第二章 春の幻影(まぼろし)
子どもたちが帰ったあとの、夕焼けに染まる教室。机を整えながら、葵はふと窓の外に目をやった。西の空には淡い茜色が広がり、山の稜線がやさしく溶け込んでいた。
そんな静けさのなか――
「葵」
背後から声がした。
振り返ると、教室の扉のところに父・慎一が立っていた。白衣ではなく、見慣れない私服姿。そしてその隣には――
「……!」
見覚えのない、けれどどこか“見覚えのある”女性が立っていた。
やわらかく微笑むその顔、セミロングの髪に、グレーのチェックワンピースと黒のセーター。
(誰……? いや――)
「葵……」
女性がそうつぶやいた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
「ごめん、急にこんな形で……けど、落ち着いて聞いてくれ」
慎一が低い声で言った。
「……志乃が、帰ってきたんだ」
その言葉を、すぐには理解できなかった。
「ほんとうに、私……なの。志乃。あなたの、母よ」
葵はその場に立ち尽くした。誰かが冗談を言っているのかと疑いたくなるほど、彼女は現実だった。彼女は、まるで桜の花のように静かに、けれど確かに、そこに“咲いて”いた。
志乃と葵は、何も言わずに抱き合った。たがいの体温を確かめるように、ぎゅっと――まるで時を巻き戻すように。
そして、子どものように、大きな声で泣いた。涙はとめどなくあふれ、頬を伝い、肩を濡らす。周囲の風景も、時間の流れさえも、今はすべて遠くに感じられた。
校庭の隅では、部活動を終えた子どもたちの声がまだ残っていた。
けれど、この瞬間、ふたりの世界だけがそこにあった。