星に願いを
夕方4時。気温0度。大型台風が起こす大波のごとく押し寄せてきていたランチ客もやっとひき、ディナーにはまだ早いこの時間帯が、マイコには1日で最も忙しい時間なのである。
「マイコ~!出来たぞ~!」
客が一人もいない店の中で、客用の椅子の足を一本一本、雑巾で拭きあげていたマイコに厨房から声をかけてきたのは、蕎麦打ち修行半年目のハツさんだ。
「ほい!本日のハツのスペシャルメニュー、山かけとろろそば・どデカかき揚げのせ・ゆず七味丼だ!」
「は~い!いますぐ~!」と声を張り上げ、ホールを横切り、雑巾を隅のバケツに入れ、カウンターを回って厨房の入り口に立ったマイコに向かってハツさんのごつい手がつかんでいるのは、店で最大のカボチャ模様のどんぶり茶碗だ。一旦素通りしてシンクで手を洗いながら横目で確認すると、どんぶりの中身は店で出してる『大盛り』よりはるかにたくさん盛られた蕎麦にはとろろがたっぷりかけられ、その上には小型のメロンくらいありそうな巨大なかき揚げがどーんと乗せられ、さらにゆず七味がどっさりふりかけられていた。大きな目をキラキラさせ、「謹んでちょうだいいたします!」と濡れたままの手でそれを受け取るマイコに厨房の職人たちがどっと笑い声をあげる。
「おー!マイコ!いけるぞ、いけるぞー!」
「おい、ハツ!まーた増えてるじゃねーかよ!」
「よし!それ全部食えたら今夜の賄い弁当、俺の分もやろう!」
重いどんぶり茶碗をガス台の隅っこにゆっくりと置き、割りばしを手に取りながらマイコは答える。
「もー!みんなで私のお腹をどうする気なんですか~!それに祐さん、賄いって…。それ、祐さんが食べたくないだけでしょー!せっかくオバちゃんたちが作ってくれてるのにー。」
「いいから早く食べろよマイコ。客が来ちまうぞ!」
「あっはーい!」
揃いの坊主頭に白のタオル手ぬぐいを巻き、白Tシャツを破りそうな勢いで飛び出てるぶっとい二の腕の兄さんたちがニヤニヤしながら、それぞれ鍋を拭いたり、窯にお湯を足したりする手を止めて、腕組みしてこっちに視線を送ってる来る中、マイコは背中を向けてどんぶりを左手で持ち上げ、かき揚げにかぶりついた。サクサクの衣に包まれたエノキ、ニンジン、しいたけ、玉ねぎ、かぼちゃ、ちくわ、ナス、大葉…要は店のメニューで出してる天ぷらの、海老を抜いた全ての材料を放り込んだかき揚げだ。一体これ、何キロカロリーあるんだろう?特大どんぶりの重さに左手をプルプルさせながら一心不乱にかき揚げをほうばるマイコを店の男たちは囃し立てながら見守っている。これがここ1週間ほどの店の恒例行事になっていた。
ここは信州でも名のある蕎麦屋だ。だが夕方になると客はひき、朝から店中に掛け声を飛ばしていた三代目も、あり一匹も見逃さない目で店中のあらゆる場所を見張っている奥さんも、この時間は食事を摂るために帰宅する。ま、夜の客が来始める5時前には店に戻ってくるのだけど。しかしそれまでの時間、店は修行中の兄さんたちだけ。これで何も起きないはずがない。
以前は店内で蕎麦打ち棒をバットに、固く絞った布巾を丸めて野球をやっていた。修行3年目の祐さんが打ち放った布巾が開けっ放しの入り口から店の外の車道にまで飛んでいき、信号待ちのタクシーの窓にべったり張り付いてしまった。焦った兄さん達は全員で頭を下げに行った。幸い、空車だったのと、三代目が懇意にしてるタクシー会社だったので大事にはならずに済んだが、洗い場のオバちゃんたちがうっかり奥さんに口を滑らせてしまい、全員坊主頭になったのだ。
兄さんたちは、修行4年目の樺さん、2年目の将さん、1年目の祐さん、半年目のハツさん。ハツさんだけ18歳で、あとはみんな20代。そんな若いエネルギーが一堂に集まってるんだから三代目が目を離そうもんなら大惨事は免れない。何せ毎日蕎麦を打ってるんだから嫌でも筋肉はついていく。
蕎麦打ちの修業は厳しい。GWやお盆、年末年始、桜に紅葉のトップシーズンは毎日夜中の2時起きで蕎麦を打つのは当たり前。今は1月半ばでそこまで忙しいわけじゃないけど、それでもスキー客や雪山登山の客の為に仕込みは5時から始まっている。冬の営業は10時から19時まで。後片付けをして店を閉めたら、兄さん達は車を飛ばしてナイタースキーに行く。蕎麦と宿舎の往復だけで娯楽がないとはいえ、底知れぬ体力の持ち主なのだ。
そんな兄さん達の最近の遊びがガリガリでチビの「マイコを太らせよう」だった。
