181 解き放たれた魔神
――サイガとライに突然しがみつかれ、呪術を即座に発動されたその瞬間、二人の呪術の能力が、いつものように脳内へと一気に流れ込んできた。
その二人の呪術の能力にも驚いたが、それ以上に衝撃だったのは――目の前に広がる光景だった。
三百年ぶりに目にする、島の外の風景……そのあまりの鮮烈さに、私は呆然と立ち尽くし、ただただ、その光景を目に焼き付けていた。
――その時、不意に胸元に激痛が走った。目の前の光景に心を奪われ、三百年ぶりに感じる乾いた大陸の風に意識を浸らせていた俺は、いまが戦いの最中であることすら忘れていた。
胸から流れる血を見つめ、そっと手を当てると指先に触れる熱に、思わず口元が綻んだ。
――まさか、戦い以外で、これほど心を動かされるとは思わなかった。
そんな感動を与えてくれたサイガたちに、感謝めいた思いが芽生えている自分に気づき――心のどこかで、可笑しさを覚えていた。
自分でも整理しきれないその感情に戸惑いながらも、戦いの最中であることを思い出した俺は、斬りかかってくるリンの気配に気づき、咄嗟に身を引いた。
だが、リンもそれを読んでいたのだろう。振り下ろした剣を地面に突き刺し、それを支点に反動をつけて、鋭い横蹴りを放ってくる。
一手先を読む見事な連携――その対応がわずかに遅れ、リンの足刀が腹部に深々と突き刺さった。
……にもかかわらず、その痛みすら、今の俺には『生きている』という確かな実感を与えてくれる。
ここまで追い込まれても、未だ発動する気配のない呪いに、思わず口角が上がりそうになるのを、俺は必死で堪えた。
とはいえ、ここで倒れるわけにはいかない。仮にも俺は、この魔族領すべての頂点に立つ魔神――その誇りを示すため、ありったけの魔素と気力を振り絞り、第4段階の呪術を発動した。
◆
――リンの巧みな攻撃に対応しきれず、みるみる追い詰められていくトガシゼン。その姿を、俺は一瞬たりとも目を離さず、油断なく見つめていた。
……加勢したい気持ちは山々だが、今の俺では、ライの呪術を発動するために蓄積したダメージのせいで動きが鈍く、かえって足手まといになるだけだろう。
そう判断した俺は、呪術:仁診解放を発動して、少しでも傷を癒すことに専念する。
――だが、そんな俺の心配も杞憂だった。
リンは、剣技と体術でトガシゼンを圧倒してみせた。その動きはもはや達人の域を超え、戦術の冴えは軍師すら凌ぐほどだった。
もはや、満身創痍のトガシゼンにリンに抗う力は残されていない――そう思った、次の瞬間。トガシゼンの体が、金色の光を放ち始めた。
集中して二人の戦いを見守っていた俺は、かろうじてトガシゼンの声を聞き取る。
――呪術:仙智戦皇
その呪いの言葉が耳に届いた刹那、トガシゼンの体は一層輝きを増し、満身創痍だった肉体がみるみるうちに蘇っていく。
金色の光に包まれたその姿は、まさしく戦いの皇。猛々しさは影をひそめ、代わりに静かに佇むその姿は、多くの智慧を宿す仙人のようにすら見えた。
一瞬、島の呪いが発動したのかと身構えたが、魔素を吸い取られるような感覚はない。
周囲に目をやり、魔素感知を行っても、誰一人として魔素を失っていなかった。
――ただ一人、トガシゼンを除いては。
……やはり、今のトガシゼンの姿は島の呪いではなく、あくまでヤツ自身の呪術によるもの。
そう確信した俺は、仁診解放で僅かに回復した身体を無理やり動かし、リンのもとへ駆け寄った。
◆
突如、金色の光に包まれたトガシゼン。その異変を前にしても、私は一瞬たりとも目を逸らさず、油断なくその姿を見据えていた。
――と、そこへ、わずかに傷を癒したサイガが駆け寄ってくる。
「大丈夫か、リン?」
その一言で、サイガもトガシゼンの異様さに気づいていることが分かった。
トガシゼンの体内に残る魔素は、すでに僅かしかないはず。――なのに、全身から発せられる圧力は、これまで感じたどんなものよりも凄まじかった。
サイガが隣に立ったことで、気が緩みそうになる。
だが、そのわずかな隙を引き締めようとした――その瞬間、トガシゼンが静かに拳を腰へと引き、流れるように突き出した。
ドドドドッ!!
