006 魔物と魔族化
満身創痍というほどではない。だが、戦闘の疲労は確実に心身に残っていた。
それでも何とか足を動かし続け、ようやく目的地――あのリンゴの林へとたどり着くことができた。
頭の中は、さきほどの戦いのことでいっぱいだった。相手はゴブリン。ただのゴブリン――魔物の中でも最弱の部類に分類される存在のはずだ。
僅かに残る人間だったころの記憶では、成人男性であれば、まず苦戦する相手ではなかったはずだ。
それを俺は、まるで死闘のように戦ってしまった。……その事実が重くのしかかる。
改めて、先ほどの戦闘を振り返る。
――あれは、完全に紙一重の勝利だった。俺の正拳突きが決まった瞬間、体は大きく横に向いていた。
寸胴で首のない、いびつな体形――頭と胴体が直接つながった構造が、図らずも命を救ったのだ。
俺の格闘術では、本来、腰を回し、正対から拳を打ち出す。だが、今の俺の体には『腰』がなかった。
その代わり、体全体を半回転させることで勢いを生み出し、拳を突き出した。結果として、体は横向きとなり、ゴブリンの剣をぎりぎりで避けることができた。
狙ったわけではない。完全に偶然――ただの幸運だった。
……まさか、俺は『ゴブリン程度』に、命を賭けなければならない程度の存在なのか? そんな自嘲が頭をよぎった、そのとき。
《いいえ。身体能力に限れば、あなたはゴブリンを上回っています》
突然、【知識の神の加護】の声が、思考の隙間に割り込むように響いてきた。
「……たしかに勝ったさ。でも、ほとんど互角だった。能力的に大差はないだろ」
《いいえ。戦った相手は、「ゴブリン」ではありません》
「……ゴブリンじゃない? それは、どういう意味だ?」
【知識の神の加護】の言葉に、思わず心が揺れる。
俺の記憶違いなのか? それとも、単に呼び名が違うだけのことなのか?
答えを待ちながら、頭の中は疑念で満たされていく。
《ゴブリンではありません。あれは魔物ではなく――魔族です》
「魔族……? どういうことだ。アイツは魔物じゃないのか?」
《いいえ。魔物ではなく、魔族です》
――理解が追いつかない。見た目はどう見てもゴブリンだった。記憶にある、最も一般的な魔物の一種。
なのに、あれが魔族……?
もしかして俺の記憶が間違っているのか。それとも、何か根本的な勘違いをしているのか。考えがまとまらない。だが、今は情報が必要……まずは確認しよう。
「魔物と魔族の違いを、教えてくれ」
《魔物とは、この世界に広く生息する、特殊な器官を持った様々な生物の総称です。強靭な肉体と高い生命力を持ち、凶暴な性質を備える種が多く見られます。
魔法や呪術は使えませんが、その代わりに、炎や冷気を吐く能力、強力な再生力、言葉を使わずに群れ全体で意志を共有することができるなど、多様な器官と特性を備えています。
広く知られた代表的な魔物は、スライム、ゴブリン、コボルトなどです
一方、魔族とは――魔素を取り込むことで、身体能力や機能が強化された存在です。魔族領に暮らしていることが多く、いくつかの部族に分かれています。
たとえば、魔人、魔獣、魔鳥、魔蟲、魔魚……それぞれに亜族や上位種が存在します
また、人族以外の種族は、基本的に魔素を体内に吸収する性質を持っています。
そして、魔素を取り込み続けた結果、魔族へと変異することがあります》
魔物については、俺の記憶と大きな違いはなかった。だが、魔族に関しては、知らないことが多いようだ。
『人族以外は魔族になる』――その言葉が引っかかっている。どういう意味なんだ。
「『魔素を吸収して魔族となる』って、どういうことだ? この情報は誰のものなんだ?」
《生物学者ウィン・チルズの記録に基づいています。
ウィン・チルズは魔素を多く含む食物を生物に与える実験を行い、一定量の魔素を吸収すると『魔族』へと変化することを確認しました。
この現象を、ウィン・チルズは『魔族化』と定義しました》
「チルズ博士……誰だよそれ」と思わず口に出しそうになる。
ただ、その実験は普通にすごいと思う――魔物が魔族に変わる……『SF』かよ。
