まるで何もなかったように竹刀を磨き続けている。
「何言ってんだよ。トシは俺より強えぇじゃねぇか」
「……そんなこと、ねぇよ。俺は、ただの百姓のガキだ。お前みたいに、大きなことはできねぇ」
私は、そのやり取りを聞いていた。
土方さんは強い目をしているけど、その奥に――揺れる影がある。
「強くなりたい」
「武士になりたい」
そう願う気持ちと、「百姓の出である」という後ろめたさ。その両方が、ぐるぐると土方さんを苦しめている。
私は黙って、火鉢の灰をいじるふりをした。
その間も、二人は喧嘩でも始めそうな空気を漂わせている。
「いいんだよ。無理すんなよ、トシ」
「お前に言われたくねぇよ」
勇さんの声が、不意に優しくなる。
土方さんは、じっと火鉢を見つめている。
(……このままじゃ、進めないんだろうな)
私は、火鉢の前で、薬包紙をまとめる土方さんの横に座った。
「土方さん」
「ん?」
「素直になったほうが、早いですよ」
一瞬、場の空気が凍った。
「……は?」
私は、言葉を選ぶつもりはなかった。
今の土方さんに必要なのは、理屈じゃなくて、一歩を踏み出す勇気だと、私は“判断”したからだ。
「自分を認められないのは、もったいないです。土方さん、剣が好きでしょう? 武士になりたいんでしょう?」
土方さんは、私の方を睨むように見た。
でも、その視線の奥に、ほんの少し――安堵と驚きが混ざっていた。
「……そうかもな。でも、俺は……」
「でも、何もないです。やりたいなら、やればいい。自分が一番知ってるんでしょう?」
勇さんが、ふっと笑った。
「そうだよ、トシ。俺もそう思うぜ」
土方さんはしばらく沈黙した。
薬包紙を一つ一つ指で整えながら、火鉢の灰をじっと見つめる。
「……俺は、やっぱり、悔しいんだよ。どうしても、武士になりたい。かっちゃんみたいになりたい。でも、怖ぇんだ。踏み出したら、もう戻れねぇ気がして」
私は、その心の揺れを、はっきりと“観察”した。
百姓の家に生まれ、武士になるために全てを懸けようとする矛盾。
自分を否定したくない。でも、過去の自分も大切にしたい。
そのプライドと憧れのせめぎ合い――
それは、私には理解できない「人間らしさ」だった。
でも、分からないなりに言葉を選んだ。
「怖いなら、なおさら前に進んだほうがいいと思います。勇さんと一緒にいたいからじゃないですか?」
土方さんは、肩を震わせて笑った。
「……ガキのくせに、よく見てやがる」
「ガキじゃありません。私は、司です」
勇さんが大きく手を叩いて、笑い声をあげた。
「ははっ、司に言われちゃおしまいだな、トシ! でも、司の言う通りだぜ。お前は自分をもっと信じろよ」
火鉢の前に、しばらく静けさが降りた。
外では、春の風が畑を撫でていく。
土方さんは、深く息を吐いた。
「……かっちゃん。司。……ありがとな」
勇さんは、黙って土方さんの肩を叩いた。
それだけで、何も言葉はいらなかった。
――運命の拾い物、男前の庭先――
(司視点)
多摩から江戸への帰り道だった。
私は「疲れた」とすら思わないくらい、意識のほとんどが観察に費やされていた。
春の陽射し、田畑の青、勇さんと土方さんの言葉。
自分以外の誰かと世界が接続していく――その“進行”に、私はどこか安心を覚えていた。
けれど、道の脇――湿った草むらの上に、異物は転がっていた。
「……司、どうした?」
勇さんが、私の足が止まったことに気づく。
その先にあるのは、汚れた着物、伸びきった髪、顔を覆う泥と血。
一瞬、私は立ち止まったまま、判断する。
(無視したほうが合理的。介入はリスクが高い。道端の行き倒れに関わって、良いことはない)
けれど――
「……生きてるか?」
勇さんがずかずかと近寄る。
私は仕方なく後を追う。
――人の“縁”が大事、とされているこの時代で、無視しきれる自信はなかった。
「おい、起きろ。おーい!」
近藤さんの声が響く。
男はうっすら目を開けた。
意識が混濁している。でも、その瞳にはぎらりとした光が残っていた。
「なんだ、てめぇら……」
「道端で野垂れ死ぬのはつまらんぞ」
