SIDE SEAT
「よーそろー!よーそろー!」
マイコはフェリーの手すりを両手で掴んで「よいしょっ!」とジャンプしてお腹で乗り上げた。鉄棒で前まわりをする時のように。そして「よーそろー!」と大きく叫ぶ。深く青い海と、そこをフェリーで切り分けられるようにして生まれていく白い波に歓声を上げる。…海だ!船だ!何年ぶりだろう!ってか、船、初めてかも!
「マイコ~!あかん!乗り出したらあかん!」
「いやーん。」
「ほんまにアカンて。病み上がりで冬の海に落ちてどうする!」
「もう春じゃん!春…はる…ハルくんだ!ハルくーん!ハルくーん!」
マイコのテンションは下がらない。いつも着ているピンクのジャンパーの首根っこと、もう片方の手で短パンデニムのベルトの穴に指を通すようにしてがっちり掴まれてながらも、マイコは足をバタバタさせて船から身を乗り出して海を見た。
大阪泉州育ちのマイコだが、車で1時間半という海までは微妙な距離に住んでいたのと、家族のドライブはもっぱら紀伊半島の山方面だったので海は珍しかった。信州にいた時も海はもちろん見ていない。マイコの体に残っていた熱もダルさも、あっという間に潮風で吹き飛ばされていった。
ハルヒトのインフルエンザの後、体の不調を自覚したマイコはすぐに志奈子に連絡した。志奈子は「私から連絡しといてあげるから、熱下がるまで寝とき~。回復したら何事もなかったように来たらええよ。バイトの休みには慣れてるから、あそこ。とにかくお大事にな~いるもんあったら何でも言うてや~。」と言ってくれた。
…レストランに連絡しなくてもいいのだろうか?後で部長とか社員に何か言われないだろうか?
不安になったマイコは、念の為に求人欄に記載してた電話番号にかけてみた。すると、今朝のバイトで『周りに変な病気を移すな』と言った社員が出て、
「あんたやっぱり何かにかかってたんやな。ほんま、バイトやからっていい加減な気持ちで仕事来られたら迷惑なんやけど。熱40度って、おかしいやろ。治ったら出てきたらええから。治るまで来いなや。いちいち電話してこんでもええし。死になや。ええな。」
と、ウザがられてるんだか、心配されてるんだか分からない返事を貰ったのだ。
その後、こたつでゴロゴロしてたら、ハルヒトが何やかやと世話をしてくれてたようだが、熱が高すぎてマイコにほとんど記憶は無い。どれだけの時間が過ぎただろう。いつの間にかマイコは心地良く続く振動でぐっすり眠り込み、遠い遠い夢の世界にいた。
~夢~
幼いマイコが夜中にベッドで目を覚ます。起き上がって窓の外を見ると街のあちこちが燃えているではないか。大半の住人たちは避難した後のようで人影はまだらだ。空には赤や黄色、ピンクの無数の灯りがある。どうやら宇宙人が攻めてきているようだ。マイコは家を飛び出し、街を走りまわって知り合いや友達を探す。もう死んだ者、逃げた者、逃げ遅れてしゃがみ込んで泣いている者。普段の生活の場所が闇と炎と叫び声で恐ろしい世界になっていた。マイコは見つけた人たちに声を掛け、燃えている街とは反対側の山の裏にある丘の上の展望台へ誘導しようとしていた。あそこに行けばきっと助かる。あそこには巨大なUFOの形をした、ジャングルジムとすべり台が融合したような遊具があるのだ。あれは本物のUFOだ。今まで遊具のふりをしてたけど、非常時にはUFOになるはず。あれならきっとみんなを乗せて飛び立てる。だって昔からずっとみんなを遊ばせてくれて、助けてくれて、守ってくれてたんだから…!