突然、聞いたこともない名前が出て、多少驚き異世界の言葉が出てしまった。だが、それよりも気になることが頭を過り確認する。
「……ということは、あのゴブリンは、もともと魔物だったが、魔素を吸収して『魔族化』した存在だった、ということか?」
《その通りです。実験で魔族化したゴブリンと容姿が非常に似通っています。また、魔族化したゴブリンは、通常のゴブリンと比べて、身体能力・知能ともに大幅に上回ります》
なるほど、そういうことか。意外と役に立つじゃないか、【知識の神の加護】。
こちらが明確に質問しなくても、たまに自動で情報を返してくるあたり……よく分からない仕様だ。
――まぁ、助かってるから文句はないけど。
それにしても、生物学者のチルズ――いや、チルズさんにも感謝だな。そんな実験があったなんて知らなかった。
「魔族化」か……じゃあ、俺もその類いなのか。でも、さっきは『人族は魔素を吸収できないから魔族にはなれない』って言ってたような。
《…………》
(……うん、やっぱりそこには答えてくれないんだな。まぁ、いいさ)
世の中には分からないこともあるし、答えを聞いても理解できない可能性だってある。いや、むしろ、そっちの方が高そうだな。俺、肉体派だしな。
とりあえず、ひとつだけはっきりした。――俺は、少なくとも弱くはない。
「ちなみにさ、魔族化したゴブリンって、結構いるもんなのか?」
《加護を付与された人間の中で、魔族化したゴブリンと遭遇した記録があるのは、生物学者ウィン・チルズと、サイガ・シモンのみです》
……多いのか、少ないのか――いや、そもそも情報自体が少ないのか。
ただ、これまでに加護を受けた人間で遭遇したのがたった二人だけということは、少ないと考えるのが自然だろう。
それに、もしある程度の数が存在するなら、ゴブリンの習性を考えれば、集団で現れるはずだ。
今回のように単独で現れるのは、むしろ異例なのかもしれない。
いずれにせよ、次に遭遇したときは、今回以上に慎重に対処する必要があるだろう。
そう考えながら、ようやく本来の目的――魔蟲の採取へと意識を切り替え、森の奥へと踏み入れた。
――――――――――――
リンゴの林には、大小さまざまな木が立ち並んでいた。その中から登りやすそうな木を選び、いくつかのリンゴをもぎ取る。
魔蟲入りのリンゴは、三つほど見つかった。
だが、どれも昨日食べたものほど大きくはない。今思えば、あのサイズは異常だった。……いや、あれ、本当にリンゴだったのか?
ともかく、見つけた魔蟲入りのリンゴを食べてみる。昨日ほどの旨味はないが、それでも普通に美味しい。
そして魔蟲――これも意外なことに、悪くなかった。鉄っぽい苦味もなく、もしかしたら種類が違うのかもしれない。
三個と三匹、すべて平らげたが……呪術の発動はなし。体調にも特に変化はない。
――魔素の量が足りなかったのか?
そもそも、魔素って本当に「食べる」ことで吸収されるものなのだろうか。昨日、たまたま呪術が発動したのも、あくまで俺の推測にすぎない。
――なんか、ちょっと不安になってきた。
でも、考えすぎても仕方ない。とりあえず今日は、片っ端からリンゴと魔蟲を食べまくる。満腹になるまで!
そう決めて、再び林の中を散策しはじめた。このリンゴ林は想像以上に広く、実をつけた木もかなり多い。
しばらく歩いていると、見覚えのある「巨大なリンゴ」が目に入った。すでに他の魔物に食べられていると思っていたが、どうやら昨日のまま残っているようだ。
近づいて確認してみると、まだ半分以上は手つかずの状態。しかも果実の中には、あのときと同じように魔蟲らしき生き物が見え隠れしていた。
……これは、食えってことか?
一度経験しているから大丈夫なはずだけど、魔蟲の味を思い出すと、やっぱり少し躊躇する。
だが、普通のリンゴにいた魔蟲では何の反応もなかった以上、この巨大なリンゴこそが鍵なのかもしれない。
俺は覚悟を決めて、巨大リンゴと、その中にいる魔蟲に、思い切ってかじりついた。
その軽率な行動がもたらす驚愕の進化など知らずに……。