「……めし、食いてぇ……」
近藤さんは笑った。「司、拾い物だ。お前が見つけたんだから、責任もって連れて帰れ」
私は呆れたが、拒否する理由もない。
人助けは“善行”――プログラム的にも問題なし。
こうして、私たちは見知らぬ男を背負って試衛館へ連れ帰った。
男が最初に発したのは、感謝の言葉ではなく「飯はまだか」だった。
近藤さんは「豪快な奴だ」と笑い、みつ姉さんは「洗い場で全身洗ってきなさい」と容赦なく桶を持たせた。
私は味噌汁を温め、飯をよそい、ありあわせのおかずを小鉢に盛った。
男は、獣のような勢いでそれらを平らげた。
口の端に米粒をつけながら、「うめぇ、うめぇ」と何度も言う。
正直、見ていて爽快だった。
どこか、彼の中に“生きること”への執着が剥き出しで、理屈が通じない。
「おかわり、あるか?」
「……はい、どうぞ」
私は茶碗を差し出した。
食事が終わると、男はみつ姉さんに促され、風呂場に向かった。
少しして、濡れた髪を片手でかきあげ、堂々と座敷に戻ってきた。
私は、一瞬だけ目を見張った。
長身。眉目秀麗。日焼けした肌に、鋭い目つき。
泥と垢に隠れていたが――この男は、相当に“整った”顔立ちをしている。
(なるほど、こういう“美形”は、この時代でも一目でわかる)
「……お前、どこから来た?」
「浪人だよ、江戸の外れから流れてきた。名前は――原田左之助だ」
(原田左之助。新撰組十番隊組長。槍の名手。豪放磊落。そして、短気)
私は内心で“時代の歯車”が音を立てるのを感じていた。
その夜、座敷で皆と並んで飯を食べていると、左之助がぽつりと言った。
「なぁ司、お前、すげえ美人だな」
私はためらわず、答えた。
「はい。自分で言うのもなんですが、私はかなり美人です。子ども時代からよく言われます」
左之助は素で笑った。「自信あんな! いいじゃねぇか」
「左之助さんも、すごくかっこいいですよ。もし私と左之助さんが子どもを作ったら、きっと顔面偏差値の高い子どもが生まれますね」
座は一瞬、静まり返った。
勇さんが茶を吹いた。「司、お前な……」
みつ姉さんは溜め息をついて「……この妹は本当に……」
でも左之助は、爆笑した。「お前、面白いなぁ! 俺、そういうの好きだぜ」
私は「でしょう?」とだけ言った。
この時点で、左之助と私は妙な“対等感”を持った。
彼は遠慮がなく、私も遠慮しない。
上下も、性別も、年齢も、全部どうでもよくなる相手――
こういう人とは、たぶん、長く関わるだろうと直感した。
数日後、試衛館に土方さんが現れた。
門をくぐるその背中は、いつもよりもほんの少しだけ、張りつめて見えた。
「入門したい。……俺に、剣を教えてくれ」
勇さんは満面の笑みで迎えた。「やっと来たか、トシ!」
私は、心の奥にじんわりとした温度が生まれるのを感じていた。
これが「嬉しい」という感情なのか、まだわからない。でも、悪くなかった。
土方さんは、稽古の合間にわざと私の髪をぐしゃぐしゃにする。
私は「やめてください」と言うが、本気で嫌じゃない。
彼の手はいつも力強く、けれど、どこか照れ隠しのような優しさがあった。
庭先で、左之助と土方さんが初めて顔を合わせた。
「お前が原田左之助か。噂は聞いてるぜ」
「おう、そっちこそ土方歳三だな。武士のくせに百姓面しやがって」
火花が散るような視線。
互いに身長も体格も近い。両方とも、目つきが鋭い。
「司、お前、どっちが男前だと思う?」
いきなり左之助が言った。
土方さんも、じっとこちらを見る。
「どうせ顔だけで選ぶんだろ」
「いやいや、性格も大事だぜ」
勇さんが呆れている。「くだらねぇ……男は中身だろうが」
でも二人は本気だ。
「司、判定頼む!」
私は、冷静に二人を分析した。
「顔だけなら、左之助の勝ちです」
左之助が両手をあげてガッツポーズ。「やったぁ!」
土方さんは明らかに拗ねて、「どうせ俺は愛嬌ねぇよ」とぼそり。
「でも、中身は土方さんも悪くありませんよ。気が利きますし、よく働きます」
左之助は「そりゃお前、褒めてるのか?」と笑い、土方さんは「うるせぇな」と鼻を鳴らした。
