BLIZZARD
芯まで冷え切った体をこたつに潜り込ませて『強』に設定、目を閉じるとすぐ夢を見た。
夢の中で喉が渇き、走り回ってやっと水を見つけたところで目を覚ました。
口の中はカラカラだった。
5時。いつもの起床より3時間も早い。
マイコは昨夜、お皿に移してた賄い弁当を熱い玄米茶とともに一気に食べた。洗い物を済ませ、台所、トイレ、お風呂、洗面所、そして2つの和室を徹底的に掃除した。ここに来てからずっと、マイコ一人でゆったり使っているこの宿舎の一室は、夏のめちゃくちゃ忙しい繁忙期にはアルバイトを増やして3人、4人で使うらしい。ちょっと見てみたいな…とマイコは思う。
部屋には、先人たちが善意で残していった洋館の暖炉の前に置いたらさぞ似合いそうな木製の豪華なロッキングチェア、洋風の真っ白な木の棚、犬が暮らせそうなサイズのスピーカーとラジカセ、リモコンのある大型テレビ、外国製のコーヒーメーカーがあった。マイコはそれらも丁寧に拭き上げ、押し入れから白手拭いを何枚か出してきて、ホコリ避けに被せた。
押し入れの布団は広げて掃除機をかけてたたみ直し、畳や台所のフローリングを雑巾で拭き上げた。文字通りチリ一つ落ちていない状態になった時、自分の仕事に満足して部屋を見回した。この部屋の一つ一つには、大人気店の日々の忙しすぎる修行や労働から離れ、少しでも生活に潤いを求めた気持ちが詰まっている。先人たちはここを去る時、きっとホッとしたような穏やかな、でも少し寂しい気持でロッキングチェアやラジカセなどの高価な品々を置いていったに違いない。自分の居た証を残したい、そして次にここに来る後輩たちに「お疲れ!」「頑張れ!」の労りの気持ちを伝えたい、そういう思いがビシビシ伝わってくるのだ。かなり古い建物なのにきれいに使われてるし、ここに入るにあたって特に注意事項も何もなく、敗れた壁紙とか、畳のシミなどがほとんど無いのも、先人たちの謙虚で実直な心意気が伺える。
真面目で商売熱心、細かいことは何も言わないし、聞いてこない三代目。毎日元気で笑顔で働いてくれたらそれでいい。その姿勢が従業員たちに深く通じている。だからここは荒れないのだ。今までも、これからも。
マイコも何か残していきたかったが、元々身の回りの最小限の手荷物しか持ってこなかったので、せめてピカピカに磨き上げて去ることで、敬意を示そうと思ったのだ。
時計は8時半。ストーブを点けてなかったとはいえ、3時間あまりの掃除で汗びっしょりになったマイコはシャワーを浴びることにした。頭と体を洗い終わってお湯を止め、キレイにしたばかりの排水口に流れた自分の髪の毛を指先で摘んだ時、思わず苦笑いしてしまった。
身支度をして宿舎を出る。ここしばらく降り続いてる雪は街を真っ白に包みこんでいる。化粧っ気のないマイコの顔は寒さで赤く染まり、久しぶりに結い上げたポニーテールの先が首筋をツンツンとつつく。ここに来てから髪型はずっと2本の編み込みお下げだったのだ。…「ポニーテールは勝負の髪型!」とマンガか何かで読んだことがある。今日は勝負の時だ。
普段よりいささか緊張して店に足を踏み入れたマイコはすぐに脱力した。そうだ。今日は三代目が東京のお得意さんにお蕎麦を届ける日だった。夜中2時から打って7時には車で出発している。蕎麦打ち台では白髪交じりの三代目でなく、時代劇の二枚目みたいな一昔前の美形の樺さんが、そば粉を練るリズミカルな「のし!のし!」という音を立てている。三代目が店に戻るのは夜の9時すぎになるから、あー今日はだめだな。明日だな。
「おはよう!マイコ!今日は寒かったな!雪で滑らなかったか?!」
「おはようマイコ!早いな!」蕎麦打ち部屋にいる樺さんとハツさんの元気の良い声。
「おはよう!しっかり眠れたか?」厨房から掃除中の将さんのゆったりした声。明らかにみんな、私の顔色を伺い、気を使っている。声がいつもの7割増で優しいトーンだ。
「おはようございます!今日は樺さんのお蕎麦!やったぁ!」
「ハツさん、おはようございます!」
「おはようございます、将さん!すぐ手伝いますから!」マイコはとびきりの笑顔で挨拶を返した。