マイコの思い込みは確信に満ち、敵の宇宙人に見つからないように物陰に隠れながら、まだ燃えていない路地を走り回った。マイコの呼びかけに2人、3人と子どもが集まる。もちろん無視して反対側に逃げる子どももいる。仕方ない。マイコは集まった10人ほどを連れて丘に向かった。突然、地面が揺れだした。地震?これは…?マイコは街の方の低い空を見て震えた。敵の宇宙船が次々に着陸している!早く、早くUFOの丘まで走らないと!どおん!どおん!背後の爆音にマイコが振り返ると、赤い光をまとった無数のロボットたちがやってきている。二足歩行のカマキリのような、2メートルくらいある宇宙人だ。目が黄緑に光っていて、人間を見つけると片っ端から切り裂いている。それを見て小さな子達が悲鳴を上げる。だめ!声を出したら見つかる!静かにして!マイコは近くに武器になるようなものはないか探したが何も無い。どうしよう!あっ青い光がもうスピードで近づいてきた…あれは何?敵?味方?マイコは無我夢中でその光の前に立ちふさがった。『味方なら私達を乗せていって!』マイコが叫ぶと、青い光は止まり、オープンカーの形に変形した。…誰もいない。無人だ。無人の車だ。だけどマイコの意志が通じる。よし、これに乗ってUFOの丘へ行こう!マイコはみんなに乗るように叫ぶ。全員が乗り込むと青い光の車はガタガタと音を立てながら思ってたよりゆっくり走り出した。『え?光のオープンカーなのに、空とか飛べないの?』マイコは思ったがすぐに理解した。『そか。みんながいっぱい乗ってるから、重くて飛べないんだ。がんばれー!』マイコが祈ると、だんだん光る車のスピードが上がっていった。『そう、その調子!』マイコは青い光の車のボディを撫でた。硬いような柔らかいような不思議な手触り。振動がどんどん強くなり、全身に伝わってくる。うーん、なんだろ。体が熱くなってきた。少しだるい。走り回って疲れたかな?頭が揺れる。なんだか、眠い。眠い…。
マイコの耳に音楽が聞こえてくる。ズンチャカ♪ズンチャカ♪マイコはゆっくり目を開けた。暗い。手足を伸ばすとどうも狭い部屋のようだ。振動に揺られて、足の先が壁に当たる。両側に窓があり、そこから外の薄暗い景色がビュンビュン飛んでいっている…あ、ここ、車の中か?
「ここどこ?」
「備前あたり。岡山やで。」ハルヒトの声が聞こえた。…あれ?オープンカーの持ち主はハルヒトだったの?ビゼン?って何だ?時代劇で聞いたことあるような、いや、お皿だっけ?何か、母親がそんな名前のお皿を持ってたような…?
そんな風にして、マイコの人生で最も長いドライブが始まったのだった。
ハルヒトは一体いつからマイコをドライブに連れて行こうなんて考えてたんだろう?熱が引いたのは、いや、熱を出してぶっ倒れたのだってそんなに前じゃない。つくづく不思議な人。でもいい。だってここは船なんだから!
さっきは船の中でうどんを食べた。船の中で大好きな、しかも今まで食べたことがないようなどっしりとかみごたえのある、味が濃いわけじゃないのに力強く感じるお出汁で、マイコは感動した。…これがうどん?お肉みたい!にゅるにゅると柔らかい、噛まなくても飲み込める優しいうどんじゃないけど、これ大好き!大好きだぞ!
船は四国に向かっているという。マイコにとって初四国だ。初海渡りだ。初海外だ。マイコのテンションはもう自制出来ないレベルになっていた。大阪、和歌山、奈良。あと、修学旅行で伊勢と広島と萩の一部。そして長野。それがマイコの踏んだ所だ。四国なんて、行ったこと無い!嬉しい!
