192 呪いを解くは、真実の名
私は、スミノエというエルフの女の話が理解できず、ただ呆然としていた。
隣に座るララも同じく、あまりにも現実離れした話に、黙って耳を傾けることしかできないでいる。
そして、正面に目を向けると、まったく何も分かっていないライが、死んだ魚のような目をして遠くを見つめていた。
――きっと、頭を使いすぎて、一時的に脳だけ仮死状態になっているのだろう。
私は、頭突き以外で頭を使い、脳死状態にあるライを心配しながら、その師匠であるサイガが無事か、視線を向けた。
呪詠の源が自分の祖母――テンマココロの血の結晶だと知り、我を忘れてスミノエに詰め寄ろうとするトガシゼンを、サイガは静かにたしなめていた。
その表情は、いつものサイガとは異なり、どこか知的で穏やかな雰囲気を帯びている。
そして、内面に意識を向けて意思を通わせると――その心は、凪いだ大海のように、どこまでも静かで、広がっていた。
……私は、その表情と心に、一瞬だけ我を忘れて、魅入ってしまった。
頬を赤く染めたまま、ぼうっとしていた私に、心配そうな顔を向けるララに気づく。
苦笑いを浮かべ安心させようとした――その直後、サイガの言葉が静けさを破り、部屋全体を緊迫した空気へと塗り替えた。
「おい、スミノエ。知っているなら教えてほしい。トガシゼンの祖母・テンマココロは、生きているのか?」
その問いかけに、スミノエは――いや、サイガ以外の全員が言葉を失い、驚愕の表情を浮かべていた。
だが、誰よりも早く緊張から脱したスミノエは、わざとらしく余裕の表情を浮かべると、テンマココロの生存をあっさりと認めた。
新たな事実に、いまだ緊張の縛から解き放たれない私たちは、息をすることさえ忘れ、スミノエとサイガを交互に見つめる。
その視界の端で、顔を真っ青にしているマヤとアオの姿が目に入った。
……トガシゼンの祖母であり、魔族の始祖――テンマカイ様の娘であるテンマココロの生存に驚いているわけではない。
あの表情は、何か別のものに怯え、恐怖している。
そんな二人の様子に気づいたサイガが、気遣うように声をかけたが、姉妹の表情は変わらなかった。
私も心配になり、立ち上がろうとした――その時、スミノエが口を開いた。
「まあ、二人が怯えるのも無理はないわね。人族なら、小さいころから、ずっと刷り込まれてるもの……。世界を滅ぼす最悪の厄災が封印された、絶対不可侵の大地――『人外魔境』ことは」
『人外魔境』――その言葉が出た瞬間、マヤとアオは、びくりと肩を震わせた。
――二人が恐れているのは、どうやら魔族領とは別に、人族に伝えられる『呪われた場所』の名らしい。
魔族領に向けられる明確な敵意とは異なる、神や悪魔に対するような畏怖――それは、もはや信仰に近い恐怖。
それを幼いころから教育として植え付けられてきたという。
特にマヤとアオは、人族の国のひとつ――ウラノス皇国の王族だった。そのため、その教育はきっと徹底されていたのだろう。
だが、そこまでして洗脳に近い教育を施し、『人外魔境』への恐怖を植え付ける必要があるのか……私は疑問を拭えず、スミノエに向かって口を開いた。
「テンマココロが保護されている『その場所』って、いったいどんなところなの? そんなにヤバい何かがあるの?」
私は、あえて『人外魔境』という言葉は伏せたまま、スミノエに問いかけた。
すると、スミノエは、突然の質問にわずかに眉を上げた。だが、余裕ある表情を崩すことなく、肩をすくめながらこちらを見つめてくる。
「ええ、そうよ。かなりヤバいモノがあるわ。あそこは、決して人が踏み込んではいけない場所――だから、私たちゼウパレス聖王国が守っているの」
スミノエもまた、マヤたちに配慮するように『その言葉』を避けながら、私の問いに答えた。そして、一拍の間を置いたのち、再び語り始める。
「……私たち長命種はね。長い年月をかけて、絶対に誰も侵入させないよう、いろいろ苦労しているのよ。たとえば、偽りの情報を広めて教育として人族を洗脳したり、その洗脳を補助するために、テンマココロの呪術を利用したり、ね」
スミノエは、どこか小馬鹿にしたような口調で、新たな情報を放り込み、再び私たちを黙らせた。
◆
私が新たな事実を伝えると、その場には何度目かの沈黙が訪れた。
だからこそ、最初に「後戻りはできない」と釘を刺し、その覚悟を確認したのだ。
――そう自分に言い聞かせながら、いまだ情報を咀嚼しきれずに固まっているサイガたちを眺める。
すると、予想通り、トガシゼンが沈黙を破り、重く低い声で口を開いた。
「なるほどな。納得がいったぞ、エルフの女。俺の祖母の呪術――信贋情授を人族領全体に使ったな」
「さすがは、魔神陛下。それとも、孫だからかしら。理解が早くて助かるわ」
トガシゼンの瞳には、はっきりと怒りの色が浮かび、その視線をまっすぐに私へと突き刺してくる。
だが――死ぬ覚悟など、とうの昔にできていた私にとって、それは脅しにもならなかった。
すでに私は、サイガたちにすべてを話すと決めた時点で、ゼウパレス聖王国には戻れず、いずれ多くの同胞から命を狙われることも分かっていた。
……巫女長の座が約束されていたはずの私が、今や魔族に囚われ、神を裏切り、この世界の真実を語ろうとしている。
本来ならば、絶望と屈辱に心が引き裂かれていてもおかしくない。それなのに、私はなぜか笑っていた。
――ついに呪術の使いすぎで、頭がおかしくなったのかもしれない。
ならば、急いで伝えるべきだ――そう思い、私はサイガたちへと視線を向け、静かに言葉を続けた。
「……まあ、テンマココロの呪術については、あとでそこの魔神のオッサンにでも聞いてちょうだい。それより、まずはマヤとアオにかけられた呪いを解かせてもらうわ」
私は、トガシゼンの視線を完全に無視し、いまだ青ざめた表情を浮かべるマヤとアオへと向き直る。
そして、二人に真名を伝える。
「いい? 二人とも、しっかり聞いて。ジンガイマキョウの魔名は『人外魔境』――そして、本当の名前、真名は『神界真郷』よ」
私は、ゼウパレス聖王国が崇め、仕え、守り続けてきた神が鎮座する場所――
その『ジンガイマキョウ』の真実の名を、マヤとアオ。
そしてここにいるすべての魔族の前で、はっきりと口にした。
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『魔女の烙印を押された聖女は、異世界で魔法少女の夢をみる』(完結済み)
『転生忍者は忍べない ~今度はひっそりと生きたいのですが、王女や聖女が許してくれません~』
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