店の一番奥の小上がりには従業員達の朝食用の菓子パンやプリン、ヨーグルト、紙パックの牛乳やリンゴジュースなどがドサッと盛られ、コーヒーの粉の瓶と、クリームの粉の瓶、角砂糖の瓶がでんと置いてある。いつもの朝の風景だ。小上がりに一番近いテーブルで新聞を読みながら、火のついたタバコを指に挟み、ジャムパンをかじっていた祐さんは私と目が合うとニヤニヤしながら「メロンパン、守ってやったぞ!」とテーブルに付いてた肘を持ち上げ、2個のメロンパンを見せてきた。マイコはジャムパンやクリームパン、チョコパンやアンパンよりメロンパンが好きで、同じくメロンパン派のハツさんとの合戦を毎日繰り広げていたのだった。奥さんが住み込みの従業員の為に用意してくれるパンは、たいてい同じラインナップで、それぞれ3個ずつ。朝に2個メロンパンを食べたいマイコと、同じくメロンパン2個を含む5個のパンを食べたいハツさんとの攻防は今ではもう朝の風物詩だった。
「マイコ、コーヒー入れてくれ。」祐さんが言う。マイコは思わず目を見開いた。一瞬、間をおいて返事する。「はーい。みんなのもコーヒー入れます!」あえて祐さんではなく、みんなのいる反対方向に向かって呼びかける。お店で客用に使ってる湯呑みを4個並べ、茶色と白の粉を手早く入れていく。「俺は砂糖2個だ。覚えてるか?」ニヤニヤ顔の祐さん。マイコは顔を上げず、全ての湯呑みに一個ずつ角砂糖を入れて、厨房にやかんを取りに行った。
将さんが用意してくれたであろう、元気よく湯気を吹き出していたやかんの前で思わずため息をこぼす。(なんなん…?祐さんの態度。もうダンナ気分とか?)
やかんの取っ手が熱そうだったので、手近にあった布巾を濡らそうとシンクに移動すると、
「マイコ、大丈夫か?まあ…いや、やりにくかったら今日は…」心配顔で寄ってきた将さん。坊主頭の修行組の中で一番物静かで言葉少ない将さんにまで気を遣わせて…。マイコはしかめっ面を素早く笑顔に切り替えて「いけます!大丈夫です!」と早口に答えて布巾を絞り、やかんを持ち上げて厨房を出た。湯呑みに熱々の湯を注ぎながらマイコの気持ちはこの上なく固まった。
「どうぞ~熱々です~。」コーヒーを配って回る。まずは樺さん、将さん。年功序列だ。そしてハツさん。働いてる人、優先だ。最後に祐さん。新聞の邪魔にならない所に離れて置いた。
「マイコのコーヒー!これ、飲まなきゃ俺の一日は始まらないってね。」…坊主頭にぶっかけてやれば良かったか。
マイコはニヤけ面の祐さんに背を向けてパンの山からミルクパンだけ持って、さっさとカウンターに行った。湯呑みにお湯だけ注ぎ、パンと交互に胃に流し込む。
「マイコ?マイコ?メロンパン、取ってあるぞ~!こっち来て食えよ~!」と叫ぶ祐さんに、マイコは厨房の将さんと目を合わせたまま、
「今日はメロンパン、いいです。すぐ厨房の掃除に入ります。オバちゃん達、雪で遅くなるかもしれないから。」淡々と告げる。将さんの温かな微笑みがマイコのトゲトゲの心を優しく覆ってくれてるようだ。
洗い場と天ぷらとけんちん汁、従業員の夜の賄い弁当を任されてるオバちゃん達は3人。みんな地元の人で、ここで働いてウン十年のベテランさん達だ。季節のように入れ替わる修行組やアルバイトと違い、三代目や奥さんから絶大なる信頼を勝ち得てるオバちゃん達のすごい所はまず休むことが無い。みんな背が低く、日に焼けたシワだらけの顔はくすの木の幹を思わせる。笑うと細い目はますます細くなり、正直2ヶ月過ぎてもマイコにはオバちゃん達の区別が全くつかなかった。薄い唇は手と同じく、営業中でも営業前後でも決して休むことなく、せわしなく動き続け、今週の天気から畑の作物の仕上がり、街の行事から交通事情、旧軽銀座の店の売り上げや混み具合、ゴシップでワイドショーを騒がせた芸能人がいつ軽井沢入りするかなど、ありとあらゆる情報がその口から語られるのだ。そんなオバちゃんたちが5分10分遅刻するのは雪の日のみだ。道路事情だけはどうすることも出来ない。雪慣れしてない他県ナンバーの車が原因だ。今日一日、乗り切るためにはオバちゃん達の力がいる。祐さんから守ってもらうために。マイコは残りのパンをさっさと食べ終えて厨房に入っていった。
