表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

共通ルート

 こちらの作品は共通ルートを経て途中から二通りのエンディングに分岐します。

 詳しくは後書きにて。

 今も目に焼き付いている光景。


 暗く冷たい水の中、一人溺れる私を貴方は自分の身も省みず必死になって助けにきてくれた。


 無我夢中で正直なにがなんだが分からなかったけれど、にじむ視界の中で見えたその表情は確かに「死ぬんじゃない、僕がついてる!」と言っていて。


 だからあの時から貴方のことを――。


 ◆


 私はベルサリー伯爵家の長女、アンティーラ。


 我が家には嫡子となる男子がおらず、いずれは婿を取って爵位を継がなければならない身(未来の夫に爵位を譲って伯爵夫人になるという選択肢もあるが、父はできれば私に家督を継いでほしいという考えだった)。


 だからこそ立派な領主となるべく日々の勉強を重ね、こうして今は父から与えられた郊外の別邸で使用人と、それから婚約者のマッディと将来に向けた領主代行の真似事をしていた。


(なるほど、ここはこうすればよかったのね)


 連日事務作業に追われ、書類とにらめっこするのが当たり前となっているが、これが不思議と苦にならない。


 私にはこういった細々とした仕事が案外あっているのかもしれなかった。


 ただ、一つだけ懸念があるとすれば――。


「ねえロアンナ、このリンゴを剥いてほしいな。お腹空いちゃってさ、お願いだよー」


「ふふマディ様ったら、いつまで経っても本当に甘えん坊さんですね。でしたらお剥きしたついでにわたしがあーんもして差し上げます」


「やったぁ! ロアンナからあーんで食べさせてもらわないとなんだか美味しくないんだよね」


「体は大きいのにまるで子供みたいにはしゃいで可愛い。ちゃんとマディ様の大好きなウサギさんの形にしますから、少し待っていてくださいね」


「うんっ、いい子にして大人しく待ってる!」


 まるで私の存在が見えていないのか、目の前で公然と繰り広げられるイチャイチャっぷりに辟易する。


 これは私の婚約者であるマッディと、その彼が連れてきたロアンナによるものだ。


「……マッディ、メイドと浮気をするのだったらこの部屋じゃなくて別の場所でやってくれる? 気が散るし、ハッキリ言って仕事の邪魔なの」


「なに馬鹿な事を言ってるんだいアンティーラ、浮気だって? 違うよこれは主人と侍従の単なる触れ合いじゃないか」


 たまらず苦言を呈すると、さぞ心外とばかりに反論するマッディ。


「そうですよアンティーラ()()。浮気だなんて、人聞きの悪い。マディ様とわたしはそんな不純な関係じゃありません」


 とはいうものの、どう見てもそうは思えないのだけれども。


 そもそも侍従というものは、我が家もそうだが普通は主人との浮気を警戒して同性にするもの。


 にもかかわらずこのロアンナという使用人は、マッディたっての希望で一緒に住むことになったばかりか彼の身の回りの世話をすべて担っているのだから、浮気を疑うのは無理もないだろう。


「だったら二人とも、勘違いされるような行動は慎んで適切な距離を保って――」


「ああもうアンティーラはいちいちうるさいな。別にいいじゃないかこれくらいのスキンシップ、僕は君の命の恩人なんだよ⁉ だからこれぐらいの行為は許してくれてもいいだろ!」


(はぁ……これぐらいの行為、ね。なら貴方は、どれぐらい私がその行為を不快に感じているのかまるで理解できていないのでしょうね)


 吐き捨てるようなマッディの言葉に、内心嘆息する。


 なにかと言えばすぐにこれだ。


 確かに私は子供の頃に家族と訪れた湖畔で足を滑らせて溺れてしまい、危ういところをマッディに助けられたことがある。


 その命がけの行動に感動した私の父が、男爵家の子息である彼をぜひ将来ウチの娘の婚約者にと申し出て今日に繋がる。


 そういった意味ではマッディはこちらにとって政略結婚の相手とも違い、命の恩人以上の意味はないのだが、あの時私を助けに来てくれた彼の姿はまさしく物語のヒーローそのものだった。


 ……だけど、それだってもう過去の話。


 こうやってマッディと実際に暮らして行く中で少しずつ彼の嫌な部分が目につき始め、日に日に冷めていく自分がいた。


 ◆


 本日の雑務を終え、一日の疲れを取るべく寝室に入った。


 もちろん私一人だけである。


 いくら婚約を交わしている間柄だとはいえまだ正式に籍を入れたわけではないので、マッディと(ねや)を共にすることはない。


 当然彼に専用の私室は与えており、万が一にも間違いが起こらないようお互いに努めている。


 なにより翌日に疲労を持ち込まないように睡眠くらいは一人静かに取りたかった。


 だから今宵も夜食と入浴を手早く済ませて早々に寝入るつもりだったのだけれど、コンコンと私の部屋をノックする音によってそれも先延ばしとなった。


「アンティーラさん、話があります」


 こちらの返事も待たずに、ドアを勝手に開けて部屋まで入ってきたのはロアンナだった。


 家長の寝室に一使用人が無断で入り込んでくるなど無礼極まりないのだが、なぜか彼女は正義はこちらにあるといった表情を浮かべている。


「貴方ね。言いたいことはいくつかあるけれど、まずはいい加減そのアンティーラ『さん』という敬称を改めなさい。いくらマッディが連れてきた侍従とはいえ立場的には私の方が上なのだから、まだ奥様ではないにしろきちんと『様』を付けて呼ぶべきだわ。然るべき場でもそんな風に呼ばれでもしたら、使用人の教育がなっていないとして私やマッディが恥をかくのよ」


