神田川
「風呂行くけど、どうする?」
冷蔵庫の余り物でマイコが作った『マヨネーズで和えたゆで卵ときゅうりの食パン乗せ』を2分ほどで飲み込むように食べ終わった、半袖・スキー・日焼け・ナンパ・筋肉大学生…通称『中田晴人』こと、ハルくんが声をかけてきた。
「行く!」マイコは読んでた文庫本を置いて、元気よく立ち上がった。
このアパートにはお風呂がない。つまり、『風呂』とは銭湯のことに違いない!お風呂はどうするのかな~?って内心めっちゃ期待してたから嬉しい!「近所の知り合いの家に貰い湯に行く」とか言われたらどうしようかと思ってたよ、オニーサン。
マイコはテレビでしか銭湯を見たことがない。祖母と一緒に宴会場やゲームセンター、マッサージ室や寝転んで映画が見られる部屋なんかがある巨大なお風呂センターなるものには行ったことはあるが、古い映画やドラマに出てくるような、番台におじいさんが居て、巨大な扇風機が天井で回ってて、カエルの洗面器があって、瓶の牛乳が飲めるような。そんな銭湯は近所にはなかったのだ。
マイコはいそいそと下着とタオルをいつものリュックに詰め、歯ブラシも入れた。そこで「あっ!」と思いついた。あたりを見回し、『それ』が入ってる確率の高い、冷蔵庫の横のタンスの引き出しを順番に開ける。
「なにしてんの?」タンスを勝手に開けるマイコを叱るでもなく、靴を履きながらハルヒトが不思議そうに聞いてきた。
「赤い手ぬぐい、探してるの。どっかにない?銭湯行くんなら、赤い手ぬぐいをマフラーにしなきゃでしょ!」
マイコはウキウキと答えた。せっかくの初銭湯。細かいところが肝心だ。
マイコの提案に「しかたないなーこの子は。」という表情でハルヒトは靴を脱いで奥に行き、赤いスポーツタオルを持ってきた。…それよ、それそれ!マイコは受け取り、嬉しそうに首に巻いた。
銭湯に着くまでの間、マイコはうっすらとタバコとコーヒーの匂いのするタオルに顔をうずめながら、ハルヒトが帰宅して、マイコとマイコがうずくまる押入れの前に立ち尽くしてた時の驚きと呆れ、『俺はどうしたら良いんだ?』的な感情の入れ混じった顔を思い出し、くすくす笑いが込み上げた。3歩先を歩く、やたらガタイの良い兄ちゃんには聞こえないように。…後ろから見ると本当に凶悪なガタイしてはるわ。
夕方、アパートに入ってきて、マイコが築いた城…可愛い布とクッションで彩られた押し入れを見た時のハルヒトの反応は、またもやマイコの期待を裏切った。『かわいいね』とも『がんばったね』とも言わずに「どうしたん、これ。」と犬が唸るような低い声を出したのだ。…あれ?もしかして、ちょっと怒ってる?
マイコの頭の中に警戒サイレンが鳴り響く。怒らせるのは得策ではない。ではどうすれば…?可愛い子ぶるのも、感情に訴えるのも通用しない相手だ。うむ、ここは開き直って堂々といこう。この部屋の合鍵は我が手中にあり。たとえ相手が年上でも、学歴が上でも、先住者でも関係ない。今この場において、立場は五分と五分なのだ。
「近所にイズミヤあったから。」
怒りをまともに受けてはいけない。ふざけない程度にすっとぼけつつ、事実を答える。もちろん、どこで買い物してきたか、なんて事を聞きたいわけじゃないのはこっちだって分かってるよん。
「なんでもあるね~、イズミヤ。クッションも、カーテンも、カーペットも、ぜ~んぶ一式。」
マイコはゆったりと楽しげに答えた。ここは怒るとこじゃないよ、楽しむところなんだよ、とでも言うように。
それを聞いたハルヒトの目にも仕草にも、かすかな動揺が見て取れた。怒りのオーラが弱まっている。…お、こいつ、勝負師でもあるな。どうやらこっちの余裕っぷりを見て、形勢が逆転しつつあるのを感じ取っているようだ。よし、総攻撃は今しかない!
