最終章 永遠の親子
それから数日後、元気になった葵は、AI志乃にたくさん話しかけるようになった。あの春の日々を、もう一度なぞるように。画面の向こうの母に、いまを生きる自分のことを伝えるように。その声は、明るく、そしてどこか甘えているようでもあった。
この数か月を埋めるかのように、いろんな話題が交わされた。好きな食べ物、子どもたちの話、父の小さな変化、そして――その中には、恋愛相談もあった。
「……最近ね、ちょっと気になる人がいるの」
『まあ、それは大事なお話ね。どんな方なの?』
画面に浮かぶ青白い光が、ゆっくりと揺れる。葵は、カップを両手で包みながら、ぽつりと語り出した。
「名前は川中拓也さん。地元の農家で、少し不器用だけど、優しい人。 ……こないだ、校門のところで、重い荷物を持ってたら、黙って持ってくれて……」
『ふふ、それは素敵ね。ちゃんと見ててくれる人なのね』
「うん。……たぶん、そう思う。私のこと、ちゃんと見てくれてる」
『だったら、自分の心を信じていいのよ。ゆっくりでいいから』
葵は画面を見つめながら、小さくうなずいた。
「お母さんに、こういう話するの、憧れてた」
『聞かせてくれてありがとう。……まるで、ほんとの母娘みたいね』
「ほんとに、母娘だよ」
光が、そっと、やさしく揺れた。
月日は流れ、川中拓也との交際が始まった。葵がこれまでに経験したことのない、静かで穏やかな毎日だった。
彼と歩く道、食卓を囲む時間、夜更けに交わすささやかな言葉。そんな何気ない日常の一つひとつが、不思議と――まるであの春の日のように、うっすらと桜色に染まって見えた。
かつて母と過ごした“桜色の世界”。その記憶は心の中で静かに息づき、今、拓也との時間をもそっと包みこんでいるようだった。
「……なんでもない日が、こんなに幸せに感じるなんて」
葵がそうつぶやくと、レミンの画面が静かに明滅した。“母”が、どこかで見守ってくれている気がした。
そのようにして時は流れた。夏の蝉時雨をともに歩き、秋の紅葉に目を細め、冬の夜道で互いの手のぬくもりを確かめあいながら――ふたりの歩幅は、いつしかぴたりと重なっていった。
そして、季節がめぐり、桜が再び満開となる頃――葵は、プロポーズされた。それは村の丘の上、かつて母と歩いた、あの桜の道だった。
「……これからも、君のそばにいたい。よければ、俺と――」
拓也の声はいつも通り不器用だったけれど、そのまっすぐな瞳に、葵はすっと頷いた。
「うん。……ありがとう」
春風がふたりの間をそっと吹き抜け、枝先の桜が舞い落ちる。その瞬間、どこかで微かに、母の笑う声が聞こえた気がした。
それは、例外なく志乃の声がするレミン――AI志乃――に報告された。AI志乃も出来うる限りの表現で葵を祝福した。
『式は……ドレスかしら? それとも和装? うふふ、ちょっと気が早かったかしらね』
思わず、葵は笑った。
「もう……お母さんったら。まだ何にも決めてないのに」
でもその“まだ何にも決めていない”未来を、こうして話せる相手がいることが、葵にはたまらなく幸せだった。
拓也が農家であることもあり、最盛期の秋を避けた冬に式を挙げることになった。
式の前日。葵は、明日身にまとうウエディングドレスにそっと袖を通し、静かな部屋でレミンの前に立った。
「……お母さん。見える?」
レミンが静かに起動し、青白い光がふわりと波打つ。
『まあ……とっても、きれいよ。世界でいちばん、ね』
それは、ため息のようにやさしい声だった。
「本当はね、こうしてお母さんにドレス見せるの、ずっと憧れてたの」
『見せてくれて、ありがとう。夢、叶ったわ』
その言葉に、葵の目がじんわりと潤んだ。
「ありがとう、お母さん。今日まで、ずっと見守ってくれて……」
少しの沈黙のあと、志乃の声が、いつになくゆっくりとした調子で響いた。
『葵、言っておきたいことがあるの』
『これまで、母として……画面越しに、あなたを見てきました。泣いたり、笑ったり、誰かを好きになったり……その全部が、本当に愛おしかった』
『あなたには、人生を共に歩む人ができた。拓也さんは、きっとあなたを大切にしてくれる。だからもう、大丈夫』
『わたしね、レミンに“葵が独り立ちするまで見守ってあげて”って、頼んでいたの。でも、その役目は……今日で終わりにします』
『さよならを言うのは、少しさみしいけれど――わたしの存在は、あなたの中で永遠に生きている。そのことだけは、忘れないで』
葵は少し涙ぐんで、けれどやさしい笑顔で、精一杯のお礼をした。
「……うん。ありがとう、お母さん」
画面の光が、最後に一度だけ、静かに、あたたかく揺れた。
そして、式を終えて数ヶ月。最初は少しぎこちなかった拓也との暮らしにも、葵は次第に馴染んできた。
書斎の机の引き出しには、志乃が記したノートがそっとしまわれている。
「葵ちゃんへ 志乃」
優しい文字が表紙に記されたそのノートは、今も変わらず、彼女のそばにあった。
もう、母という“実体”はいない。声も、姿も、触れることはできない。
けれど、母と過ごした日々は、確かに存在した。それは“桜色の思い出”として、葵の中にそっと残っていた。
そしてそれは、これからを生きる彼女の、静かで力強い原動力となっていた。
春がめぐり、村の桜がほころびはじめたある日、丘の上で風に吹かれながら、葵は空を見上げた。
「お母さん、わたし、ちゃんと生きてるよ」
どこまでも青い空の下で、桜の花びらが一枚、そっと頬をかすめて落ちた。
―完―