なごり雪
「マイコちゃん、またいつでも戻っておいでね!」
「マイコ!おつかれさん!花見客までもうすぐなんだけどな~。」
「マイコちゃん、夏休みも忙しくなるから期待してるよ!」
「5月の連休でもいいからね!待ってるよ!」
「マイコ!京都で美味いもん食いすぎてぶくぶく太るなよ!」
出発の日、朝の7時にお店の人たち…三代目も奥さんも、誰が誰だかついに判別がつかないままだったオバちゃん達に、修行組の樺さん、将さん、ハツさん、そして祐さんも揃って集まってくれた。1月の軽井沢。一面銀世界。気温はもちろん氷点下。白い息を履きながら、足踏みしながらニコニコと…ただの住み込みバイトにこれは破格の待遇に違いない。そして別れの言葉ではなく、『またいつでも働きにおいで』という言葉。常に人手が足りないのだから『また働きに来い』は、予想はしてたけど、こうして口々に言ってもらうと、それは心から嬉しかった。ああ、自分はここで役立たずじゃなかったんだと実感出来たのだ。
「みなさん、お世話になりました!また働かせてもらう時はよろしくです!」
寒さと込み上げてくるものに鼻をすすりながら挨拶する。マイコはひとりひとりにハグされ、奥さんからはお店で販売してたお蕎麦の乾麺やボトル入りゆず七味、信州味噌や手拭いなどがどっさりお土産に渡された。三代目からはお給料、兄さん達からも紙袋を貰った…ついでに今朝のメロンパンも。
「さ!行こうか!」樺さんが運転席に乗り込みエンジンを掛ける。京都までは樺さんが乗せていってくれることになったのだ。何もマイコのためにワザワザというわけでは無い。
例の京都の大学生にナンパされた翌日、退職の意向を告げたマイコに三代目はよしよしと頷いた。
「マイコちゃん、お疲れ様やね。よく働いてくれたね。マイコちゃんのお陰で今年は良いスタートだったよ。またいつでも働きに戻ってきてくれていいからね。次の所でも頑張りなさいね。」
本当に細かいことは何も聞かない人だ。今にも金庫を開けて給料の精算を始めそうだ。
「で、次はどこに行くの?…なーんか貰ってたみたいだけどねえ。」
流石は奥さん、気づいてたか…。不機嫌なのか心配なのか、どちらとも付かない表情の奥さん。
「はい、京都に行こうと思ってます。旅館とかホテルとかの住み込みを探そうと思って…。」
マイコの返事に何か言いかけた奥さんを遮って、開きかけた金庫の蓋を閉じながら三代目が「京都か!」と言った。
「よしよし、マイコちゃんね。それならね、もう一週間、店で働いて。うん、そうしなさい。」
え?なんで…?と三代目の顔と奥さんの顔を交互に見たマイコに、
「樺がね、1週間後、京都の樺の奥さんの実家の店に用事があるから、うちの車で行くことになってるのよ。それに乗せてもらいなさい。ね。それが安全。もう一週間、うちで元気で働いていって。お給料もその方が増えるし、交通費かからないし、そうしなさいね。ああ、よかった。」
金庫を片付けながらそう言って、マイコの返事も待たずに、金庫も事務デスクもあるのに、事務所と呼ばれず、何故か『殿中』と呼ばれている窓もドアも無い狭くて細長い空間を出ていった。
「三代目ね、寂しいのよ。マイコちゃん、本当によく働いてくれたから。もう歳だし、樺も来年には独り立ちするしね。その件で京都行くんだけど。ま、乗せてってもらいなさいね。」奥さんもそう言ってマイコの背中を抱きながら店のホールに押し出していった。…樺さん、奥さんいたんだ。結婚してたんだ。来年独立するのか!マイコは新たな情報に頭を整理しつつ、樺さんに「京都までお願いします」の挨拶に行った。
それから一週間、マイコは張り切って働き、修行組の兄さん達も腕によりをかけてマイコ用スペシャル賄い蕎麦を作ってくれた。
そんな中、祐さんは多少口数が減り、髭は伸び放題になったが、奥さんやオバちゃん達のお説教のおかげか、他の兄さんと変わらず振る舞うことにしたようだ。ただ、祐さん担当の賄い蕎麦にはワサビがたっぷり入っており、それを食べてマイコの苦しむ様子を楽しんでる祐さんを見て、いつかこいつ毒盛ってやる!とマイコは心に決めた。
それでもマイコはホッとしていた。みんなのおかげで気まずくも、ややこしくもならずにすっと京都に行けそうなことに素直に喜んだ。本当ならもっと長くここで過ごすつもりだった。車の免許を取ったり、スキー板を買ったり、ホテルのカフェに行ってみたり。マイコにとっては幼い頃からマンガやドラマなどで憧れた場所だった。
でも京都も悪くない。とマイコは思う。京都に住みたい!というのは誰もが一度は憧れるはず!マイコは大阪に住みながらも、どっちかというと奈良や和歌山に近い場所だったこともあり、京都に行ったのは中学2年の宿泊学習のみだ。それ以外はテレビや雑誌でしか知らない。マイコの心は浮き立っていた。京都と言えば、湯豆腐に漬物、おもちにおうどん、着物に浴衣、神社にお寺、その前にずらりと並んでいるはずの屋台のたこ焼きにお好み焼き!マイコにとって、日焼けスキー大学生からの箸袋はまさに天の恵み、渡りに船の得々チケットに思えた。
マイコは客のいない時間は店中を磨き上げた。トイレも手洗い場も、店の扉も窓もテーブルや椅子の裏側まで拭き上げた。「大掃除レベルだな!」みんなが笑う。宿舎の部屋も改めて掃除した。オバちゃん達とのおしゃべりも楽しみ、兄さん達とも今まで話してなかったプライベートなことも色々しゃべった。
マイコは信州に来てから封印してた大阪弁でしゃべった。それまでは、わりとゆっくりな標準語だったマイコが、突然マシンガンのよう早口で「なんでですやん!」「せやねんけどな~!」「ここ、置いとくで!見てや!」「コーヒー飲むんやったらいれるで~。何人や?」「もう持ってったで!次のん、まだ出来ひんのん?はよたのむで!」「知らんけど?」な大阪弁に兄さん達は最初タジタジになり、そのうち面白がって「もっと言ってくれ!」「それで普通とか、喧嘩の時とかどんな喋り方になるんだよ!」と、どんどん吸収していった。
そんな風にして一週間は瞬く間に過ぎ、マイコは「また戻っておいで!」の大合唱の中、樺さんの運転する店のトラックに乗り、雪の信州を後にした。