「いいえ、勘違いされているようですがわたしが仕えているのはマディ様ただ一人です。なのに、なぜ敬愛していないアンティーラさんにまで様を付ける必要があるのですか? 意味不明な要求を口にしないでください。一応、こうやって敬語で話してあげているではないですか」


 ……敬語で話してあげている? なぜ貴方から上から目線で物を言われなければならないの?

 

 その仕えているマッディの婚約者でもある私に対してずいぶんな口の聞き方だけれど、果たしてまともな教育を受けさせてもらえていたのかしらこの子は。


 ロアンナは孤児院出身だという。


 それを不憫に思ったマッディの口添えもあり、平民でありながら彼の家で使用人として召し抱えられたと聞いた。


 確かに貴族の慈善事業の一環としてはよくある話ではある。


 どこに連れて歩いても恥ずかしくない程度には容姿も整っており、華奢な体つきと儚げな雰囲気も相まってマッディが庇護欲に駆られるのはまあ分からなくもない。


 けれどもこれは流石にない。


 別に権力を振りかざすつもりはないが、こちらにも貴族としての面子や矜持というものがある。


 だからこそ彼女のあの態度で私に接することを良しとしている時点で、少なからず向こうの家の常識を疑ってしまう。


 もし逆の立場だったら是正(ぜせい)するように強く申し付けているところだが、仮定の話に意味はない。


 それよりも早々に話を切り上げてしまおう。


「……敬称の話はもういいわ。それで? こんな夜分遅くになんの話かしら? こっちは朝からの仕事で疲れているのだけど」


 言外に明日出直して来いという意味合いでそう告げたものの、相手が引く様子は見られない。


 どうやら場の空気を読むという概念も彼女には存在していないようだった。


「単刀直入に言います。――マディ様との婚約を解消してください」


「……マッディとの婚約を解消してほしい?」


 聞き間違いではないことを確認するためにそう繰り返すと、ロアンナは「ええ」と頷いた。


 元々面白い話が来るとは思っていなかったが、これはちょっと予想外に過ぎた。


 だってどこの世界に当人らの家族や親戚関係者ならいざ知らず、まさか使用人が主の婚約解消を直接相手に迫ってくると思うのか。


「マディ様も……彼もそれを望んでいます」


「本人が望んでいる? おかしいわね、マッディからそのようなことを匂わせる発言を聞かされたことがないけれど、仮に事実だとしてなぜそんな大事なことを本人ではなく貴方から言われないといけないの?」


「それは婿養子で迎えられるマディ様の立場では思っていても口に出すことができないからです。だからわざわざこうしてわたしの方からお伝えしにきたんです。ああ可哀想なアンティーラさん、本当に彼が愛しているのはお飾り婚約者のあなたではなくこの私なのに!」


 ……本当に何を言っているのこの子は、妄想もそこまでいくと大概ね。


 おおかた自分に優しくしてくれるマッディの姿に一方的な思慕の念を抱いたのだろう。


 身分違いの恋は物語の世界ではありふれているが、現実は架空のお話のようにはいかない。


 結局は色々なしがらみもあって貴族同士の結婚はそう簡単に覆らないのだから。


「そもそも貴方、昼間に言っていたじゃない自分とマッディは浮気なんてしていない、不純な関係ではないと」


「ええもちろん、あの言葉は嘘じゃありません。――だって、わたしたちのは本気ですもの。浮気相手なのはむしろアンティーラさんの方。マディ様はいつも言っていましたよ? あくまであなたとは政略結婚であり、気はわたしにあると」


 勝ち誇ったように宣言するロアンナに対し、私はといえば虚を突かれるより他ない。


 マッディの本命は彼女? そんなはずはない、と反論したいがそう言えるだけの確証もない。


 なにせ私とマッディは今回の同居生活が始まるまでは、せいぜいたまの手紙でのやりとりくらいしかお互いに交流がなかったのだから。


 彼との婚約の話だって愛娘を助けてもらった父の社交辞令であり、てっきり流れたものとばかり思っているとある日突然マッディの方から我が家(今住んでいる別邸ではなく本邸)を訪れ、私と結婚する約束はどうなっているのかと尋ねてきたことから再浮上した話だったりする。


 それでも、あの時は嬉しかった。


 初恋は大抵実らないというが、半ば諦めていた私のそれがこのような形で実を結ぶことになろうとは思わなかったから。


 まあそんな風に浮足立っていた気持ちも同棲が始まってすぐに萎んでいくことになるのだが。


 主にマッディの素行と、こうして目の前にいる彼女のおかげでね。


「このままだと仮に籍を入れても白い結婚としてお互いに辛い思いをするだけです。でも同棲段階の今ならまだ間に合います。どうかアンティーラさんの方から彼に婚約破棄を申し出てください」