樺さん、将さん、ハツさんの気遣い、何故か状況を100%理解していたオバちゃんたちのガードのお陰で、マイコはその日、祐さんと絡むことは何もなかった。ランチ時は厨房に居たものの、天ぷら油の前から離れられず、昼休憩の時間も珍しくずらされていた。ランチタイムに突入する少し前、マイコは珍しく奥さんに呼ばれた。
「マイコちゃんね、うちを出ていくのかい?」開口一番、本題に入る奥さんはいつになく、いや、初めて見せた心配そうな面持ちだった。
「さっきね、宿舎に灯油を運んだんだよ。そしたらマイコちゃんの部屋があんまりキレイになっててねぇ。テレビにまで布被せてさ。荷物も整理してたようだし。やっぱりアレかい?祐のバカが…。」
流石、鬼の目を持つと言われてる奥さん、詳しいやり取りを見たわけでなくても、とっくにお見通しだったようだ。
「はい。あの、奥さんにも三代目にも本当に良くしていただいたのに、こんな勝手は私も心苦しいんですが…何も無いうちに、そろそろ私の方からその、何と言うか…。」言葉が続かなかった。思いがけず涙が込み上げてきた。
家を出て2ヶ月ちょっと、16歳の小娘が何の身よりもないこの信州で、美味しいご飯をたらふく食べて、風邪一つひかずに元気に過ごせたのも、全て目の前の奥さんと三代目のおかげだ。その恩人に「全く興味のない男性から言い寄られました。こっちにその気は一切ないし、気まずくも面倒くさくもなりたくないので今日で辞めます。」なんて言えるわけない。「辞めます」の、その4文字さえも今にも泣きそうで出てこない。
マイコが泣き出さないよう、必死に口を引き結んでいると、奥さんはすべてを察した顔でマイコの背中をガシガシと撫で、「いいよ、いいよ。何も言わなくて。悪いのはあっちさね。ま、これ以上は何にも悪さはさせないからね。安心おし。うちの人には私から言っておくかい?」今までに聞いたこともないような温かな奥さんの言葉に意外性と感動を覚え、マイコは涙をこらえた。
「いえ。三代目には私から。まだ何も決まってませんし。奥さんに分かってもらえたんで、今すぐっていうのは、ちょっと、はい。」一つづつ言葉をゆっくりと話してて気付いた。そうだ。今ここを出ても、自分には行くアテなんかどこにも無いやん。どないせえっちゅーねん。
「そうかい!じゃ、うちの人にはまだ黙っとくよ。さ、11時だよ!今日もしっかり仕事仕事!また夕方には将や樺が作るもりもり蕎麦を食べてるんだろ?しかし、あんたは本当にうちの蕎麦を美味しそうに食べてくれるねえ。」奥さんの言葉にマイコは我に返った。
「え!奥さん、私が毎日お蕎麦の残りを食べてたの、知ってたんですか?みんなは奥さんに内緒にって言って、居ない時に食べてたのに~。」
奥さんはケラケラ笑いながら「知らないわけ無いじゃないか、自分の店のことさ。さ、早く行きなさいな。それにしても、大阪のうどん娘がここまで蕎麦好きになるなんてねえ。よっぽどアッチの蕎麦は不味いもんしか出回ってないんだろねえ。」
すっかりいつもの豪快な女将に戻った奥さんだった。
「マイコ、ちょっとこっちおいで。」将さんが呼ぶ。行ってみると将さんがお蕎麦の入ったどんぶりを渡してきた。顔がハテナマークになったマイコに将は、
「今日、パン一個しか食ってないだろ。今のうちに食っとけ!急げよ!」
パン一個じゃ腹が減ってランチ戦争を生き延びれない…将さんの気遣いだった。
マイコは将さんが作った「最初っから蕎麦湯たっぷりの、どっさり揚げたて揚げ玉わさび風味蕎麦」を厨房の隅っこですすりながら、自分がここに来た当初、「私、おうどんのほうがいいです」と言ってしまって大ひんしゅくを買い、店のエプロン姿なのに無理やり席に座らされ、もり蕎麦を食べさせられたことを思い出した。大阪にも蕎麦はあるが、日常的に食べるのはうどん一択だったし、蕎麦は母親がうどんと間違えて買ってきたボソボソというか、ボリボリのねずみ色の粘土みたいなのを伸ばしたヘンなひも、という認識だった。