マイコの為に作った特製スペシャル大盛り蕎麦。腹ペコのマイコはいつも通り、5分もかからず完食し、坊主頭たちからの喝采を受けた。
身長148センチ、体重36キロ。高校中退して大検を取り、11月からここ信州の蕎麦屋に住み込みアルバイトとして大阪からやってきたマイコに、最初はみんなよそよそしかった。うら若い女の子、幼い顔立ちと体つきで、どう見ても中学生にしか見えないマイコが革のリュックとトートバッグを持って店に入ってかぼそい声で挨拶した時、誰も新人バイトの子だとは思わなかった。奥さんが気づいて、店の奥の通称『殿中』に案内したものの、お茶を取りに厨房に来た時「あんな細い子じゃ、蒸籠も満足に運べないわねえ。」と漏らしていた。家出娘か?不良娘か?と厨房は騒がしかった。だが、15分ほどすると、三代目がいつもの笑顔でスタッフ全員にやせっぽちの少女を引き合わせた。「明日からね、働いてくれるマイコちゃん。みんなしっかり面倒見てあげてくださいね。じゃ、明日からね。」とそのままマイコを徒歩5分の距離にある宿舎に案内するため、外へ連れ出していった。
後で奥さんが言うには「うちの人はね、雇人の過去とか全く気にしないのよ。毎日元気で笑顔で働いてくれるなら誰でも何でもいいの。特に、女の子は続かない子が多いからね。事情があるならあるでいいの。来てすぐに辞めるってこともないだろうからね。」ということだった。
毎日元気で…言葉通り、この店は初代からのポリシーで年中無休だった。休みは奥さんに言えば当日でも取らせてもらえるが、繁忙期は聞こえなかったふりをされる。何せ人気店、多いときは10軒向こうの建物まで行列ができるのだ。アルバイトは常に募集してるが、女の子は半月と続かないことの方が多かった。
そんな店にやってきた少女、1日目こそお茶を出して布巾でテーブルを拭くだけの仕事でも、ベテランのオバちゃんや奥さんに叱られまくっていたが、2日目にはテーブル番号、メニューを覚えて注文を取れるようになり、3日目には外に並ぶ客を案内し、一週間経つ頃には会計もこなすようになっていた。
若い子に厳しいオバちゃん達も最初こそ「ちょっとバイトさん」「そこのおちびさん」と呼んでいたが、すぐに「マイちゃん」と呼ぶようになり、「関西から来た家出娘」とあからさまに冷たく接していた奥さんまでが「良い子が入ってくれて助かったわ」と常連さんに話すようになった。
そんな風に忙しく過ぎていった蕎麦屋の日々。秋の行楽シーズンが過ぎ、12月に入ると雪がちらつき、流石にクリスマスシーズンは少し客は減ったが、年末にかけてまた盛り返した。車もスキーセットも持たないマイコは休みも取らず働き続け、給料日にはそれまでの人生で見たこともない枚数の一万円札を手にした。
12月の給料日に「年末は大阪に帰るんでしょうね?」と一応聞いてきた三代目に、ここで働き続けると答えると、「じゃあ、これ、お年玉代わりね。ありがとうね。」とポケットから無造作に一万円札の束を掴み出し、数えもせずにマイコの手に握らせたのだった。
蕎麦屋には宿舎があり、それは二階建ての文化住宅だったが、風呂もトイレも各部屋にあり、家電は全てそろっていた。ストーブの灯油も奥さんが常に満タンにしてくれる。朝食は店でパン、昼食は仕出し弁当、夕食は洗い場を任されているオバちゃんたちが作ってくれるお弁当だ。制服代りのポロシャツやサンダルも支給されてるので、お金を使うことが全くないと言ってよかった。洗濯洗剤やシャンプーリンスも配られていたのだ。
忙しく座る暇もないが、楽しく笑いに溢れた職場、美味しい食事、一人で住むには十分すぎる部屋。増えた貯金。マイコはこの生活に満足していた。
夜10時。正月を過ぎ、だんだんと暇になるお店。聞くところによると2月は1年で最も客が少ないので、長期バイトの人も休みを取るらしい。自分も休もうかな。
マイコがそう思うのには悩み事があった。修行3年目の祐さんが、どうも自分に気があるようなのだ。というか、はっきりと「一緒になって店を持とう」と言い出してきて困っているのだった。まだ2か月ちょっとしか一緒に働いてはいないのに、よくそんなことを、とマイコはげんなりしていた。が、今日、さっき、祐さんが一線を越えた。マイコは3時間前の出来事を思い返した。後にオバちゃん達によって「大馬鹿・祐の雪の大失態」と語られる事件だ。