「ええ分かったわ……なんて簡単に言うわけないでしょう。とりあえず今すぐに答えが出せるわけでもないし、貴方の話の内容がどこまで真実かも分からない以上は一旦保留するわ。そして私から改めてマッディに話を聞いてその上で結論を出すということでいいわね?」


「構いませんよ。ただ覆らない事実を知って余計に苦しむことになると思いますが」


「知らないでいる方がよっぽど苦痛よ。……さ、貴方もそろそろ自分の部屋に戻っていい加減私を寝かせて頂戴、明日の朝も早いのだから」


「そうですね、夜ふかしはお肌に悪いですし。話も済んだので帰らせていただきますね。それではおやすみなさいアンティーラさん、良い夢を」


 そう言って部屋をあとにしたロアンナは来た時とは打って変わって実に晴れやかな態度で、心にどんよりと陰が差した私とはまるで対称的だ。


 まったく、こんなことで頭を悩ませたくはないというのに……。


 ◆


 幼い日の私が例の湖畔の上に佇んでいる。


 傍らには控えているはずの侍女の姿はおらず、見ているこちらが思わずハラハラさせられるような危うい光景だ。


 ――ああアンティーラ、そんなところで遊んではいけないわ! 足でも滑らせたら大変!


 そんな風に思っていたらその小さな体が突然前に傾き、気づいた時には私と()()の手が前に突き出されていた。


 そして次の瞬間にはバシャアンッッッ‼ と盛大に水しぶきが上がる。


 途端ジタバタと溺れ始めるアンティーラの姿を私とともに見下ろすその人物の正体は……。


「――っ!」


 慌ててベッドの上から飛び起きる私。


 心臓が早鐘を打つようにドクンドクンと動き、全身には嫌な汗をかいていた。


 ひとまず心を落ち着かせるために何度か深呼吸を繰り返し、ようやっと乱れた息を整える。


「あの夢も久しぶりに見たわね……」


 人は疲れている時にこそ悪夢を見やすくなるのだという。その場合は決まって同じ内容の悪夢を見てしまう。即ち私が過去に溺れた時のものだ。


 ただ、いつも悪夢の中で溺れている私を黙って一緒に眺めている人物の正体が判明する前に目が覚めてしまう。


 おそらく昨夜の件も影響してのことだろうが、このタイミングで見るということはどうやら自分で思っていた以上に精神的ダメージを受けていたらしい。


「……弱気になってはいけないわアンティーラ、私は伯爵家の女性当主としてかくも強くあらねばならないのよ」


 そうやって自らを鼓舞する。男性ではなく女性が家督を継ぐ以上、甘えは許されないのだから。


 唯一の嫡子とはいえやはり娘に家を任せたのは失敗だったと父に後悔させることだけはあってはならない。


 まずは当面の書類仕事より目先に差し向かった懸案事項から片付けなければ。


「マッディ。二人きりで話があるのだけれど」


 というわけで自らの侍女に申し付けてさっそく当人を呼び出した。


 のそりとやってきた彼の体からは密かに女性用の香水の香りがしたが、この調子だとさっきまでロアンナと一緒にいたに違いない。


 チクリと、針にでも刺されたように少しだけ心が傷んだ。


「話? なんだいアンティーラ、まさかとは思うけど僕に君の仕事の手伝いを頼むつもりじゃないだろうね。悪いけど、ああいう地味な作業は得意じゃないんだ」


 得意ではない、ではなくやりたくないの間違いでしょうとは訂正しないでおく。


 前に一度だけ無理やり手伝わせたことがあるが仕事内容に愚痴や文句を散々言った挙げ句、貴族の仕事とは下流階級の人間と違って働かずに遊び呆けることだと(のたま)ったので、以後ずっと私一人で仕事に耽っていた。


 もちろん内心では呆れ果てているものの、足を引っ張られるよりはマシなので放置しているのが現状なのだが……。


「違うわ、貴方が連れてきたメイドのことよ」


 そう伝えたところ、明らかにホッとする様子を見せたマッディの姿にこれまた失望させられる。


「なんだ、ロアンナのことか。ふう焦ったなぁ、あんまり僕を驚かせないでくれよ。てっきりまた仕事でもさせられるかと思ったじゃないか。君もそこまで働かなくても潤沢な蓄えもあるんだからたまには休めばいいのに」


 ……貴方ね、そっちは自分の実家からそれなりに仕送りをもらっているかもしれないけど、大本の生活費はこちらが負担しているのよ。


 私に隠し通しているつもりらしいけれどお金の流れは向こう方を通してすべて把握済み。

 

 だからこそ、せめてこちらに無断で連れてきたメイドの給料くらいは彼が自分の懐に全額収めているその仕送りで解決してほしいのだが、それを今の状況で口にしたところで話が明後日の方向にそれてしまうからひとまず置いておく。


「とりあえず前から言ってるように彼女はただの侍従で、僕たちの間に君が考えているようなことはなんにもないって何度言えば分かるんだい? まったく、女の嫉妬は見苦しいよ? こうやってわざわざ呼び出したりまでして、一体僕のなにが不満だと言うんだ。君の命の恩人だというのに」