「“ハルくん”。ハルヒト君だから“ハルくん”。」マイコは歌うように言った。楽しげに、鈴が鳴るような声でリズミカルに。
「勝手に決めるなよ。」”ハルくん”は言ったが、その声にもう怒りは無かった。むしろ『それ悪くないかも』だったのか、口元がほころんでいる。マイコを見下ろすのをやめて、こたつに座り込んだのも怒りが解け、マイコに白旗を上げた証拠だ。
「じゃあ、嫌?」ハイハイの四つ足歩きで、押し入れを出て、敵を見つけた時の猫のようにマイコはハルヒトに近づいた。返答によっては飛びかかる事も辞さない低い攻撃の姿勢だ。
「……いや、まあ、別に。」ハルヒトは何故か赤くなりながら、どもって答えた。体制を変えてあぐらを組み直す。その仕草にも顔にも拒否感は微塵もなく、犬なら尻尾を下ろしたような態度だった。…敗北宣言と見なして良いのか?
「よかった。じゃあ決定ね、ハルくん。」マイコは明るく言って、猫のポーズのままくるりと回転して、う~ンと伸びをしてから、晴れて縄張りとなった押し入れに入っていった。…やった!ではここで、勝利の一句。
「いにしえの ならのみやこの やえさくら きょうここのえに においぬるかな」は、奈良から持ってきた桜が京都でめっちゃきれいに咲いたって歌だよね?じゃあ…
『いにしえの なにわからきた マイコちゃん きょうこのばしょを かちとったなり~』うむ。良い歌だ。
ー。そんな事を思い返しながらマイコの足は自然とスキップを踏む。もう何の心配もせずに京都で暮らせる。憧れの銭湯も行き放題だ!マイコのルンルンスキップは速度を上げてハルヒトに追いついた。突然ハルヒトが立ち止まったのでマイコは背中にぶつかった。どん。
「ここやで。」背中に勢いよくぶつかったマイコに全く動じずにハルヒトは銭湯を指さした。…こいつ、寒さだけじゃない、衝撃にも鈍感なんだ。
鼻をさすりながらハルヒトの指さした方向を見て、マイコは「わあ!」と歓声をあげてすぐに『男』『女』と書かれた暖簾の『女』の方をくぐって中に飛び込んだ。番台、マンサージチェア、牛乳瓶の並んだ冷蔵庫。…遂に来たんだ、銭湯に。
「おや、今日は彼女さんと一緒かいな?」にこやかな笑みでハルヒトに話しかける奥さんらしき人。…すご~い!こういうの、何かいいよね!粋って言うか、京都を地元として馴染んでる感、かっこいい!私の事も覚えてもらっちゃお!
「こんばんは!」マイコも元気よく挨拶する。にこやかな笑みを浮かべる奥さんに、黙って2人分の料金を払ってさっさと男湯に消えていくハルヒトを見送り、マイコは番台でシャンプーとリンスの小さいボトルと、これまた小さい石鹸を買って女湯に入った。…こういうの、可愛い!
壁に並ぶロッカー、磨き込まれた鏡、ヘルメット型の扇風機。どれも年季がハンパない。くぅ~!映画の中に入ったみたい!
マイコは手近なロッカーを開け、脱いだ服をぽんぽん放り込む。そしてさっき買った石鹸とシャンプー・リンスを持ってお風呂の入口を開けようとして、タオルを1枚しか持ってきてないことに気づいた。…しまったー。体を洗ったり濡れた体を拭くタオルと、髪の毛を拭くタオル、2枚いるんだ!
しばし考えて、マイコはもう一度ロッカーを開けて、ハルヒトがくれた赤いスポーツタオルを取り出した。よし、今日はこれで体を洗おう!タバコの匂いも取れるし、一石二鳥じゃん!
