いい日旅立ち
老舗蕎麦屋の名前入りのトラックが一路、京都に向けて走っていた。雪景色の続くドライブは楽しく、マイコは風景に見とれながらも、樺さんとのおしゃべりを楽しんだ。
樺さん29歳、東京生まれの東京育ち。東京の会社に就職したけど、出張で京都に行った時に今の奥さんと出会ったらしい。ふらりと立ち寄ったお寺の近くのお土産屋さんで働く京都美人に一目惚れした樺さんは、それから仕事でも休みの日でも行ける限り京都に通い、その熱意で奥さんと交際に至ったものの、奥さんの父親から「大事に育てた一人娘、何が悲しいて東京なんぞに嫁にやらなあかんねん!」と言われ、樺さんはその場で「ではサラリーマンを辞めて、僕がここで働きます!どうかお嬢さんと結婚させてください!」と土下座したんだそうだ。
マイコは改めて樺さんをマジマジと見つめた。元気溌剌のハツさん、豪快で男臭い祐さん、大人しくも優しい将さんといる中で、樺さんはいつも一歩引いて全体を見渡す落ち着いた監督、といった感じの人で、とてもそんな熱いタイプには見えなかったのだ。結婚してたのも意外なほどだった。
「サラリーマンを辞めてどうする?うちで働くんか?何ができるんや、東京モンに!」と言われ、樺さんはとっさに「では蕎麦打ち職人にでもなれば、お店の片隅に置いてもらえますか?」と言ったのだ。なぜ蕎麦打ちと言ったのか。それは直近のデートでお蕎麦を食べた奥さんが「うちでもこんな美味しいお蕎麦、出せたらなぁ。」…と言ったから。ただそれだけだったと樺さんは笑う。
「もう、ここでしくじったら俺にチャンスはないって、あの時はそう思ったね。必死だったよ。妻には後で『アホやんもう!』って泣きながら叱られたけど。」
…大人の世界はすごい。マイコは改めて感心した。
樺さんはそれから半年後に会社を辞め、奥さんのお父さんに紹介してもらった蕎麦屋で修行を開始。そして今年の秋、奥さんの実家が経営するお土産物屋さんの敷地に蕎麦屋をオープンするのだ。
「本当におめでとうごさいます!すごいです、樺さん。奥さんも4年も離れ離れで寂しかったでしょうね。」マイコがそう言うと樺さんは恥ずかしそうに、
「いや、離れ離れってわけでもなかったんだよ。」と笑う。何でも最初の2年は奥さんも一緒に住み込みでこっちに来て一緒に働いていたらしい。奥さんはホールで、樺さんは厨房。
「え!よく奥さんのご両親が許しましたね。」
「ま、勘当同然にね。」
…大人ってすごすぎる。マイコはふーっと長い息を吐き、メロンパンにかじりつく。
「で、2年で連れ戻されたんですか?」モグモグしながら樺さんに缶コーヒーの蓋を開けて渡す。
「あー、子どもが出来てさ。いや、あの時はマジで殺されると思ったけど、やっぱり孫は可愛いんだよね。顔をクシャクシャにしながら迎えに来たよ。俺も一緒に行って半年ほど京都に住んでさ。その後はこっちに戻って修行再開。京都と長野を何度往復したかわかんないよ。この道も、もう寝てても走れるね。子供のことで義父ともすっかり仲良くなったし。義父も婿養子でさ。色々苦労があったんだろうなぁ。長女誕生の夜には2人で泣きながら飲み明かしたよ。」樺さんは缶コーヒーをぐびっと飲んだ。
「夏には3人目も生まれるしね。もう三代目からお許しを貰ってるし、出来たら店のオープンも夏にしたかったけど、義父が建ててくれる店の都合があってね。義父も張り切って宮大工に頼んだり、店で使う道具も京都の一流の職人さん達に依頼してくれて。それらが出来上がってくるのが秋ってことなんだ。」
マイコは『子どもが出来て』に思わず吹き出し、ハンカチを口に当てて赤面しながら残りの話を聞いた。見た目は確かにイケメンだけど、女性の匂いを全くさせない、時代劇でセリフ少なにすましている武家のお世継ぎ、みたいな感じの樺さんに、こんな驚きのヒストリーがあったとは。大人の世界は奥が深い。深過ぎて、浮かび上がるのに必死だ。話についていけなくなっちゃう。
「樺さん、すごい…。」マイコは何度も繰り返したセリフをまた呟く。もうほとんど心の声だ。
「そんなことないよ。マイコちゃんだってすごいじゃん。高校辞めて大検取って家を出て働きに出るって。その歳でさ。色々苦労とか、思うことががあったんだろう?将やハツだって俺と同じようなもんだし。」
「え?将さんもハツさんも結婚してるの?」
そこから後の話もマイコには驚きの連続だった。修行組の兄さん達で、相手がいないのは祐さんだけで、将さんも所帯持ち、ハツさんはまだ籍は入れてないけど、決まった相手がいるのだそうだ。
将さんは高校中退で仲間とバンド活動やってたけど、方向性の違いで解散。キーボードの女の子と信州に来て結婚。奥さんは三代目の紹介の旅館で働いてて、将さんは蕎麦の修行。近い将来、三代目から暖簾分けしてもらえることになってるのだそうだ。ちなみにバンドはギンギンのロックというやつで、将さんはドラムだったらしい…意外すぎて鼻血が出そうだ。スティックを蕎麦打ち棒に持ち替えて…か。やるなあ。