「俺は本気なんだよ。初めてマイコちゃんが店に入ってきた時な、あ!嫁さんだ!って思ったんだよ。俺が一人前になってから言おうかと思ったけど、マイコちゃんさ、なんかさ、ふらっとどっか行きそうでさ。あまり考えてないっていうか。ここのバイトも雑誌で見つけたって言ってたじゃん。普通、住み込みのバイトって紹介とかで行くもんじゃない?俺だって、蕎麦打ちなろうって決めて、親戚に紹介してもらってここ来たし。いきなり雑誌見て、電話して、次の日に来るって、無いよ。なかなか。友達と一緒ならまだしも、一人で来た女の子って今までいなかったよ。お前さ、俺が守ってやるからさ。だからさ、しっかり考えてよ。俺の嫁さんになるって。大事にするから。日本一の蕎麦屋の嫁さんにするから。」
それは今日の仕事終わりの事だった。暖簾を外そうと店の外に出た時、いきなり背後から抱きすくめてきて一気にしゃべってこられたのだ。肌に突き刺さるような外の冷気、背中に感じる祐三さんの汗で湿った熱い胸。暗い空からちらちらと降る雪。
祐という人は大柄でひげ面で、ギョロッとした目に突き出た鼻。よく笑いよく働き、いつも大きな声を出して頑張ってる人だ。だが、ここの蕎麦屋で言えば、三代目を筆頭に全員がよく笑い、よく働き、大きな声で毎日頑張っている。みんな誰にでも親切だ。祐さんと結婚して、お店を持って、人生を共にしたら、きっと毎日が忙しくて笑いに満ちた一生になるんだろう…か?いや。マイコはストーブの炎をにらみつけ、顔をグッと近づけた。眉が熱い。
…厨房での姿しか、見てないしな。何もわからんわ~。
立ち上がって台所に行き、水道の蛇口をひねる。流れ出る水は大阪の水道と比べて、別次元の冷たさ、そして別次元に美味しい水だ。以前の長期バイトの人が置いていったのか、トランプのジャックの模様のグラスに注いで一気に飲む。美味い。甘いほど。
祐さんと結婚したらこの水が蛇口をひねるだけで一生飲めるのか。
悪くない。悪くないけど、でも。
再びストーブの前に座り込み、水をちびちび飲みながらもう一度、祐さんのことを考えた。
昼休憩の時、肘をつき、タバコを吸いながら弁当を食べる祐さん。缶コーヒーを底に少し残して吸殻を溜める祐さん。それを水で洗って吸殻を捨てて缶を処分する私やオバちゃんに何も言わない祐さん…。
肌に感じる熱いストーブの炎。喉を通る凍りそうなほど冷たい水。祐さんの熱い愛の告白を、私は何て冷たく聞いていたんだろう。
あの後、「おいこら!やっべえ!店の前で何してるんだよ!」とハツさんに引き離され、私は祐さんの方を見ないままエプロンを外し、そのまま雪の中を走って宿舎に帰った。しばらくすると樺さんがお弁当を届けに来てくれて「マイコな、祐のな、あんまり気にすんなよ。あいつのことは俺たちに任せとけばいいからさ。また明日な。風邪ひくなよ。」と穏やかに言って帰っていった。
そのお弁当にはまだ手を付けてなかった。とても食欲がわかない。お弁当の中身をお皿に取り出し、ゆっくり弁当箱を洗った。水切りかごに置き、お皿にラップをして冷蔵庫に入れた。明日の朝、食べよう。
マイコは薄い部屋着のまま外に出た。粉雪が舞っている。少し歩いて大通りに出ると自販機があった。百円玉を入れてホットミルクティを押す。ガタンガタン。手に取り、冷えた手を温めながらゆっくり歩いた。飲む気はなかった。なんとなく、一人で部屋で考え続けるのが嫌で出てきただけ。
マイコは大通りを宿舎の方に曲がらずまっすぐに、駅に向かって歩いていた。交差点を過ぎると蕎麦屋だ。もう誰もいない。店を少し過ぎると建物と建物の間に小さな神社というか、祠があった。三代目や奥さんが前を通るときは必ず熱心に手を合わせている。マイコは1月1日にお義理程度に手を合わせただけだった。苦しい時だけなんて、勝手じゃないか!だが今のマイコは迷わなかった。姿勢を正して祠の前に立ち、赤いミニチュアな鳥居とその奥に向かって手を合わせる。
「お願いします!たすけてください!私、気まずくなりたくないんです。お店のみんなに本当に感謝してる!こんな事で辞めるわけにもいかない。何もなしで辞めるわけにもいかない。でも行くとこがないの。お願いします!何か、何か…何でもいいです。ここから連れ出してください!何か、理由がいるんです!いまここから、救ってください!どうかお願いします!」息を止めて祈り、息が続く限り祈った。限界まで祈ると、深呼吸をした。ホットミルクティをお供えし、全力で走って宿舎に帰った。冷え切った体は痛いほどだった。