そして四国の目的はうどんらしい。正直、マイコにとって珍しい食べものではない。というか、ほぼ毎日食べていると言っても過言じゃない。ヒガシマルのうどんスープを鍋でお湯に溶き、そこに5つ100円のスーパーのゆでうどんを入れて箸でほぐす。そこに醤油をひと回し。溶き卵1個分。それで卵とじうどんの完成だ。ネギがあれば刻んで入れ、梅干しがあれば放り込む。それだけで小腹を満たすのに何の問題もない。3分あれば出来てしまう。5時過ぎに出勤するマイコが毎朝食べているものだ。それがマイコうどんだ。
しかしさっきのうどんは全くの別物だった。噛めば噛むほど口の中に味わいが広がり、小麦粉とお出汁の香りが鼻に抜けるうどんなんて初めてだ。ハルヒトの話しぶりでは、これでもまだ序盤の序盤で、四国にはもっとすごいうどんが無数にあるようだ。…どういうこと?てか、うどんが目的の四国旅行って…?四国って白い着物着て、数珠をジャリジャリしながら、木の杖をつきながら温泉を巡るものだと思ってたよ。
四国上陸。時刻は12時前、最初のうどん屋さんに到着。どうやら完売御礼のようだ。店の入口には『本日は終了しました』の札。落胆した表情を浮かべて駐車場に戻る人たち。ハルヒトも同じく。
「あー…。」悲しげな声が漏れる。ハルヒトは予め、下調べして、行きたいうどん屋をリストアップしてたようだ。でかい図体のわりに考えることが細かい。だがその姿がかえって可愛らしかった。お小遣い握りしめて駄菓子屋に走っていき、定休日でがっかりしてる男の子のようだ。ハルヒトは細い目に小さな鼻、小さな口というシンプルな顔立ちなのに、実に表情が豊かだ。
「間に合わなかったね~。」マイコが朗らかに声を掛ける。こんなにも残念がるのだからよほど美味しいうどんなんだろう。そんなすごいうどんなら昼前に完売もうなずける。マイコの期待は下がるどころかますます高まった。…だって四国には無数のうどんがあるのだから!(って聞いたし!)
ハルヒトのがっかりはどうやらマイコに対して申し訳ない気持ちからのようだった。
「マイコ、もうちょっと走るけどいい?30分くらい。」
「マイコ、地図読める?」
ハルヒトの遠慮がちの質問はマイコの嬉しがらせるための布石のようだ。初めての土地のドライブ!地図を見ながらなんて、冒険者みたい!
「うん!小さい頃からお父さんの車で鍛えられたから、けっこう得意だよ!」
マイコが家族で出かける時、後部座席で母が寝て、姉2人はおしゃべりに興じるので、助手席に座るのはマイコの役目だった。
運転する父親の横顔を眺めるのは好きだった。父は話し上手で色んな面白い話を聞かせてくれたし、運転技術も高く、抜け道にも詳しかった。地図の読み方を教えてくれたのも父だ。時折、地図にも無い道を走ったりもする。「お父さんだけが知ってる秘密の道なんだよ。あとはクマやシカくらいかな。」アスファルトどころかガードレールも街灯もない道。崖っぷちそのものな時もあり、竹林を抜けていく時もあった。。通行止めの標識があっても気にしない。必ず通り抜ける。渋滞なんて何のその。さっと横道に入って誰よりも先に目的地についてしまう。そんな父は市の交通安全委員を長く努め、事故の通報、交通整理や誘導を自主的に行い、感謝状を何枚も貰っていた。
マイコのナビでハルヒト号は無事に2軒目のうどん屋さんに到着した。まだ閉店していない。2人は顔を見合わせてにんまりした。
店に入ると…というか店なのか?と思うほど「親戚のちょっと大きなお家を更にお客さん用に広くして」感たっぷりのお店だった。
『マイコはうどんの呪文を覚えた!さぬきレベルが1上がった!』顔より大きいイカの天ぷらと、冷たいうどんに熱いお出汁、たっぷりのすりおろし生姜の全てが口に詰まって絡まりあった時、マイコの頭の上には見えない吹き出しが飛び出て、そこにはそう書いてあったに違いない。
あつあつ
ひやひや
ひやあつ
あつひや
…うーん、さぬきうどん、恐るべし。かような呪文を使うとな。これは是非とも習得せねばなるまい。
マイコは『ひやあつ』の呪文を唱えてみたが、これがなんとも言えない新鮮な食感だった。全体的に生温くなるのか言えば全く違う。うどんとつゆの組み合わせを温度で変えてくるとは。うむ、悪くない。美味い!それに、テーブルに皮を向いた生姜とおろし金が置かれているのもすごい存在感だ。客がするの?自分で?じゃあ、すり放題じゃん!生姜、ネギ、みょうが、大葉…好き嫌いは多いくせに、父譲りで薬味は大好きなのである。天国!