そして、ハツさんのお相手は8歳年上の高校時代の恩師。「一人前になったら迎えに行く!」と約束して日々励んでいるのだそうだ。それだけだと聞いてて不安になる要素満載だけど、お相手さんは毎週店に客として来てたらしい。
「気づきませんでした…ハツさん、いつも子どもみたいに元気いっぱいって感じで。そんな年上の彼女さんがいたなんて。」
「声、でかいだろ?あれはいつ婚約者さんが店の前を通ってもいいようにってことなんだよ。」
「そうだったんだ。え?いつ店の前を通ってってことは…?」
「婚約者さん、今は近所の高校にいるんだよ。異動で。ハツもぞっこんだけど、相手もめっちゃくちゃ惚れてるんだろうなぁ。信州まで追っかけてくるんだから。」
…あの蕎麦屋、ただの蕎麦屋じゃないな。こんな人生濃い人達が蕎麦打ってたなんて。毎日行列の大繁盛になるわけだ。蕎麦以外のパワーも強すぎる。
樺さんが運転するトラックは、懸念してた渋滞もなく恵那や多賀といった、大阪育ちのマイコには馴染の無い地名のパーキングエリアで休憩を取りながら走った。樺さんの話にマイコはロングドライブの疲れも感じずテンションは上がるばかりだった。兄さんたちの恋愛事情の他にも、中卒の三代目と女子大に通う社長令嬢だった奥さんの大恋愛や、若い頃は相当はっちゃけてたオバちゃん達の芸能人も相手にしてたという嘘か真か?な恋愛話も。
ドラマみたいな恋愛盛りだくさんのあの店で、独り者だったのは祐さんだけだったのだ。それであんなに自分にアピールしてきたのか、とマイコは思った。でも気にすることはないと樺さんは言う。今までも何度もあったらしい、長期バイトの女の子にちょっかいかけては逃げられるということが。なーんだ、悩んで損したわ。
どこまでも続く白い風景に心を踊らせながら、喉が痛くなるほど喋り、笑い…そして走り続けるトラックのシートにお尻が痛くなってきた頃、樺さんとマイコは京都に入った。信州とはまた違う街並みが広がり、マイコの心にはなんとも言えない懐かしさが広がる。京都に住んだことはなくても、同じ近畿である大阪育ちのマイコに湧き上がる気持ちはやっぱり懐かしさだ。
「マイコちゃん、それでどこまで行きたい?」樺さんが聞く。
マイコは例の箸袋に書かれた、もう何度も暗唱してすっかり覚えた住所を言おうとして、やめた。
「樺さんの奥さんのお家は?」
「清水寺の近くだよ。」
「じゃ、私もそこで降ります!」
「遠慮するなよ。京都、結構広いぞ?」
「大丈夫ですよお、京都なんですから。それにまだお昼すぎだし、あちこち見ていきたいし。」
そうかあ?大丈夫かなぁ?と言う樺さんを説き伏せて、マイコは清水寺に近い商店の駐車場で下ろしてもらった。奥さんのお店に寄って子供の顔でも見ていくか?の誘いには惹かれながらも断った。樺さんにこれ以上面倒見てもらってはいけない。自分は自分の意志でここに来たのだ。
「マイコ、これ、持ってけ。」車を降りる際に渡されたのは樺さんの奥さんの連絡先だった。
「何かあったらここに連絡しろよ。お前の話もしておくから。気をつけるんだよ。信州の店にも遠慮せずに電話かけてこいよ。無理せず、たまには親の所にも行くんだぞ!」
「はあい!樺さん、色々ありがとうございました!奥さんにもお子さんたちにもよろしくです!お礼に伺わなくてごめんなさい!お店戻ったらみんなにもよろしく言ってね!」
蕎麦屋の名前の入った白いトラックのドアを勢いよく締め、マイコは深々と運転席の樺さんにお辞儀をした。顔を上げるとすぐ背中を向け、走って横断歩道を渡り、そのまま止まらず走り続けた。目から涙が溢れた。
ありがとう…ありがとう…。きっとまだ発進せずに見送ってくれてるだろう樺さんの優しい顔を思い浮かべながら、マイコは走った。ありがとう…本当に色々。忘れません、皆さんの親切。本当にありがとう…!
息が切れ、ゆっくりとペースダウンしてマイコは立ち止まった。ジャンパーの袖で顔を乱暴にこすった。ふう。ああ、楽しかったなぁ。さ、次いこ、次!
マイコは背中のリュックを背負い直し、蕎麦屋のみんなから貰った蕎麦や味噌の入った紙袋に目を落とした。うーん、こいつをどうしてやろうか。
マイコは近くを歩いていた和服の女性に道を聞き、郵便局へ向かった。郵便局から出てきた時、マイコの荷物はリュックだけだった。すぐそばの電話ボックスへ入り、小銭を入れてダイヤルを回す。
「あっおばあちゃん?よかった~!マイコマイコ。うん。あんね、今京都やねん。うん、軽井沢から出てきてん。うん。雪すごかったで~。でな、お土産送ったから受け取ってや。うん?明日かな~?明後日かな?うん、いや、まだ決まってへんけど。また電話するから。うん。おばあちゃんもな。風邪ひきなや。え?ええ~?いやええよ!もう切るしな!んじゃね~ばいばーい!」
これでよし。おばあちゃんが電話に出てくれてよかった。
身軽になったマイコは晴天の京都の街を颯爽と歩きだした。