003 加護の付与
――気が付くと、太陽が昇り始めていた。
あたり一面は朝日に包まれ、世界が淡く輝いている。意識のない長い時間の間、よく魔族や魔物に襲われなかったものだ。
そんなことを、どこか他人事のように思いながら、リンゴの林から湖の近くへと戻っていく。
「ん? 今、普通に歩いてる……」
――ふと、違和感に気づく。
いや、違和感というより──自然すぎて、逆に気づかなかった。無意識のうちに、二本の足で歩いている。この感覚は、芋虫だった頃には決してなかったものだ。
あのよく分からない現象──確か『心身進化』によって、脳や意識までも再構築されたということなのか……。
かつては、移動するために腹筋に力を込め、尺取虫のように這うしかなかった。だが今は、自然に何の苦もなく前へ進める。
視点も高くなり、移動も格段に楽になった。周囲の景色を見渡し、魔族や魔物の気配に注意を払う余裕すらある。
「ん? 魔族、魔物って……どうして、ここの森の生き物を魔族や魔物だって分かるんだ?」
ふと、自分の思考に違和感を覚える。芋虫だった頃は、目に映る存在をただ「生き物」や「動物」「虫」としてしか認識していなかった。
「魔族」や「魔物」といった言葉や概念は、頭に一度も浮かばなかったはずだ。
だが今は、目に入る存在を自然に「魔族」「魔物」と分類し、しかも──そこに、芋虫だった時にはなかった差別意識すら芽生えている。
急に、なぜ──。これも『心身進化』による影響なのだろうか……。
その時だった。
《あなたを『人間』と認識しました。加護の付与を申請します》
「!!!」
突如、頭の中に声が響く。今度の声は、先ほどの無機質な声とは違っていた。知性を感じるものの、どこか感情の読めない──中性的な声だった。
さっきの存在と同じなのだろうか……。とりあえず、質問してみる。
「お前は誰だ? 加護の付与とは、どういう意味だ?」
《ワタシは、あなたが人間だった時に付与された【知識の神の加護】です。さきほどの存在とは別の存在です。再び人間と認識されました。加護の付与を申請します》
──【知識の神の加護】か……。だが、ダメだ。全然、思い出せない。それに、「人間と認識される」とはどういうことだ。加護の付与自体、さっぱり意味が分からない。
《加護とは、神が人間に与える恩恵です。人間とは、人族の中の一部族を指します》
……つまり、俺は「人間に戻った」ということか?
いや──違う。人間に近い存在にはなったが、完全に人間に戻ったわけではない。
容姿を確認するまでもなく、確信できる。俺はもう、人間だった頃とは別物だ。
──いくら考えても、答えは出ない。分からないことは考えても無駄だ。無駄なことは、しないに限る。
「とりあえず、付与の申請を受ける」
《…………申請が受理されました。あなたに【知識の神の加護】が付与されました》
──これで、【知識の神の加護】とやらも、ごちゃごちゃと頭の中で喋らず、静かになってくれるだろう。少しだけ、スッキリとした気分になった。
加護とか呪術とか、そんなことより──今、最優先で確認すべきことがある。
そう、俺の身体だ! 容姿だ!!
俺は、この姿を確認するために、ここまで戻ってきたのだ。期待と不安でワクワク、ドキドキしながら、ゆっくりと水面を覗き込む。
「…………。うーん、なんか微妙だな。魔人というか……サルの魔獣って感じか? こんな身体で『人間』と認識するとは、どんだけ人間の『ストライクゾーン』が広いんだよ……」
《人間と認識する基準は、外見だけではありません。魂の在り方が重要となります》
(魂の在り方……か。そんなものまで、変わってしまっていたのか)
なるほど……全然、分からないけどね! 魂とか、そんなものはもうどうでもいい。今、大事なのは俺の姿だ!
──まさに、人間というよりサルだろ、これ!
薄々は気づいていたが、改めて見てみるとヒドイ。身長は低いし、腕は長いし、脚は短いし……っていうか、首がないじゃないか!
胴体に直結する形で、頭がズドンと乗っている。しかも、眼は相変わらず独眼(一つ目)。
肌も褐色のままで、皮膚は分厚くて堅そうだ。体毛は……人間と同じか、それより少ないくらいか。
──それだけじゃない。
一番驚いたのは、口が二つもあることだ。もう、本気でビックリするしかない。
顔に口があるのは当然だが──なぜか、右の手のひらにも、もうひとつ、口がついている。
(これは……どういうことだ?)
いくら考えても分からない。さっそく、【知識の神の加護】に教えてもらうことにした。
《…………》
……無反応だった。
《私は、加護を与えた人間の情報(経験、知識)を蓄積し、管理するだけの存在です。
蓄積してきた情報にない事柄については、答えられません》
──なるほど。知識はあくまで、知識でしかないということか。
何人の人間に加護を与えてきたか知らないが、人間から芋虫になり、さらに魔人へと進化した奴なんて、そうそういないだろう。
――仕方ない。ここは自分で考えるしかないか。
芋虫から魔人に進化する過程については、あまり記憶がない。覚えているのは、胴体が上下に引っ張られるような感覚だけだ。
今の姿を見る限り──腹部から足が生え、背中側から頭部が突き出たようにも思える。
さらに、頭と尻尾だった部分から指のようなものが生え、それが手になった……そんな気がする。
──結局は、想像と予想でしかない。考えても無駄だ。とりあえず、気持ちを切り替える。まずは、今の身体の性能確認だ。
軽く体を動かしてみる。走ったり、跳んだりしてみたが──見た目からは想像できないほど、機敏に動けた。なかなかのスピードだ。
近くに落ちていた石ころを掴み、力を込めると──あっけなく砕けた。
右手の口も確認してみた。開閉はできるが、喋ることはできないし、呼吸もしていない。
ただ、噛むことはできた。鋭い牙も健在で、これなら攻撃手段として使えるかもしれない。
(……ただ何か、別の使い道がある気がするのだが)
とりあえず──チビ・サイクロプス・モンキーに進化した俺は、当面の目的だった「食の確保」を達成したことにして、少し眠ることにした。
ただ、このときはまだ、加護の声が告げる衝撃の真実が、俺の運命を大きく変えることになるとは思いもしなかった。