マイコはガラスの扉を開けて、湯気のもうもうと立つお風呂場に行った。天井は高く、仕切りと思われる壁の上には隙間がある。どうやら女湯と男湯がつながってるようだ。…新婚さんはこのスキマを使って石鹸のやり取りをするんだよね。知ってるんだから。
『ハルくーん!石鹸、いる?』と声を張り上げたい気持ちを抑え、マイコは洗い場に行き、鏡と固定シャワーのある場所に座った。16歳のマイコの白い体が鏡に映る。マイコは自分の体をじーっと見た。お蕎麦屋さんでも、宿舎でも、ハルヒトのアパートでもこんな大きな鏡をじっと見ることは殆どなかったので、なんだか久しぶりに自分に会った気がした。小さな胸、小さなお腹。前髪は湯気で濡れておでこに張り付き、指先で左右に分けると広いおでこが光った。大きな目、丸い鼻、まんまるの赤いほっぺたに、ピンクのやや大きめの唇。小学6年生の頃から殆ど変わらない容貌だ。ふー。マイコはため息を付き、頭、体の順に洗ってお湯を被り、頭に絞ったタオルをまいて、湯船に浸かった。
「っくぅ~!!!」声にならない声が出る。深くて広い湯船には熱いお湯がぎっしりで溢れそう。こんな気持ちの良いお風呂は何ヶ月ぶりだろう!マイコは小さい頃からお風呂も温泉も大好きだった。祖母と一緒に入る時は決まって100まで数えたし、300まで数えることもあった。父親も温泉が好きだったので、紀伊半島のあちこちにある外湯に連れてってくれたものだ。と言っても7歳上の姉と6歳上の兄が高校受験を迎えるまでの事だったが。
マイコは足を伸ばし、お湯の中を何度も行き来した。泳げないのが残念。本音は頭まで浸かりたい。でもそれはダメ。顎ギリギリまでお湯に浸かりながら、手のひらでお湯をぐるぐると回して竜巻を作ったり、縁に向かって波を作ったり、マイコは幼い頃にやっていたように、のぼせるまでお湯と戯れた。
…なんかふらふらしてきたな。そろそろかな。マイコはゆっくりお湯から上がり、洗面器にお水を汲んで4,5杯ほど体にかけた。最後に顔を洗い、頭に巻いてた赤いタオルを固く絞って体を拭いてから脱衣所に出た。ふらふらしてまっすぐ歩けない。マイコはベンチに座り込んだ。
…どうしよ。久々すぎて長湯しちゃったー。ハルくん、もう出ちゃったかな?
ふらつく体に鞭打って、マイコはロッカーから乾いたタオルを取り出して頭に巻き、急いで着替えて、扇風機の前に立ち、タオルで頭をガシガシと乱暴に拭いた。こうやると髪の毛はすぐに乾き、頭も冷えるのでふらつきもだんだん収まってきた。勝手知ったる経験からなす技だ。
荷物をまとめて早足で女湯を出る。ハルヒトはいない。奥さんが「さっき出はったで。」と教えてくれたので急いで靴を履いた。居た。先に帰るという選択肢もあったのに、この寒い中、待っててくれたのだ。
「ごめん。待たせちゃったね。」冷気が顔に当たって気持ちいい。神田川の歌を思い出し、
「石鹸、カタカタしながら待っててくれた?」と聞いてみた。
「マイコ、それ、寒くない?」ハルヒトがマイコの足を見て心配そうに聞いてきた。どうやら短パン姿のことを言ってるようだ。
「大丈夫。」マイコは答える。足に寒さは感じない。これも子供の頃からだった。上半身はすごく寒がりだけどね。マイコはジャンパーのフードを被った。
いつの間にかハルヒトはマイコを『マイコ』と呼んでいる。…いつからだ?昨日からな訳無いし、今朝もマイコとは呼ばれなかった気がする。『マイコ』かぁ…うん?『ちゃん』はどこ行った?『ちゃん』は。
ハルヒトはマイコが背負おうとしたリュックに無言で手を伸ばし、そのままかついで歩き出した。それはすごく自然で、手慣れた行動だった。…へぇ、優しいとこもあるんだ。
「ね!ハルくん!」マイコはぴょんぴょん跳ねながらハルヒトの後に付いていった。