008 人間の手前
再び、湖に戻ってきた。もちろん、進化した自分の身体を確認するためだ。移動中に気づいたのだが――人間だった頃の体型に、かなり近づいている気がする。視線の高さにも違和感がなく、歩行も自然にこなせた。
他にも気になる点はあったが、まずは容姿を確認しようと、水面を覗き込む。
…………なるほど、そうきたか。
まず、容貌が大きく変わっていた。髪が生え、ツルツル坊主だった頭は、短く整った黒髪で覆われている。見た目の印象も、人間にずいぶん近くなった――というか、ほぼ人間だ。
人間だった時の自分の顔は、正直あまり覚えていないが……今の顔、不細工ではない。どちらかというと――『イケメン』の部類かもしれない。
そんなに容姿に特別なこだわりや執着はない俺だが、ひとつだけ気になる部分があった。――目だ。双眼になったことに最初は喜んだ。もう独眼じゃない、と。……だが、水面に映る顔をよく見て気づいた。額の位置に、もうひとつ目がある。
最初は分からなかった――なぜなら、それは閉じていたからだ。
普段は閉じているようで、両目をしっかりと閉じたときだけ、額の目が開くらしい。瞬き程度では開かない。
……なに、その謎仕様? 眠る時とかどうすんの、それ。
3度目の進化ともなると、変化にもだいぶ慣れてきたのか――そんなくだらないことを考える余裕もある。かつての芋虫や猿のような独眼姿に比べれば、今の容貌はかなり『まとも』だ。うん、人間っぽい、というか、ほぼ人間だ。
ただ、正直、この三つ目に、何か特別な意味があるのかどうかは……分からない。
一つ目だったときは、遠近感が取りづらくて、とにかく不便だった。まあ、でもそれは、もうどうでもいい。考えても仕方のないことは、考えない主義だ。
それより、今は全身の確認が大事だ。顔以外の変化を詳しく見るため、水面に全身を映し出す。
……おぉ、感動! とても良い! 素敵です!
容姿の方も、人間にかなり近づいているようだった。
――まず、首がある。以前の寸胴で首のなかった体とは違い、胸筋や腹筋が発達していて、上半身は肉厚で引き締まっている。しっかりと「くびれ」もある。肌は相変わらず褐色だが、皮膚は薄くなり、体毛も少ないままだ。
そして、歩いている時から気づいてはいたが、やはり手足のバランスも良く、均整が取れている。指も五本に戻っており、拳を握ると腕橈骨筋や上腕筋が盛り上がる。全身に程よく筋肉がついていて、まさに格闘向きの肉体に進化したようだ。
……ただ、こちらも一つだけ、気になる点があった。
右手のひらを見てみると――そこには、相変わらず『口』が残っていた。牙もそのままで、開閉できるし、噛みつくこともできる。だが、相変わらず喋ったり、呼吸をすることはできない。
うん、う●こした後は、右手でお尻を拭くのはやめよう!
……とりあえず、そんなアホな感想は置いておこう。
今は、それよりも――実際に身体を動かして、性能を確認することにした。
まずは準備運動。軽くジャンプと屈伸を繰り返す。
……うん、体が軽い!
軽いジャンプのつもりだったが、滞空時間がやたら長い。しかも、その跳躍だけで、進化前の自分の身長くらいの高さまで跳び上がっていた。期待通りの身体能力に、気分も上がる。
よし――と思いっきり膝を曲げ、地面を力強く踏み込んだ。
次の瞬間、想像を絶するスピードで、俺の身体は上空へと跳び上がっていた。下を見下ろすと、広がるリンゴ林が一望できる。
……いや、これ、「跳ぶ」というより「飛ぶ」だろ。
あまりの跳躍力に度肝を抜かれているうちに、身体は頂点を過ぎ、落下を始めた。
かなりの高さからの着地には不安があったが、空気抵抗をうまく利用して体勢を整え、ゆっくりと降下していく。地面が近づいてきたところで、しっかりと膝に力を入れ、着地の衝撃を吸収する。
……思ったより、うまく着地できた。
この高さにしては着地音も小さく済んだし、周囲に魔物や魔族が警戒して近づいてくるような気配もない。
…………なに、これ、怖いんだけど。明らかに、人間だった頃よりはるかに凄い性能じゃん!
あまりにも馬鹿げた身体機能に、思わず唖然とする。たしかに、強くなった。いや、強くなったどころじゃない。……これはもう、人間から卒業してる。
――本当に、もう人間には戻れないんじゃないか。
ふとそんな不安がよぎる。ものすごく高性能なこの肉体に、得体の知れない恐ろしさすら感じた。
……さよなら、人族。
――いや、待て。
俺の第一目標は『生き抜く』ことだ。第二目標は、そのために『強くなる』ことだ。何も、間違った方向に進んでいるわけじゃない。
俺にかけられた呪術を、想定通りに利用して強くなった。それだけの話だ。そもそも、人間に戻るにしたって――生き残っていなければ意味がない。
よし! 俺は、何も間違っていない!
……そう、考えるな。感じるんだ!
とりあえず――サルだった時は足が短すぎてできなかった、蹴り技でも試してみるか!
――――――――――――
俺は、期待していた。
あの馬鹿げた跳躍力を誇るこの身体から繰り出される、蹴り技の威力に――。
そして今……
俺は、後悔していた。
あの馬鹿げた期待を抱いた、この脳筋な頭から導き出された――この惨状に。
俺は、周囲に倒れた大量の樹木を眺めながら、頭を抱えて地面に座り込んでいた。