 女の嫉妬、嫉妬ねぇ。


 確かにそれはあるかもしれない。だけど当然の話ではないだろうか。


 婚約者を蔑ろにして、自分は平気で他の女性とスキンシップ。


 変に勘繰ってしまうからそういう行為はやめてほしいと訴えれば逆にこちらが悪者扱い。


 これでは不満だって抱くに決まっている。


 ええそうよ、それもこれもすべて貴方の意志がはっきりしないからいけないの。


 だから聞かせてマッディ、貴方の本音を。


「その彼女が言っていたわよ。マッディの本命はあくまでも自分であり、(アンティーラ)は政略結婚の相手に過ぎないって。あとはそうね、私との婚約解消も実は望んでいるとまで言っていたわね」


「ロアンナが……?」


 彼女の名前を出した途端、マッディの顔が今度こそこわばった。


「いや違うんだよアンティーラ、そんなのは本人が勝手にそう思い込んでいるだけで僕には別れるつもりはないし、本当に好きなのは君だけだよ。これまでに目にしてきたどんな宝石よりも綺麗でどこの貴金属よりも輝いていてどのビスクドールよりも愛らしい。だからそんな君と婚約した幸せを毎日噛み締めている僕に水を差すようなことは言わないでおくれよ」


 お飾りのように言葉を取り繕って、その証拠と言わんばかりに慌てて私を抱きしめるマッディ。


 いくら婚約者とはいえ、許可なく体に触れないでと突き飛ばすことはもちろん可能だが、あえてそのままの状態でそっと彼に耳打ちをする。


「でも、浮気していたのは事実なのでしょう?」


「それは――、うん、正直否定はできない。君が仕事ばっかりで僕に構ってくれなかったからつい寂しくて。不安にさせてしまってごめんよ。けど僕の本命は君だけだ、これだけは信じてほしい」


 ……ずいぶんあっさりと認めるのね。


 かねてから口で不貞こそを疑いつつも、心の底では貴方のことを信じていたのに。


 浮気性の男が言う『これだけは信じてほしい』にいかほどの信憑性があると思っているのか。


 もちろん有責はマッディ側にあるから慰謝料の支払いを含めて婚約破棄を申し込めば、すぐさま受理されることだろう。

 

 しかし後にはどうしても婚約者に浮気をされた伯爵令嬢という醜聞がついて回る。どんなに私に否がないとしてもだ。


 ただでさえ女性当主に対する世間の風当たりは好ましいものではなく、少しでも不安要素は取り除いておきたい。


 よってこの際辛いけれど、マッディの火遊びは見なかったことにして関係を修復するのが双方にとって最善の方法ではあった。


「なら、ロアンナは貴方の家に送り返して改めて男性の侍従を呼んでくれるわね? それなら一度限りの過ちとして貴方の不貞行為を水に流すのもやぶさかではないわ」


 私としては最大限譲歩したつもりだった。正直気軽に許せるような彼の裏切りではないものの、簡単に切り捨ててしまえない程度には恩や愛情もまだいくらか残っている。


 侍従に手を出した理由はともかくとして、仕事にかまけて彼を蔑ろにしていた部分も少なからずあって居心地の悪さを感じさせてしまったことも原因の一つかもしれない。


 反省する必要はないが、この点に関しては考慮すべき部分ではあるし、だからこそこちらも歩み寄る努力を見せようと思っての提案だったが。


「いやそれは……彼女もあれで可哀想なんだ、僕がいてやらないと家に居場所なんてなくて。父上はともかく母上はロアンナのことを無視するし、見ていないところでメイド長から虐められていたらしくて。だからつい彼女を連れてきてしまったんだ。なのに今更送り返すなんて、そんな残酷なことできないよ。君だって鬼じゃないだろう?」


 ……ああ、これは無理だ。


 もはやその段階ではないというのに、ことここに至って嘘か本当か分からない事情で私の同情を買おうとするばかりか、過ちを犯した身分でありながら片方を切り捨てる決断もせずにあわよくば二兎を得ようとまでするマッディのずるい対応で悟る。


 彼の心にやはり私はいないのだと。


「それなら、仕方ないわね」


「そう、仕方ないんだよ!」

 

 そっとマッディの肩を押し、互いの体を離す。


 答えはもう決まっていた。


「なら――私たちはもう別れましょう」


 誤解を招く余地がないよう、努めて冷静な態度で彼に別れ話をきり出す。


「えっ、どうして急に⁉」


 マッディは驚いた表情を浮かべたが、まさか私が彼の申し出を受け入れると本気で思っていたのだろうか。


 もしそうだとするならばどれだけ侮られていたのか。人を馬鹿にするのも大概にしてほしい。


「急ではないわ。前々から頭の片隅によぎってはいたけれどあえて考えないようにしていただけ。でも今の貴方の言動によってついに決心したわ」


「アンティーラ、君はそんなにロアンナのことが嫌なのかい⁉ 分かったよ、なら彼女は実家に送り返す、だから別れるなんて言わないでおくれ!」


 卑怯としか言いようがない。


 どうしてそうやって私に否を押し付けるような言い方ばかりするのか。


「彼女には向こうに居場所がないのでしょう? だったら貴方が責任をもって守ってあげないと。私なら大丈夫、一人でだって生きていけるから。だけどなんの後ろ盾もない彼女にはきっと貴方が必要よ」