マイコはここでそばを食べた時の感動を思い出した。うどんより細く薄くつるつると、濃く深い味わいのつゆに絡み、しなるお蕎麦。滑るように飲みこむと鼻に抜けるふわっとした香り。食べ終わった後の、トロっとした蕎麦湯のなんと体に染み渡ること。ゆず七味をぱらりとかけるともうお代わりが止まらない。
…何も知らなかったなぁ、蕎麦のことも店のことも人のことも。思わず笑いがこみ上げる。
「うまいか?」将さんがいつもの穏やかな顔でこっちを覗き込んでいた。
「最高に美味しいです、とっても。」どんぶりを両手で持って半分顔を隠すようにして答えた。将さんの優しさとともに最後の汁まで、ぐっと飲み込む。
満腹でホールにお盆を下げて立つ頃、マイコの波立った心は普段に戻っていた。
うん、今日明日とかに出ていくのはやめよう。ちゃんと準備してお礼しなきゃ。でも出来るだけ早いうちが良いけど。それより、次はどこに行こう?憧れの軽井沢に来れたんだし…って言っても何にも遊べなかったけどね。次はもう少し余裕を持って働きたいなぁ。休みに一人でゆっくり観光できるような。カフェも行きたいし、美術館とかも行きたい。本も読みたいし、神社とかお寺とかもいいなあ。お花もみたいぞ。雪はもうしばらくいいかな。スキーも出来ないし。あ、スキー場のバイトとか?でもなー、スキー経験ゼロだと厳しいかな?どっか別のとこに行って、それからゆっくりと…
「マイコー!お客さん来てるぞ!早く水持ってけって!」
ハツさんの声に飛び上がった。しまった、今はバイト中!
見るとランチのお客さんがぞろぞろと入ってきていた。満席になった店内を駆け回るようにお水を運び、注文を聞き、お蕎麦を運んで、蕎麦湯を出して、テーブルを片付ける。いつもの昼だ。いや、ここ最近に無い繁盛ぶりだ。厨房スタッフも景気よく声を張り上げる。
「てんざ6、やまそば2、さんざ5、上がりー!」
「けんちん4,上がりー!」
入口とレジを往復する奥さんも声を上げる。
「はい、4名様、奥どうぞー!」
「次、3名様、2名様、4名様でお待ちー!」
「はい、お会計はこちらー!」
忙しい店は嫌いじゃない。いやむしろテンション上がって体が軽い。
ポニーテールがあちこちに飛び跳ねるのも気にせずマイコは働いた。この2ヶ月の集大成といわんばかりに。
しばらくして、外の行列が全てはけ、何組かがお会計して出て行った後、マイコはあるテーブル席からの視線を感じた。見ると、入ってきたばかりの社会人っぽい、スキー帰りの男性グループだ。そのグループは相当仲が良いらしく、外で並んでる間も、店に入ってきてからも、全員かなりのハイテンションで店内の装飾や壁に飾った有名人の写真やサイン色紙、スキー場でのなんやかんやを関西弁で盛り上がっている。ちょっとうるさいが、関西弁だし若いしグループだし、良しとしよう。しかしあの視線は?注文はもう通したし、追加注文かな?
「はい、てんざ、けんざ、おおざ、さんとろざ、上がりー!」
ハツさんの声に元気よく返事してマイコは厨房に向かい、大きなお盆に乗せて賑やかなグループのテーブルへ運んだ。全員が今か今かと待ち構え、キラキラした目でお蕎麦を見ている。この期待に満ちた客の顔を見るのがウェイトレスの醍醐味ってもんよ。ふふん、たらふく食うがいい、美味いぞ~!関西ではとても食えないお蕎麦だよん。
「はい、こちらざるの大盛りです。こちらがけんちん汁とざるそば。こちらが山菜とろろそば。はい、天ざる、お待たせしました!」
「おー!キタキタ!」
「すげえ、うまそ!」
「はらへったー!」
3人は歓声を上げながら既に割っていた割り箸で早速蕎麦に取り掛かる。が、一人だけ、マイコの顔を覗き込んだまま身動きしない男が居た。3台のだるまストーブで温められた店内とはいえ、この真冬にグループで1人だけ半袖の白いTシャツを着てる。顔はスキー焼けして真っ赤だ。細いが柔らかな印象の瞳でまっすぐマイコを見ている。マイコも一瞬目を合わせ、追加注文を待ったが何も言わないので、そのままぺこっと頭を下げ、「ごゆっくりどうぞー!」と良い、別テーブルの空いた蒸籠を片付け始めた。