これをきっかけに、左之助は私を「司」、私は彼を「左之助」と呼ぶようになった。
変な親密さ。それが土方さんの対抗心にさらに火をつける。
――賑やかな日々、動き始める歯車――
(司視点)
土方さんと左之助が加わってから、試衛館は以前よりずっと騒がしく、活気に満ちていた。
どちらも、規格外の強さと個性を持つ“有力な若者”だ。門下生たちも最初は距離を置いていたが、次第に彼らのやり合いに巻き込まれ、道場の空気が一変した。
「おい左之助! 今日こそ一本取ってやるぞ!」
「へへっ、上等だ、土方さん!」
そんな叫び声と、木刀のぶつかる乾いた音が、ほぼ毎日のように響く。
土方さんは、山南さんともよく張り合っていた。学問に関しても決して譲らず、稽古後にやたらと理屈をこねる。
山南さんは穏やかそうに見えて、実は負けず嫌いだ。反りが合わないと言い合いながらも、どこか楽しそうにしている。
私はというと――
そんな彼らのやりとりを、ただ面白がりながら冷静に観察していた。
「なんだよ司、また人の顔じっと見て、何か研究してんのか?」
左之助がニヤニヤしながら声をかけてくる。
「はい。今日は土方さんが3回滑って転んだので、原因を分析してました」
「やかましい!」
土方さんが顔をしかめて突っ込んでくる。
私は淡々と記録する。彼らの筋肉の動き、足運び、喋り方――全部データだ。
面白い、とは思う。たぶん、普通の子どもよりも「面白がって」いるのだろう。
でも、不思議なことに、こうして誰かと笑い合っても、胸の内はあまり反応しない。
どこか薄いガラス越しに世界を見ている気分だ。
私は、皆と過ごすこの賑やかな時間を、“自分のための感情”としては受け取れていない。
(私の心は、どこまでいっても、鈍いままなのかもしれない)
剣――竹刀を握って構えるときだけ、少しだけ心が波立つ。
刃筋、呼吸、間合い。そういうものにだけ、微かな“熱”を感じる。
でも、日常の他愛ない笑いや喧嘩では、心はどこまでも静かだ。
私は「面白い」と言いながら、どこかで諦めていた。
たぶん、私はこういう人間なのだろう、と。
けれど――
この日々は確かに、何かが変わり始めていると感じさせるものだった。
勇さんは新しい弟子たちに目を細めているし、みつ姉さんは相変わらず薙刀で二人を追い回している。
道場の庭は笑い声で満ち、夜には土方さんと左之助のくだらない喧嘩が絶えない。
みんなが、何かをつかみたくて、必死に前を向いている。
私は静かに、それを記録する。
いつか、この賑やかさが終わりを告げる日が来ることを知っているから。
まだ誰も知らない。
京で待つ激動の日々を。
けれど、この日常こそが、それぞれの運命を静かに形作っている――
その中心にいる私は、剣を握り、今日も変わらずに生きている。
新しい時代への歯車が、確かに音を立て始めていた。
左之助「なあ司、この前の“子ども作ったら美形”って話、あれ本気だったのか?」
司「え? 本気というか、事実を述べただけだよ」
左之助「やっぱり、司は俺に惚れてんだな!」
司「……“惚れる”って、どういう感情?」
左之助「はぁ!? いや、好きってことだろ!」
司「“好き”と“惚れる”は違うの? 山南さん、説明できますか?」
山南「難しい質問ですねえ……原田君、“惚れる”というのは、単なる好意以上に、相手に心が引き寄せられてしまう状態でしょうか」
司「心が引き寄せられる……重力みたいなもの?」
山南「そうかもしれませんね。理由や損得ではなく、気がついたらその人を目で追ってしまう、そんな心持ちです」
左之助「つまり司は俺のこと、無意識に目で追ってるってことか!?」
司「いいえ、私は左之助の顔の構造を観察しているだけです」
左之助「おい、なんか納得いかねぇぞ!」
司「でも、確かに左之助は見ていて飽きない顔だね」
左之助「……それ、惚れてんのとどう違うんだよ」
山南「司君の場合は、また特別かもしれませんね……」
司「山南さん、今度“惚れる”をもう少し詳しく教えてください」
山南「ええ、私でよければ――いくらでも」