「いやでも、僕にとっては君の方が大切で――」


「私が大切? ならどうして彼女に手を出したりなんてしたの。貴方が最初から浮気なんてしないでそのことを相談してくれればまだ信じられた。だけど、もう遅い。今の貴方はしょせん中途半端なの。都合のいい浮気相手を失いたくなければ、私との政略結婚も反故にしたくない。そんなのが通るわけないでしょう?」


「だからどちらか一方なら君の方を選んで……」


「それこそ今更で最低な選択よ。私に別れを切り出されたからしぶしぶ選んだだけじゃない。でも彼女から一歩的に好意を寄せられていただけならまだしも、不貞行為を介して相手に勘違いさせてしまったのだから、最後までその責任を取るべきだわ。なにより、私だってこれ以上浅慮な貴方に裏切られるのはまっぴらごめんよ」


 きっぱりと自分の意志を伝える。


 これまでのことを振り返ってみると、ずっと私はマッディに裏切られ続けてきたわけだ。


 そしておそらく、今ここで彼とやり直す選択をしたところで今後も同じことを繰り返されることだろう。その度に心を傷つけられるのかと思うとゾッとする。


 だからもういい加減すべてを精算したいというのが嘘偽りのない本音だった。


「…………だ」


 しかし私からの婚約解消宣言を聞いてしばらく放心していたマッディだが、


「嫌だ……僕は君と別れない」


 その言葉だけをなんとか絞り出す。


「子供じみたワガママを言わないで。私の決意は既に固いわ。残念だけど貴方とやり直したいとは思えない」


「――い、嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だったら嫌だ、僕は絶対、ぜぇーったいに君とは別れないっ! そそそうだ、なら君と僕が初めて会ったあの思い出の湖畔でデートしよう! そうすればきっと考えも変わるよ、うんそうしよう!」


 なんだか悲しくなる。


 私はこんな情けない彼のどこに惹かれていたのだろうか。


 人間というのはどうやら呆れ果てると怒りよりもまず最初に哀れみが湧いてくるものらしい。


「……分かったわ、それで貴方の気が済むなら。もう一度あの場所に行きましょう」


「ホント? 約束だよ! やったぁ明日は楽しみだなぁ。頑張って君のさっきの発言を撤回させてみせるから期待してね!」


「マッディ……」


 彼の名を呼ぶ声は自分でも分かるほど悲壮感に満ちていて。


 もしこれが他人事であればあまりのいたたまれなさに思わず目をそらしていたことだろう。


 だけど目の前の彼にはこちらの心情など知る由もなく、デートだデートだと無邪気にはしゃいでいる姿がことさら残念に思わせた。


 ◆


 ~マッディ視点~


 明日アンティーラと仲直りデートの約束を取り付けてすぐに、僕は自分の侍従であるロアンナの部屋に向かっていた。


 アンティーラの目もありお互いの部屋は離れてはいるが、同じ屋敷に住んでいるのだから行き来することは容易だった。


「――ロアンナ、いるか!」


 勢いそのままに部屋を訪れた僕に対し、なにも知らないバカ女は喜色満面の笑みを浮かべながら主人を歓迎した。


「まあマディ様ったらどうかされましたか、そのように怖いお顔を浮かべられ――」


 最後まで言い切る前に平手を見舞う。バチンと乾いた音がして、叩いた僕の手のひらがじわりと痛んだ。ああくそ、余計にイライラさせられる。


「お前、アンティーラに僕たちの関係をバラしたそうだな? しかもお前の独断で彼女にいらないお節介まで働いたと聞いているが」


 叩かれた頬を無意識に抑えたロアンナはなにが起こったのか分からない様子で目をただ見開いている。


 そんな彼女の髪を引っ張って無理やり僕の目の前まで顔を近づけさせるとそこでようやく理解が追いついたのか、消え入りそうな声でボソボソと先ほどの質問の返答をする。


「え、ええ、マディ様の代わりにわたしの方からアンティーラさんに婚約解消を迫りました……。その、わたしを含めた三人の将来のために良かれと思って……」


「なんてことをしてくれたんだこのグズ、お前のせいで僕の計画が台無しだ! こっちはただ遊びのつもりだったのに、お前ときたらそれを本気にして勝手に先走りやがって……っ!」


「あ、遊びのつもり……?」


 僕がなじると、ロアンナはひどく驚いた表情を浮かべた。


 ……なんだその顔は、まさか本当に自分こそが本命で、主人に寵愛を注がれているものだとでも思っていたのかこの女は。


 本人は思い違いをしているようだが見てくれが僕の好みなだけで、それ以外に価値はない。


 だからこそ当時父上に頼んで自分の侍従として召し抱えてやったのに、恩を仇で返しやがって!