…そういえばハルヒトに勧められるままゲソ天ってのも初めて食べた。聞くとイカらしい。
…イカ。とにかく臭くて消しゴムをナマでかじってる気分になったヤツ。柔らかくて、海の味が全部染み込んでる感じで、うどんと交互にあっという間に胃袋に収まってしまった。
…くぅー!この私がイカを美味い美味いと頬張る日が来るなんて。父はさぞかしびっくりすることだろう!
マイコが最後のひとくちを飲み込むとハルヒトが満足げに微笑んでいた。…あっ。あまりに楽しくて嬉しくて美味しくて、ハルヒトの存在、完全に忘れてた!
「どう?」…答えなんか分かってるくせにわざわざ聞いてくるなんて。野暮だねぇ、おにいさん。
「ふぅ~。美味しかった~!フェリーのも美味しかったけど、これはまた別格だね!ハルくんの言ってたことが分かった。今まで知ってたうどんとは、全然別物だよ。」
マイコがそう言うとハルヒトは嬉しそうに讃岐うどんのウンチクを語りだした。初めて聞くうどんの話にマイコは身を乗り出して聞き入った。この光景はアパートでも鴨川デルタでもよく見られている。ハルヒトがウンチクや講釈を語り、マイコが聞き入る。マイコにとってそれは嬉しい時間だった。自分を対等に扱ってくれている。知らないことを『知らない』と言っても、『分からないから教えて』と質問をしても、ハルヒトは決して不快さを表すことなく、時間を掛けて答えてくれた。例えどんなに的外れな質問をしたとしても、『なぜマイコは今この質問をするに至ったのか?』も含めて考えてくれるのだ。…ゴマメ扱いじゃない。その事がマイコにどれだけ幸福感を与えているか。それを知らずにウンチクを語ることだけに喜びを感じていそうなハルヒトにマイコはついじゃれついてしまう。
次はお風呂!と駄々をこねたマイコを車に乗せ、ハルヒトは日帰り温泉が出来る、ホテルの大浴場に連れて行った。ホテルと聞いて一瞬マイコはバイト先を思い浮かべて身構えたが、着いた所はバイト先よりも小規模であったかい雰囲気がした。マイコはひょこひょことハルヒトについていく。
「じゃあ。だいたい1時間位ね。ロビーで待ち合わせで。」
マイコにとっては数日ぶりのお風呂、いつもの銭湯ではなく、ホテルの広い広い大浴場を心から満喫した。頭を3回もシャンプーし、体も念入りに3回洗った。ゆっくり湯船に浸かる。「・・・・・・っん!」声にならない声が出る。…本当は大声で「きもちいい~!!!」と叫びたいくらいけど。
何時間でも入っていたい、何ならここで暮らしたい!そんな気持ちをぐっと堪えて、湯当たりしないようにマイコは早めに出た。…病み上がりだしね。自分で気をつけないと。
脱衣所のドライヤーで髪を乾かす。マイコの癖っ毛はお風呂上がりにしっかり乾かせば、翌朝もそれほど跳ねない。しかし、つい面倒で、翌朝に跳ね上がって広がりまくった髪は、もう縛るか編み込むしかなくなるのだ。サラサラのストレートにどれだけ憧れたことか。マイコは洗面所の消毒ランプの付いた冷蔵庫みたいなガラスケースからブラシを取り出してブローし初めた。しかしやはり途中でやめた。肩が凝るのだ。ドライヤーは重いし。
1時間ちょうどでロビーに行くと既にハルヒトが待っていた。…ゆっくり浸かれただろうか?運転疲れは取れたかな?
「あー。気持ちよかったー。最高!」
「おーそれは良かった。何より。」
マイコはハルヒトの隣りに座って頭をくっつけるようにして匂いを嗅いだ。シャンプーや石鹸に混じってタバコの匂いがうっすらとする。私が来る前にタバコを吸い終えてたんだな。マイコはハルヒトにぽんぽん頭をぶつけた。
何気なく外を見て、そこで気がついた。もう夕方だ。…今夜ってどうするんだろう?今から京都に帰るんだろうか?えー!いやだ!一泊したい!どうすればお泊りコースに持ち込めるだろう?