どっと押し寄せてきた客も1時半には落ち着く。マイコが脇目も振らずにパタパタしてる間に店内の客は半数になり、テーブルの片付けにマイコは奔走した。
「マイコ、蕎麦湯ー!」厨房の声にマイコは客の帰った後の片付けに夢中になって、4人の賑やかグループに蕎麦湯を出すのを忘れてたことに気づき、慌てて厨房に飛び込む。
「マイコ、走るなよ、火傷するぞ!」
「はーい!気をつけて走ってまーす!」
マイコが湯桶を片手に一つずつ持ち、小走りで厨房を飛び出すと、
「だから走るなってばマイコー!」
ハツさんがまた叫んだ。何人かのお客さんがこっちを見る。笑われてるやんもう。てかこれはもはや笑わせてるな?まったく、人の名前連呼して笑い取るなよー。
「お待たせしました。蕎麦湯です。熱々なのでお気をつけて。」
と言いながらテーブルに置くと、さっきじーっと顔を見てきた白T半袖日焼け男が、
「ありがとう!マイコちゃん。」と言うではないか。
「え?」…なんで知ってんの?まさかお姉ちゃんたちに頼まれてきた人?と言いそうになったのをぐっとこらえて、
「なんで名前知ってるんですか?」がこらえきれずに出た。普段はお客さんに名前で呼ばれても、ハツさんや祐さんのデカ声がマイコマイコと厨房から連呼するから、いつの間にか浸透してるのは分かっていた。
でも、関西人のトーンで「マイコちゃん」と言われて焦って思わず聞き返してしまったのだ。
白T日焼け男は黙って箸袋にさささっとペンを走らせ、
「良かったら連絡ちょうだい。」
と、渡してきた。
マイコは半袖日焼け男の顔を見て、どうやら姉たちのスパイではないと確信してから箸袋を受け取った。これまでにもマイコをナンパしてきた男は何人かいたが全員にっこり笑って拒否してきたのに。なぜだろう。懐かしい関西弁を聞いて、さっき奥さんの前で泣きそうになって、ここを辞めるつもりになってて、何か吹っ切れたのだろうか。
誰も見てませんように!マイコは念じてからエプロンではなく、短パンのポケットに箸袋を突っ込み、半袖細目男に背を向けた。だが、蕎麦を運びながら、食後のお茶を運びながら、テーブルの片付けに追われながら、マイコは奥さんの『鬼の目』を召喚して美味しそうに天ぷらを頬張る男を観察した。
背は自分より高そう…当たり前か。白い半袖から伸びる腕は樺さんたちと同等かそれより太い。フサフサの黒い短髪はきれいに整えられ、清潔感がある。膝の上に置いてる黒いジャケットはどっかで見たことがある。外国の映画で見たような気がする、多分かっこいい高級なもの。靴はマイコの好きな茶色い紐ブーツタイプだ。黒いサラリーマンがペタペタ履いてる靴はいくら高級でも受け入れられない。腕時計はスポーツ用のゴツいタイプで太い腕や厚い胸板によく似合っている。いいね、いい仕事しそう。金とか銀とかのベカベカした腕時計はめてるやつは絶対嫌だ。マイコは周囲のテーブルを回りながらあらゆる角度で男の観察を続ける。
お箸の持ち方がちゃんとしてるな、そう思った時、マイコはポケットに突っ込んだ箸袋を一旦取り出して、キレイに折りたたんで今度は慎重にポケットに仕舞った。食べる時に肘も付いてないし、食べながらタバコも吸ってない。どっかのバカみたいに。
そろそろ食べ終わりそうだ。マイコは蒸籠を下げようと近づいたその時、スキー日焼け男は箸を置き、丁寧に手を合わせた。口元が「ごちそうさま」と動く。絶対イイトコの子じゃないか!よし決めた。
マイコはお盆をカウンターに置くと従業員トイレに駆け込んだ。
トイレスリッパに履き替え、ドアを閉め、ポケットから箸袋を取り出す。
予想に反して、書かれた字が汚いことにややショックを受けつつも、書かれた内容に胸が踊って思わずガッツポーズが出た。
中田晴人 同志社大学文学部
京都市左京区◯◯町◯ー◯ー◯◯号
075ー◯◯◯ー◯◯◯◯
細かい住所は分からないがマイコの目が釘付けになったのは、この3ワードだ。
京都 同志社 文学部
マイコは次の行き先が決まったことを、神様が願いを聞き遂げてくれたことに感謝の祈りを捧げるべく窓の外を見た。
真っ白の無数の粉雪が、祝福するかのように舞っていた。