その自然な動作に、一瞬、防御を忘れて見とれてしまった。だが、次の瞬間、拳は数百にも増え、私たちへと一斉に襲いかかってきた。
私は咄嗟に魔剣を縦に構え、少しでも被弾を抑えようとする。一方、サイガは――ただ両腕を交差させ、真正面から受け止めるしかなかった。
「大丈夫、サイガ?」
呪術とはいえ、私は鎧に守られていた。だが、生身のまま攻撃を受けたサイガを思い出し、心配になって声をかける。
すると、サイガの両腕には、手甲のような外殻が浮かび上がり、それを包むように深紅の魔素が揺らめいていた。
どうやら、サイガは咄嗟に呪術を発動して防いだらしい。
たしか釼清刈崩だったか――相手の魔素を刈り取り、崩す能力だったはずだ。
ここで私は、あの無数の拳が、すべて呪術による攻撃だったと確信する。
だが――おかしい。トガシゼンが呪術を発動した気配は、まったくなかった。
私は戦いの間、一度も魔素感知を切らしていない。確かに感知したのは、さっきの一度だけ……そう、呪術――仙智戦皇を発動した、あの時だけのはずだ。
状況を素早く整理しながら、トガシゼンの呪術について思考を巡らせていると――その金色の光に包まれた男が、静かに口を開いた。
「……どうした? 攻撃してこないのか? まあ、分からんでもないか……。よし、いいだろう。教えてやる――俺の呪術のことをな」
そう言って、トガシゼンは拳をゆっくりと地面に向かって突き出す。呪術を発動した気配はない。だが次の瞬間、地面が無数の拳に抉られるように砕け散った。
続けて、今度は手刀の形を作ると、静かに空を斬り下ろす。すると、そこから生まれた光の斬撃が、空間ごと地面を切り裂いていく。
あまりの光景に、私もサイガも声を失い、ただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
そして――トガシゼンは、最後に自らの親指をかみ切り、血を滴らせる。落ちた血が地面に触れた瞬間、燃え上がり、炎の鳥となって天へと舞い上がっていった。
……そこまで見れば、さすがに私にも分かる。いや、分かってしまった。
トガシゼンの呪術――仙智戦皇。
それは、威力こそ劣るものの、第1段階から第3段階までのすべての呪術を、意識することなく発動できるという能力。
加えて……信じがたいことに、それを一切の魔素を使わずに、やってのけているのだ。
あまりに常識外れな呪術の正体を知り、思わず息を呑む。たしかに、魔法と違って呪術は自然の摂理や物理法則に縛られない。
とはいえ、それでも魔素の消費は前提であったはずだ。だが、トガシゼンはその大前提すら打ち破ってみせた。
――さすがは、魔族の頂点に立つ魔神。島の呪いなど意に介さず、その力はまさに圧倒的だった。
にもかかわらず、私は思わず笑みを零してしまう。そして、隣を見ると、サイガもまた口元をわずかに崩し、トガシゼンをじっと見つめていた。
……この極限の状況ですら、どこか楽しもうとしている自分たちがいる――サイガと私は、今、まったく同じ気持ちなのだと分かり、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
死闘の最中だというのに、穏やかな気持ちに満たされていく自分に気づき、私は小さく苦笑し、すぐに表情を引き締めた。
そして、満身創痍のサイガに向かって静かに呟く。
「ここは、任せて」
その言葉を残し、私はトガシゼンへと駆け出した。
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