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第三章 初めての温もり

 その夜、三人は――ほんとうの意味で初めて、食卓を囲んだ。夕食は志乃の手料理だった。あの日と同じ、筑前煮のやさしい香りが、台所からふんわりと漂ってくる。


 志乃の背中越しに、葵はしばらく目を離せなかった。台所に立つその姿を、彼女は写真でしか知らない。けれど今、目の前には確かに“母”がいて、湯気の立つ鍋の前で、何かを丁寧に味見している。


 背筋の伸びた立ち姿、煮物の味を確かめるしぐさ、やかんの取っ手を布巾で持つ細やかさ――どれもこれもが、まるで失くしていた記憶のピースが嵌っていくような感覚だった。


 そしてもうひとつ。志乃の動くたびにふわりと香る、洗いたての布団のような、どこか懐かしい匂い。記憶にはないけれど、なぜか落ち着くその匂いに、葵の胸がじんわりと温まった。


「おまたせ。熱いうちに食べようか」


 そう言ってテーブルに並べられたのは、筑前煮、ほうれん草のおひたし、そして味噌汁。どれも素朴で、どこか懐かしい香りがした。


「いただきます」


 声をそろえたものの、三人とも、どこかぎこちなかった。けれど、箸を動かすうちに少しずつ緊張はほどけていき、やがて笑顔が生まれる。志乃が味噌汁の椀を運ぼうとしたとき、少し手が滑って、テーブルにほんの少しこぼしてしまった。


「あっ……ごめん、手が滑っちゃった」


「大丈夫、私拭くから!」


 慌ててティッシュを取る葵に、志乃もつられて笑い出す。慎一も「昔からおっちょこちょいだったな」と肩をすくめて、三人の間にふわっと笑いが広がった。


 それは、どこにでもある家族の光景だった。けれど葵にとっては、まるで夢の中にいるような一瞬だった。


「おまえ、志乃に似てきたな」


 ぽつりと、慎一が言った。


「箸の持ち方とか、声の出し方とか。……なにより、目元がそっくりだ」


 その一言に、志乃は目を細め、葵は少しだけ俯いた。


 食後、三人は順番に風呂を済ませたが、慎一は「ちょっと疲れたから、先に休むよ」と静かに寝室へ向かった。それは、ふたりきりで話す時間を作るための、彼なりのささやかな気遣いだった。


 葵が居間に戻ると、志乃が和室の押し入れから古い毛布と布団を出していた。


「この匂い、懐かしいでしょ。少しだけ残ってるかも」


「うん……なんか、昔の家って感じ」


 畳の上に並べられた布団を見て、葵は思わず笑った。


「え、これ一緒に寝るの?」


「だめ?」と、志乃が小首をかしげる。その表情が、たまらなく愛おしかった。


 ふたりで毛布を広げているとき、志乃がぽつりと言った。


「こんなふうに、一緒にごはん食べて、歯を磨いて、寝るだけなのに……すごく幸せだね」


 その何気ない言葉が、葵の胸に深く染みこんだ。


 夜が更けても、ふたりの会話は尽きなかった。幼稚園で好きだった遊びのこと、給食で苦手だったメニューのこと。大学でひとり暮らしを始めたときの不安や、初めて告白された日のとまどい――二十五年という空白を、ひとつひとつ埋めるように、静かな言葉でたどっていった。


 志乃はふと、櫛を手に取ると、そっと葵の髪をとかし始めた。


「……こうやって髪をとかしてあげるの、夢だったの。おなかの中にいたとき、よく想像してたのよ。朝、寝ぐせがついたあなたの髪を整えてあげる場面とか――そんな、なんでもない朝を」


「……見たかったな、そういうの」


 葵は、小さな声でそうつぶやいた。志乃は何も言わず、櫛を持つ手にほんの少しだけ力をこめた。


「葵は……いま、好きな人、いるの?」


 問いかけに、葵は少し驚いたように目を見開き、それから視線を落とした。


 しばらく黙っていたが、ぽつりと答える。


「……いるよ。まだ、付き合うとかではないけど……」


 頬にかすかに赤みが差す。志乃は何も言わず、ただ穏やかに微笑んだ。その表情には、安心と、名残惜しさがまじり合っていた。


「その人が、葵をちゃんと見てくれてたらいいな」


 そんな話をしながら、ふたりはいつの間にか、同じ布団の中に身を横たえていた。背中を向けるでもなく、向き合うでもなく、そっと手だけをつないで。


 もう、どこにも行かないで――葵は願うように、そのぬくもりを確かめていた。


 志乃の手は、ほんのりと温かくて、指先にかすかに鼓動さえ感じられるようだった。まるで、それが夢ではないと証明するように。

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