私が『じゃ、そろそろ帰ろうよ。四国もうどんも温泉も満足した!』と言えば、ハルヒトはすぐに運転を始めるのだろう。いや、あかん。ここは引き止めないと!よし。
「さて、どうしようか?」と尋ねてきたハルヒトに被せるようにマイコは誘導する。…さり気なく聞こえますように!
「どっか泊まる所あるの?まさかこのホテル?」期待に満ちた目でハルヒトをじっと見つめる。マイコの真っ直ぐな瞳にハルヒトはややたじろぎながら、
「お、おう。いや。そやな。ほな、どっか移動しよっか。」…やったぁ!四国さん、一晩よろしくです!
ハルヒトの車は走り出す。マイコはソワソワして落ち着かない。実家にいた頃、家族でお出かけでも宿泊はほとんどしなかったのだ。どんなに遅くなっても父の運転する車は0時までには確実に帰宅していた。理由は母も姉も枕が変わると眠れない、ひとつ屋根の下に他人がいると眠れない、からである。またマイコには友達の家へのお泊りも許可しなかった。なので、マイコにとって『旅先で遅くなったから一泊していこう』というのは夢に何度も見た憧れのシチュエーションだったのだ。…最高すぎる!ありがとう、四国!
「ねえ、ほんとに泊まるとこ決めてないの?」運転するハルヒトに何度も聞く。マイコは嬉しくってたまらないのだ。…ほんとにほんとにこんなことってあるんだ!物語みたい!野宿かな?山の中の打ち捨てられた小屋とか行くのかな?山姥とか鬼とか出てくるかなぁ。
答えは何でも良かった。公園でも、山の中でも、車の中でも。朝をこの地で迎えたい。それがマイコの唯一の希望だったが、どうもハルヒトは違うらしい。スピードを落とし、運転しながら熱心に辺りを見ている。
「あっ。」
ハルヒトが車を路肩に寄せて停めた。どうやら民宿を見つけたらしい。マイコもハルヒトの視線の先を見る。
『今夜 空室あり 1泊2食 2人で6000円』
ハルヒトは車を降りて、こじんまりとした建物に入っていった。マイコも後についていく、ハルヒトの背中に隠れるようにして。マイコはこういう所は初めてだ。…旅先で宿を見つけてそこに泊まるなんて!期待で胸が破裂する。
ハルヒトが民宿の女将さんらしき人と話し、今夜は泊まれること、食事も付いていることや値段を確認している。…大人だ。大人のたしなみだ。ううん~、そんなのどうでもいいからもう泊まる!ここに泊まる!
「ほな、宿帳お願いします。」
ほっぺたの柔らかそうな女将さんだ。にこにこの微笑みで民宿全体が満たされている。良いとこだ、間違いない。
ハルヒトがペンを持って宿帳に書き込むのを横で見ていたマイコは小さく質問する。…いつも思ってるんだけど何でそんな字、汚いの?いや、ちがう。
「なんで名字同じ?」
「いや、家族ってことにしといた方がええかなと。」…なるほど、そういうもんか。そういえば、火曜サスペンスとかでも、きれいな女探偵と頼りない刑事とか、新聞記者の男が同じ苗字で泊まってたりしてたな。それで後でややこしくなったりして。ここ、事件とか起きたりするのかな~楽しみ!
愛想良く女将さんが部屋まで案内してくれる。外観より、内側から見た方が建物は立派だった。キレイで清潔感のある壁や廊下。磨き込まれた階段の手摺はぴかぴかに光っている。上がっていくと和風の部屋が左右に並んでいる。その1室を女将さんは開けてくれた。…木の匂いがする!い草の匂いがする!日本人で良かった!これだけでもう旅の疲れは半分飛ぶってもんよ!全然疲れてなんか無いけど!