「なんのために()()()()までしてアンティーラに取り入ったと思っている⁉ それもこれもすべては僕の将来のためだ! 生まれついて勝ち組の貴族とはいえしょせんは次男坊、つまり家を引き継ぐ可能性は低い。そうなると軍人になって働いたりしなきゃならないんだよ! だからてっとり早く楽して暮らすためにどこかの金持ちで家格の高い貴族令嬢と政略結婚するしかないってのに!」


 怒りのあまりつい言わなくていいことまで口にしてしまう。


 だがどうせ聞いているのはこいつだけだし問題ないだろう。


「もういい、お前との関係もこれで終わりだ」


 公然と手出しできる下賤な生まれの女を手放すのは惜しいが、流石に色々とアンティーラに露見してしまった以上は捨てざるを得ない。


 これから誤解を説いて元さやに戻るべく全力で彼女に媚びないといけないのだから、そうなるとこっちのお古は邪魔になるだけだ。


 まあ実家に送り返したところでこいつの居場所がないのは本当だ、なにせロアンナは我が家公認で僕専用の性欲処理係なのだからな。


 ただそんな扱いの奴のせいで、万が一にも僕とアンティーラが婚約が破談にでもなったりしたらどうなるかは想像に難くない。


 まあそんなのは知ったことではないが。


 しかしそんな僕の思惑は、ロアンナの次の言葉によって遮られることとなる。


「えっ、で、ですが私のお腹にいる()はどうなるのですか?」


 ……は?


「お腹の子ってどういう意味だ?」


「できたんです、赤ちゃん」


「なんだと……」


 突然の告白に今度はこちらが驚かされる。


 だが、そんなはずはない。


 確かにロアンナのことはアンティーラの代わりに何度も抱いたが、もちろんこいつとの間に子を設けるつもりはなく、貴族が火遊びに使う避妊薬をきちんと飲ませていた。


 まさか効果がなかった? または薬を飲む振りをしてひそかに妊娠を狙っていたのか?


 ちっ、腹が膨らんでないからまったく気が付かなかったぞ。


 いや、そんなことはどうでもいい!


「妊娠のことはアンティーラには?」


「……言ってませんよ。マディ様に一番にお伝えしたかったもの」


 そうか、ならまだチャンスがあるな。


 もしこのことをアンティーラに知られていたらそれこそ婚約解消だと激怒されていただろうが、これならなんとでもごまかせる。


 彼女はまさしく僕の理想の女性なのだ。聡明で美しい伯爵令嬢でありながら、なんと将来家督を継ぐ気でいる。つまり婿を欲しているわけで、僕の置かれた状況と照らし合わせるとまさにうってつけの優良物件だ。絶対に逃してなるものか。


「……怒鳴ったりして悪かったねロアンナ。僕も少し気が立っていたようだ。そうか、僕の子どもか。分かった、なら覚悟を決めないとね。父上と母上には僕の方から説明するよ。おそらく結婚を認めてもらうためには今の身分を捨てて君と同じ平民になるしかないだろうけど、それでもついてきてくれるかい?」


「……! ええ、ええマディ様! わたしはどこまでも愛するあなたについていきます!」


 我ながらよくもまあツラツラと思ってもいない空虚な言葉が出てくるものだと感心する。


 責任? そんなもの当然取るわけないだろう。なんのために身寄りがいない孤児を侍従にしたと思っているんだ、そんなのは後腐れもなく掃いて捨てることができるからに決まっているだろう。


 ふふ、それにしても幸せそうな顔をして本当に馬鹿な女だなぁ。


 僕の決めた覚悟がどういう類のものかも知らずにさぁ。


 だが今はその愚かしさがすこぶる愛おしいよ、ロアンナ。望まない妊娠をさせてしまった()()はきちんと取るからね。


 ~マッディ視点終わり~


 ◆


「アンティーラ様、本当によろしいのですか? その、例の湖畔に出かけられても。せめて旦那様に一言相談された方が……」


 翌日。


 マッディと取り交わした約束を果たすべく外出の用意を言い付けていた私の侍女から、こちらを(おもんぱか)るような口調でそう言われる。


 どうやら不安にさせてしまったようだ。なにせ私はあの水難事故以来、父からあそこへ足を運ぶことを良しとされていないからだ。


「大丈夫よコルダータ、私はあの頃とは違うわ。それにお父様もお忙しい身だもの、このぐらいのことでわざわざ煩わせては駄目よ。これも当主の仕事だと思ってマッディのことも含め、きちんと私が対処してみせるわ」


 昨夜からずっと一人考えていたのだが、やはり彼に対しての気持ちが変わることはなかった。


 だから今日は彼と最後の思い出作りになることだろう。


 もちろんマッディのあの様子ではすぐには納得してもらえないだろうが、だからといってこちらも譲るつもりはない。


「ですがアンティーラ様、侍女の身分で主の決定に物申すなど差し出がましい行為だとは思いますが、それでもわたくしは心配なのです。あの地を再び訪れることによって嫌な記憶(トラウマ)を呼び起こしてしまうのではないかと」


「それこそ問題ないわコルダータ。確かに今でも時々あの日の悪夢を見ることはあるけれど、得た体験を教訓にしていざという時の努力をしてきたじゃない。……ただ貴方には、本当に悪いことをしたと反省しているわ。私のせいで危うく事故の全責任を問われるところだったもの」


