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第五章 永遠

 その夜、葵と布団を並べて眠っていた志乃は、そっと身を起こした。無邪気な寝息を立てる娘の顔を、穏やかで柔らかな眼差しで見つめる。その表情には、どこか懐かしさにも似た、深い愛しさがにじんでいた。


 部屋の隅。開いたままのノートパソコンの画面には、葵が記した“日記”が映し出されている。


 今日、母とお花見に行った。まるで夢みたいだった。触れた手が、ちゃんとあたたかくて。……いつまでもこれが続いてほしいな。


 志乃は、そっと目を細めた。けれど、その笑みの奥には、拭いきれない寂しさがかすかに滲んでいる。


 その気配を察したのか、隣の部屋の障子が静かに開いた。慎一が、寝間着のまま顔を覗かせる。


「……起きてたのか」


「あなたこそ」


 ふたりは目を合わせ、小さく笑った。まるで、昔に戻ったかのような、優しい空気が流れる。


「志乃……」


「うん」


「また……いつか、戻ってこれたりするのか?」


「……わからない。たぶん、もう――ないと思う」


 その答えに、慎一はわずかにうつむいた。志乃はそっと手を伸ばし、彼の手に触れる。手のひらの温もりが、確かにそこにあった。


「私は、きっと……“見届ける”ために戻ってきたんだと思うの」


「……見届ける?」


「葵が、大丈夫かどうか。あなたが、ちゃんと前を向いているかどうか……それを」


 慎一の目に、静かな光がにじむ。


「……ありがとう。ありがとうな、志乃……」


「俺も……もう一度、君と話せてよかったよ。ちゃんと……伝えられた気がする」


 志乃は何も答えず、ただ、静かに微笑んだ。


 そして――夜が明ける。志乃の気配は、静かにこの家から消えていた。


 朝の柔らかな光が、障子の隙間から差し込んでいた。その光にまぶたを照らされて、葵はゆっくりと目を覚ました。


 隣に寝ていたはずの母の気配が、そこにはなかった。まだ早朝なのかと一瞬思う。けれど――聞こえてこない。台所から響く、あの料理の音が。


「……お母さん?」


 布団を抜け出し、少しだけ胸騒ぎを感じながら、ダイニングへと向かう。そこには、父・慎一が一人、椅子に腰かけていた。テーブルの上には、湯気の消えかけた湯のみがぽつんと置かれている。慎一はそれを前に、じっと何かを見つめていた。いや、見ているのは目の前ではなく、もっと遠くの“何か”のようだった。


「……おはよう」


「……ああ、おはよう」


 いつもよりわずかに低く、沈んだ声。葵は軽く眉をひそめる。


「お母さんは?」


 その言葉に、慎一のまぶたがわずかに揺れた。しばらく沈黙が続いたあと――彼は目を伏せたまま、ぽつりと口を開く。


「……たぶん、還っちゃったよ。元のところに」


「……え?」


 葵は、聞き返すように瞬きをした。それが何を意味しているのか、すぐには理解できなかった。


「……どういう、こと?」


「ほんとは……もっと、いてくれたらって……思ってたけどな」


 慎一の声は、どこか遠くをさまようようだった。


「でも……きっと、もう充分だったんだ。あいつは……ちゃんと、俺たちのそばにいたよ。全部、見てた。見届けてたんだ」


 葵はその場に立ち尽くした。胸の奥に、何かがすうっと冷えていく。


 昨夜、眠る前に感じた母の温もり。並んで咲く桜の下で手をつないだ、あの確かな感触。


 “あれは……夢だったの?”


 けれど、夢にしてはあまりにも鮮やかで、あたたかかった――だからこそ、今のこの空白が、怖かった。


「うそ……うそ……うそ、だよ……!」


 葵は唇を震わせながら、家中を駆け回った。襖を開け、寝室を、居間を、風呂場を、キッチンまで――


「お母さん……どこ、どこ、どこなの……!」


 何度も名前を呼びながら、涙で視界をにじませて探し続ける。背後で、慎一が静かに言った。


「葵……落ち着け。……お母さんは、もう還っちゃったんだよ」


 その声に、葵はふと立ち止まった。そして、膝から力が抜けるようにその場にしゃがみ込む。


「……おかあさん……おかあさんっ……!」


 まるで幼い子どものように、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる葵。その涙は、今まで胸の奥で押し込めていた“会いたかった”という思いそのものだった。


 慎一は黙って寄り添い、そっと肩に手を置いた。


 やがて、ふたりは静かにダイニングに戻る。父は湯を沸かし、あたたかいお茶を湯のみになみなみと注ぐと、葵の前にそっと差し出した。


「今日は……学校、休みなさい。私も、診療所は休むよ」


 葵はただ頷いて、母と寝ていた布団に戻った。その場所に体を沈めながら、母の匂いや温もりを探すように目を閉じる。


 その悲しみに静かに浸っていたとき、ふと――枕元の机の上に、見慣れないノートが置かれていることに気づいた。そのノートの表紙には、


「葵ちゃんへ 志乃」


 と、優しく、どこか懐かしい字体で綴られていた。震える指先でページをめくると、そこには、母の言葉が並んでいた。



 葵ちゃんへ


 こうして手紙を書くのは、なんだか不思議な気持ちです。だって私は、あなたが生まれたその日から、ずっと「会いたい」と願い続けてきたのだから。

 神さまがほんの少しだけ、時間をくれました。それは夢みたいな日々だったけれど、夢じゃないと信じたいの。あなたと手をつないで歩いた桜の道、あなたと一緒に笑った朝ごはん、あなたの寝顔――

 どれも全部、私の宝物です。

 本当は、もっと一緒にいたかった。でもね、それはきっと、私のわがまま。あなたには、あなたの未来があるから。

 泣いていいよ。私も、泣いてる。でもね、最後には、笑っていてほしい。私の願いは、それだけです。

 永遠なんてものは、きっと、形ではなくて、想いの中にあるのだと思う。

 葵ちゃん。私のこと、忘れなくていい。でもね、前を向いて歩いてね。

 大好きです。どんなときも、あなたの味方です。いつまでも。


 志乃より



 そして、その次のページからは、志乃が葵に伝えたかった料理のレシピや、父のくせ、よく汚れやすい場所などが書かれていた。


「お味噌汁の出汁のとり方」


「卵焼きがふわふわになるコツ」


「お父さんが好きな肉じゃがの味つけ」


「冬場のストーブの掃除の仕方」


「台所の隅、すぐホコリがたまるところ」


 まるで、母と暮らす日々の続きを、言葉にして残してくれているようだった。


 ページの余白には、時折こんな言葉も添えられていた。


「お父さん、カップは必ず棚の右から2番目に戻したがるの」


「夕方になると、決まって背中をぽりぽり掻いてる。たぶん癖」


「洗濯物は、日陰干しだと嫌がるから、お天気の日に」


 日常の中に溶け込んだ、ささやかな知恵と記憶。それはまるで、二十五年間、渡せなかったバトンを、いまようやく手渡そうとしているかのようだった。


 葵はページをめくりながら、泣き笑いのような表情で、鼻をすんとすすった。


「……お母さん……もう……」


 もうそばにいないのに、声も、姿も、触れた手もないのに、こんなにも、確かに“いる”。それはたぶん、“永遠”と呼べるものの、かたちのひとつなのだろう。

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