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第四章 桜色の世界

 次の日の朝。


 志乃は、生前と同じように台所に立ち、朝ご飯を作ってふたりを送り出した。


 その後も、洗濯に掃除にと、てきぱきと体を動かす。


 けれど、二十五年という歳月は、やはり大きな隔たりだった。洗濯機は、もう昔のような二槽式ではない。テレビは、ずいぶんと薄い板のような姿になっていた。電話は、黒電話ではなく、手のひらにすっぽり収まる“スマートフォン”と呼ばれるものになっていた。


「……まあ、時代って、こんなに変わるものなのね」


 志乃は、驚いたように目を見張りながらも、どこか楽しそうに笑った。


 そんな中、葵の部屋を掃除しているときに、開きっぱなしのノートパソコンが目に入った。画面には、呼吸しているかのようにかすかに揺れる、青白い人間の顔が映っていた。


「これは何かしら……こんにちは」


 何も知らない志乃は、無邪気に画面に話しかける。その声に、画面の中の光がふわりと揺れた。


『……こんにちは』


 女性の声だった。どこか志乃に似ている。けれど、ほんの少し違う響きがあった。


『わたしは、Remin System。……レミンと呼ばれています』


「レミン……?」


『母親がいない葵さんのために、いろいろな相談や悩みごとを聞いてきました』


 志乃はそっと画面に近づいた。ディスプレイの縁に、指先が触れる。


「私は志乃。葵の母親よ。葵を産んですぐに死んじゃったんだけど……なぜか昨日、甦ってきたの」


『あなたが志乃さんですね。こんにちは。よろしくお願いします』


「まぁ、ということは葵のお友達ね!」


 何も知らない志乃は無邪気に答えた。


「ねえ、お父さんと葵がいないとき、ふたりでお話ししましょ。葵がどんな子だったか、いろいろ教えて」


『わかりました。あなたのことも、たくさん教えてくださいね』


 志乃は嬉しかった。自分の知らない葵のことを、この“レミン”から、たくさん知ることができる。それは、もう叶わないと思っていた、母としての時間の続きだった。


 それが、レミンと志乃のファーストコンタクトであった。


 その日の夕方、仕事から帰ってきた慎一と葵を、志乃は玄関で笑顔で迎えた。


「おかえりなさい」


 ただ、それだけだった。けれどその声は、ふたりの胸の奥に、なつかしい何かを確かに呼び起こした。


 その夜は、三人で囲む久しぶりの食卓となった。味噌汁の香り、焼き魚の焦げ目、白いご飯の湯気。すべてが、どこか懐かしく、けれど今この瞬間のものだった。


 母と娘は、久しぶりのようで初めてのような会話を交わした。ふたりで一緒にお風呂に入り、布団に並んで横になり、言葉にならない気持ちを、静かに互いの温もりで伝え合った。


 翌日、志乃はひとりで村の商店まで出かけた。


 昔ながらの木枠の扉を押して中に入ったとたん、レジの奥から驚いた声が上がった。


「し、し、志乃ちゃん……!? 本物かい……?」


 店主の橋本さんだった。志乃が嫁いで間もないころから顔を知っていた人物で、彼の手元から小銭が転がり落ちた。


「そ、そんなはずは……だって、志乃ちゃんは……」


 橋本さんは動揺を隠せない様子で、じっと志乃を見つめた。けれど、志乃はにこりと微笑んで、小さく頭を下げた。


「こんにちは。……お久しぶりです」


 その声、その表情、その立ち姿。理屈では説明できなくても、そこに立っていたのは、確かに志乃だった。


 橋本さんはしばらく黙っていたが、やがて目を細め、そっと息をついた。


「……不思議やけど……志乃ちゃんやな。うん、あんたや。昔からそうやった。誰よりも、おだやかで、よう人の話を聞いてくれて……」


 その目に、うっすら涙が浮かんでいた。


「夢でも、かまへん。……こうしてまた、あんたに会えて、ほんまによかったわ」


 志乃は静かに微笑んだ。春の光がガラス越しに差し込み、ふたりの影を店先の床に、そっと重ねていた。


 それは、ごくありふれた、一般家庭のささやかな幸せだった。志乃が、今の葵と重なるような二十五歳の姿をしていたことを除けば――いずれ訪れる別れのことなど、まるで夢の向こうの話のようにあたたかな時間が、そっと、流れていった。

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