「いいえ、アンティーラ様が罪悪感を抱く必要はございません。理由はどうであれ、いっときでも仕える主の側を離れて危険に晒してしまったことは事実ですから」


 運の悪いことに、あの現場において普段片時も離れることのなかったコルダータがなぜか私の側にいなかった。


 そのため父は激高し、侍女としての役目を放棄したとして彼女に罪を問おうとした。


 私が必死に庇ったこともありなんとか鞭打ちの折檻だけで済んだものの、その代わりに彼女には一生消えない傷を背中に負わせてしまった。


 本人はこの程度の罰で済んでよかったと許しを得られたことに感謝していたが、私は今でも自分のうかつさを責めずにはいられない。


 だから罪滅ぼしというわけではないが、せめて彼女のことはこの先も大切にしていくつもりだ。


「……そういえば、貴方はなぜあの時私の近くにいなかったの? 理由をいくら聞いても教えてはくれなかったわね」


「申し訳ございませんアンティーラ様、その件については何度訪ねられても現状わたくしの一存でお話するわけには……」


 やはりコルダータはなにかを隠している。普段なら一切私に隠しごとなどしないのに、このことに関しては頑なに口を閉ざすのであからさまだ。


 彼女の性格上、拙い言い訳をするつもりはないことは分かっている。だからこそ父ではなく私にだけでも包み隠さずわけを話してほしかった。


「おーいアンティーラいるかい? 入るよ!」


 と、部屋の外からマッディの声が聞こえたかと思えば、こちらから返事をする前に勢いよくドアが開かれる。


「マッディ……ちゃんとノックくらいして頂戴。私が着替えていたらどうするつもりだったの?」


「おっと、ごめんよ。でも別にいいじゃないか、僕たちはいずれ夫婦になるんだし少しくらい肌を見たって。むしろ早く君の裸を見せてほしいよ、きっと絹みたいに綺麗なんだろうなぁ」


「貴方、今の発言はレディーに対してあまりにもデリカシーに欠けるわ。それと私にはもう貴方と夫婦になるつもりは――」


「ああ今日は朝からいい天気だなぁ! うーん、絶好のデート日和だ! さあだから家にこもっていないでさっさと出かけよう! ほらほら!」


 大声を出して話をごまかすだなんて、やり方がいちいち男らしくない。


「おいそこの使用人、早くアンティーラの支度を整えてくれよ!」


「ちょっとマッディ、コルダータはあくまで私の侍女であって貴方用の小間使いではないのよ? なのに主人ぶって命令しないで」


「ははは、アンティーラは僕に厳しいなぁ。でもそういうところも素敵だよ」


 私が注意するもマッディはどこ吹く風といった様子。


 お待たせして申し訳ございませんとマッディに頭を下げるコルダータの行動をたしなめてから、改めて配慮の足らない婚約者(暫定(ざんてい))を部屋の外に追い出した。


「はぁ……」


 なんだか頭が重い。


 今日のマッディの態度は若干、いや正直かなりうっとうしい。おおかた私の機嫌でも取って婚約解消の危機を回避したいのだろうが、逆効果だ。


 ああ、どうして自分は彼に初恋をしてしまったのだろう。


 命の恩人だから? それとも――。


 ◆


 マッディと初めて出会ったその湖を訪れるのはかれこれ十年ぶりになる。


 マッディたってのお願いでもなければこうして再びこの地に足を運ぶこともなかったのかもしれない。


 もっともここでそのきっかけを作った彼に別れを告げることになるのだが……。


「どうして彼女までいるのかしら? 別に文句があるわけではないけれど」


 目線の先にはロアンナがいた。いつものようにフリルの付いたメイド衣装を身にまといながら、涼しげな微笑みを口元に浮かべていた。


 私やマッディに対し腹に据えかねている様子は見受けられず、波の立たない水面のように静か。


 てっきり本日の行楽の目的を聞かされて怒りを覚えているのかと思っていたが、まさかマッディは彼女になんの説明もしていないのだろうか?


「すまないアンティーラ、今日のことを話したらロアンナが自分もついていくってしつこくてさ。だけど安心して、僕が全部終わらせるから」  


 果たしてなにをどう終わらせるつもりなのか。


 ただ、それを彼に尋ねることは憚られた。


 こちらはこちらで、二人に気を揉んでいる場合ではない。


 マッディとの関係を整理し、昨日今日意図せず開けてしまった仕事の穴埋めを早々にしなければならないのだから。


 ◆


 その後これといって特になにかあったわけでもなく、表面上は穏やかな時間が流れた。


 水辺に飛来する野鳥を観察したり、自然の音に耳を澄ませたりと、どうせならこの機会とばかりに心身のリフレッシュにあてさせてもらった。


 まあ体はともかく、心の方まで休めるかどうか心配だったが、それも杞憂に終わった。


 その間のマッディといえば、これまた不思議なことに来る前と違い今度は落ち着いた様子で私とコルダータの後ろをロアンナと一緒にカルガモの親子よろしく付いてくるだけで、あとはほとんど言葉数もなかった。


 そんな彼らも今は「二人だけで話がしたい」と席を外しており、コルダータが昼食の用意をしている音だけがひっそりと響いている。


 心地よい風に揺られながらこのまま何事もなく済めばいいと考えていた矢先、林の先にある湖のほとりから突然叫び声が聞こえてきた。


 コルダータと目が合うと過去を思い出したのか一瞬だけ不安の表情を覗かせたものの、すぐに唇を引き結んで平静を装う。


 おかげで私も取り乱さないで冷静さを保つことができた。


「今の悲鳴、もしやお二人の身になにかあったのでしょうか? わたくしが確認して参ります」


「待ってコルダータ、私も行くわ。もしもの事態にあっても一人でも人の手があればできることは増えるでしょ?」


「……分かりましたアンティーラ様、ですが無茶だけは決してしないでください」


「ええもちろん、それより急ぐわよ!」


 コルダータを連れ立って急いで声のした方向に走っていく。


 幸い距離はそう遠くなく、走り始めてから数分も経たないうちに現場が見えてきた。


 その先にいたのは――マッディだけ? 一緒にいるはずのロアンナはどこに?