部屋に入って座布団に座るとマイコは『もしここで火曜サスペンスな事件が起きたら』妄想を頭の中で開始した。同じ宿に泊まってた女の一人客が夜中に犯人に呼び出されて殺される。東京から来てたOL3人組が第1発見者。3人は被害者の足取りを追うってことになって、地元警察に無理やりこの宿のことを聞いてきてやってくる。するとそこには京都から泊まりに来てた男女の客が被害者からの手紙を預かっていて…
そこまで考えてマイコは吹き出した。部屋の中の家具や備品を見ていたハルヒトが振り返る。
「どうしたん?何か面白いことあった?」興味津々、という顔で聞いてきた。…どうしよ~事件のこと言っちゃおうかな。でもまだ犯人出てきてないしな。いやここはまだ黙っておこう。それより…
「うん。さっきの宿帳ね、なんか、ああやって名前並んでると、夫婦みたいだなと思って。」…それだともっと話がサスペンスっぽく膨らむんだけどね。マイコはそう付け加えたかったが、
「え、ああ、うん、そうやな…」ハルヒトのノリはいまいち悪かった。ので続きを話すのは止めにした。
「もうお腹空いて来ちゃった!ご飯あるんだよね?」
「ああ。簡単なものって言ってたけど。」
「旅館でカンタンって、どういうのなんだろうね。」
「よくある刺し身の舟盛りとか、カニとかじゃないってことやろ。」
「ふうん。でも何かいい匂いしてるよね!」…刺し身でもカニでも無くって全然構わない。どっちも嫌いだもの。
そうしてる間に夕ご飯の時間になったようだ。マイコはまたハルヒトの背中に隠れるようにして食堂へ行く。メニューはハルヒトの言った通り、刺身もカニも無かった。だがご飯にお味噌汁、色とりどりの天ぷらの盛り合わせ、焼き魚や煮物やお惣菜、お漬物などの小鉢がたくさん並んでて、旅の侍が『一夜の宿をお頼み申す』と民家に泊まった時に『へえ。何もありませんけど』と言ってきれいな娘さんが出してくれるみたいなメニューだ。くぅ~最高!しかも全てマイコが食べられるギリギリのものだ。いや?ちがう。これは…マイコはお味噌汁とご飯と焼き魚を交互に食べながら、小鉢に入った黒いものを見る。…これは、黒く煮てあるみたいだけど豆じゃないか!
マイコは数ある好き嫌いの中でも豆が最高に嫌だった。…どうしよ?緑の豆なんか絶対食べられない!これまでも色々ガマンして口に入れたらたまらん美味しくて食べられるようにはなってきたけど、豆だけは!でも、これは黒い。ワンチャン、いけるか?
「ねえ、この豆、なに?」
「それ、“しょうゆ豆”って言うねん。香川の郷土料理」ハルヒトがまたドヤ顔している。ウンチクを始める顔だ。
「しょうゆ豆? 」…水の代わりに醤油で育てるのかなぁ?
「そら豆を、醤油と砂糖で味付けしたもんやな。見た目よりずっとあっさりしてて、酒のアテってぽいけど、ごはんにめちゃ合うで」
そう言われて、マイコは箸でそっと一粒つまんで、口に入れた。…お?生まれは憎き緑の豆のくせに甘辛い栗みたいになっとるぞ、お主。
「……うん。ふしぎな味。おいしい。ほっこりする。」…これなら食べられそうだ。よかった~また首がつながった。好き嫌いがバレるとアパートを追い出される、それはマイコが勝手に感じていたハルヒト宅での法度だった。
苦手だった天ぷらも、まあまあ食べれた切り干し大根も、そこそこ好きだった冷奴も、全てが今まで食べたことのないくらい美味しさであぶれている。こんなに美味しかったのか。マイコは今までの冷奴たちに心の中で深く謝った。
「旅館のご飯て本当に美味しいね。」マイコが呟く。ずーっと憧れてた旅館のご飯。マイコが最後のお漬物を口にしてお箸を置こうとした時、女将さんがなんとうどんを持って現れた!
「おうどん!ありがとうございます!いただきます!」マイコは幸せすぎて、うどんの湯気に溶けてそのまま天に上っていきそうな気持ちだった。