第一章 桜の下にて
ここは兵庫県北部――養父郡大屋村。いくつもの山に囲まれたこの村は、今もなお日本の原風景が息づいている。春が近づくと、雪解け水が流れる川のせせらぎに混じって、鳥たちのさえずりがあたりを包む。昔ながらの瓦屋根の家々が点在し、人々は互いの顔を知り合いながら、ゆるやかに日々を重ねていた。
――早瀬葵、二十五歳。この村で生まれ、この村に育ち、いまは村の小学校で教師として働いている。学校では、セミロングの髪を軽くハーフアップにまとめ、白いブラウスに紺のロングスカートという落ち着いた服装で過ごしていた。化粧気のない顔立ちは端正で、けれど決して近寄りがたいわけではない。
子どもたちからは「葵先生」と親しまれ、時に優しく、時に厳しく接するその姿は、村の誰もが信頼していた。
「おはようございます!」
駆け寄ってくる子どもたちの声に、自然と顔がほころぶ。
「あ、おはよう。ちゃんと手、洗った?」
「洗ったー!せんせい、今日も給食なにかなー?」
「それはあとでのお楽しみ」
教室から響いてくる笑い声に、葵はふっと目を細めた。その微笑みはやさしく、けれどほんのわずかに――どこか遠くを見つめるようでもあった。
葵は、この村で父――慎一とふたりで暮らしている。母、志乃は二十五歳のときに、葵を出産した直後、その命を落とした。生まれた葵の顔を見て、静かに旅立っていったと、父は語る。だから、葵は“母”という存在がどういうものか、知ることができなかった。優しかったと聞く。あたたかかったとも、言われた。でもそれは、誰かの記憶の中にある“母”であって、葵の中には残されていない。
――その不在が、彼女の心の奥に、小さな“空白”を生みつづけていた。