「どうしたのマッディ、なにがあったの⁉」


「ああアンティーラ! ロアンナが足を滑らせて水の中に落ちてしまったんだ!」


 マッディが指さした方向を慌てて目で辿ると、確かにバシャバシャと水面で必死にもがく彼女の姿があった。


 しかし水を吸った着衣のせいで、抵抗むなしく徐々に沈み始めていく。


 どうしてこのような事態に陥っているのか原因までは定かではないものの、二人の間でなんらかのトラブルがあったことだけは明白だ。


 でなければ大の大人があんな格好のまま水辺に近づくわけがない。


「黙って見てないで、彼女を助けないの⁉」


 私の隣でただ呆然とロアンナが溺れている様を眺めているだけで、一向に救出に動こうとしないマッディを強めの口調で咎める。


 そもそも服すら着たままだし、最初から自分の侍従のことは諦めているのかもしれない。


「無理だよ! 僕まで溺れてしまう! それともなにか、君はたかが使用人のために僕の貴重な命を投げ捨てろというのかい⁉ 見返りもないのに冗談じゃない!」


 喚くようにして最後にマッディが漏らしたその一言が決定的だった。私が彼に抱いていた恩義がまるで氷のように溶けていく。


 見返りがないと他人を助けないということは、つまり私を助けたのはたんに見返りを期待してのことでしかなかった。


「……そう、かつて自分の命をかけてまで助けに来てくれた貴方(ヒーロー)はもうどこにもいないのね。なら代わりに私が彼女を助けるわ!」


「はぁ、なにをする気だい……?」


「いけませんアンティーラ様、それでしたらこのわたくしが――!」


 いぶかしむマッディとは裏腹にコルダータは私が次に取る行動を予想できたらしく、慌てて声を張り上げた。


 しかし着脱に時間のかかる給仕服に身を包んでいる彼女とは対象的に、自分は外歩き用の簡素な一張羅(ドレス)を着ているだけだ。


 ゆえに一息でそれを脱ぎ捨てると、コルダータの静止を振り切ってそのまま水面へと飛び込む。


(無茶だけはしないって貴方との約束をさっそく破ってごめんなさいコルダータ、けれどあそこでもたついていたらそこにある救える命も救えなくなってしまうもの)


 既にロアンナは大量の水を飲んでしまって危険な状態であり、もはや一刻の猶予もない。


 ただし真正面から救助しようとするとパニックになった彼女に抱きつかれて、二人仲良く溺れてしまう。


 そうならないためにも少し遠回りして、彼女の後ろに回り込んでからすぐに抱きかかえた。


 あの日の事故を教訓として、将来こういう事態に備えてひそかに泳ぎ方やこういった人名救助の仕方を覚えていたのだ。


「もう大丈夫よ落ち着いて」


 ロアンナに語りかけながら、そのまま背泳ぎで慎重に接岸していく。


「今、陸地につくわ」


 ようやく岸に辿り着くと、すぐ横で控えていたコルダータにすぐさま手伝ってもらいロアンナを引き上げることに成功した。


 彼女はゴホゴホとむせながら水を吐いてはいるもののそれ以外に怪我はなく、意識もはっきりとしている様子だった。


 よかった、助けることができて。複雑な感情がないわけではないが、それとこれとは別だ。


 なにより色々と問題があったとはいえ、愛する男から見捨てられて、あまりにも可哀想だ。


 この段階に至ってもいまだ彼女が恋慕していた男――マッディは、相変わらず遠巻きにこちらを眺めているだけで駆け寄ってくる気配がない。

 

 本当に自分の侍従の安否はどうでもいいのね、顔を青くして心配しているようだけど、果たしてそれはなにに対してかしら?

 まずはここまでお読みくださりありがとうございます。

 これで共通ルートは終了となります。

 ここからの展開は一部パラレル要素を含む断罪ルートと救済ルートに分岐します。

 断罪ルートは慈悲のない完全なる断罪劇(ざまぁ)が繰り広げられます。

 元婚約者やそのお付きのメイドが悲運な末路を辿りますので、(作者のように)後味悪いタイプのお話がお好きな読者様にオススメです。

 救済ルートはざまぁはあるものの、〇〇を筆頭に一部キャラに温情と見せ場が与えられますので読後感が爽やかなモノを求められる読者様に最適です。

 またその性質上こちらのルートが正史であり、救済ルートでしか明かされない物語の設定などがありますので、最終的にはどちらか一方と言わず両方のルートをお楽しみいただければ幸いです。

 また、更新は本日の夜頃を予定しております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