174 奈落からの警告
シーサン平野を西へひたすら進んでいくと、やがて、大地に穿たれた巨大な裂け目が現れた。
その深淵を覗き込んでみたが、どこまで続いているのか見当もつかず、底を晒す気配は微塵もない。
ただ、そこに在るだけ──静かで、不気味なほどに無言の存在感を放っていた。
こんな場所から、どうやって大量の魔物が地上へと這い出てくるのか、不思議ではあったが……もしかすると、他に地上へと続く道があるのかもしれない。
だが、それ以上考えるのはやめた。必要以上に考えられない自分の大雑把な性格に、思わず苦笑が漏れる。
そして、表情を引き締めた俺は、再び新たに習得した呪術を発動する。
「呪術:似心化法 (ニッシンゲッポウ)」
さっきはカミニシだったが──今度は、オテギネさんの呪術:駆離空乱を思い浮かべながら、呪いの言葉を呟いた。
すると、ふわりと身体が宙に浮く感覚に包まれ、思わず足元へ視線を落とす。地面から離れた自分の足を見て、自然と笑みがこぼれた。
俺は感覚を研ぎ澄まし、思考を身体全体に巡らせると、ゆっくりと風の流れを捉える。
その風の力を受けて、俺は宙を移動し始めた。足元に広がる奈落を見下ろしながら、静かに下降していく。
オテギネさんのようにうまく飛ぶのは難しいが、それでも宙に浮き、ゆっくりながらも動けることに感動すら覚える。
そんな緊張感のない自分に、また苦笑が漏れた。
──だが、すぐに表情を引き締めると、周囲を警戒しながら、底知れぬ奈落の奥へと降下を続けた。
――――――――――――
どれだけ降下したのか分からない。上空から差していた光は次第に薄れ、周囲は暗くなり始め、肌寒さが身に染みてくる。
だが、この寒さは、本当に日の光が届かないせいだけなのか──ふと、そんな疑念が脳裏をよぎる。
この奈落に漂う空気は、ただ冷たいのではない。何か……異様で、異常なものが、確かに混じっているように思える。
どんどんと降下を続けるが、一向に底が見える気配はない。どれほどの魔素が消費されるか分からないが、俺は覚悟を決め魔眼を開き、深淵の奥を覗き込んだ──その瞬間。
――突然、頭の中に、強烈な意思が叩き込まれた。
その尋常ではない苛烈な『声』は、この薄ら寒い空気とは真逆のものだった。まるで、脳の細胞が焼き切れるのではないかと思うほどの熱量を帯びていた。
<何を勝手に入ってきている? ニンゲン風情が!!>
その『言葉』を受けた俺は、脳が焼けるように熱くなっていくのと反比例するように、全身が急速に冷えていくのを感じた。
慌てて魔眼を閉じ、魔素を全身に巡らせて体温と意識を保つと、まだ、底は見えない深淵の奥を見つめながら、俺は警戒を強める。
だが、その次の瞬間──再び、烈火の如き意思が頭を直撃する。
<おい、貴様か!? 世界を◆✕#*する邪魔をしていたのは!?>
深淵の奥底にいる『何か』が、俺を責め立てる。だが、その言葉の意味は、ところどころが歪み、正確に理解することができない。
それでも、何か返さなければと──必死に言葉を探し、ようやく、かすれるような声を絞り出した。
「っ、俺はただ、地上に出てくる魔物を……どうにかしたいだけだ……」
俺の頼りない抗議を、深淵の底にいる『何か』は鼻で笑う。
<……ふん、だからニンゲンどもを生かしておく必要などないのだ。だが──久しぶりに、俺の本当の%ー&##を思い出させてくれた礼だけはしてやろう>
感謝の言葉とは裏腹に、『何か』は、灼熱のマグマのようでありながら、極寒の冷気のような──相反する感情をぶつけてくる。
その圧に、俺は意識が狂いそうになるのを必死にこらえ、歯を食いしばった。
――すると、奈落から、平坦で無感情な声が響いてくる。
「ニンゲンよ。今回は、この聖域に踏み込んだことは忘れよう。だが──もし次に禁忌を破ったなら、その時は、一瞬でこの世から消してやる。……それと、魔物だったか。分かった。貴様のせいではあるが、もう一度だけ『リセット』してやる。これでいいだろう。だから、早く、この聖域から出るのだ……」
その声は、たしかに『人間のような響き』を持っていた。だが、どこか無機質で、機械的な冷たさを感じさせた。
なのに──それと同じくらい、生々しい感情が底に滲んでいるようにも聞こえた。
尊大なはずの言葉は、なぜか妙に卑屈に響く。そして何より、不思議だったのは──なぜ、意思ではなく「言葉」で伝えてきたのか、ということだった。
その意味を探ろうと、俺はもう一度、深淵を覗こうとした――その瞬間、真下から突風が吹き上がり、俺の身体を一気に押し上げる。
強烈な豪風に巻き上げられ、俺は瞬く間に、地上へと戻された。
◆
ゴオォォォ!!
テントで眠っていた俺は、外から響く轟音で目を覚ました。それは、まるで大気そのものが揺さぶられるような、暴風のような音だった。
――だが、不思議なことに、テントはわずかにはためく程度で済んでいる。
何が起きたのか分からず、俺は慌ててテントの外へ飛び出す。
その音は──深大奈落の方向から聞こえてきた。目を凝らすと、奈落の底から空へ向けて、巨大な風の柱が吹き上がっているのが分かった。
さらによく目を細めると──もんどりを打ちながら、上空へと舞い上がっていく師匠の姿を捉えた。
遥か彼方まで飛んでいきそうな勢いで大空を舞っていた師匠は、やがて少しずつ速度を落とし、徐々に地上の方へと引っ張られていく。
――俺が寝ている間に、黙って一人だけで、あんな楽しそうな遊びをしていたのか。
そう思って羨ましげに眺めていると、師匠の姿がどんどん大きくなり、こっちに向かっているのが分かった。
――やべぇ。
俺はとっさにテントへ駆け戻り、大事な道具を抱えて外へ飛び出すと、その場から全力で離れる。
ドゴオォォォン!!
巨大な背嚢をふたつ背負ったまま丘を駆け下りる俺の背後で、さっきの轟音をも上回る爆音と衝撃が巻き起こった。
その衝撃に背中を押され、思い切り体勢を崩した俺は、そのまま丘を転がり落ち、背中に担いでいた巨大な背嚢ふたつの下敷きになる。
なんとか俺を押し潰そうとする荷物をどかすと、ゆっくりと立ち上がり、服に付いた埃を叩いた。
そして、恐る恐る丘の上へ戻っていくと──まず目に入ったのは、巨大な樹木に寄りかかって立っている師匠の姿だった。
――だが、それよりも大事なのはテントだ!
とりあえず、師匠のことは放っておくとして、俺は目を凝らしてテントを確認すると、奇跡的にそのままの形を保っていた。
――どうやら、師匠が見事に避けてくれたようだ。
「よかった、テントは無事だ……」
三週間以上お世話になったテントが壊れていなかったと分かり、俺は安堵のため息をつく。
……と、そのとき、ふと何かを思い出して、視線を樹木の方に向ける。そこには、なぜか、こめかみに青筋を浮かべ、じっと俺を睨んでいる師匠の姿があった。
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『魔女の烙印を押された聖女は、異世界で魔法少女の夢をみる』(完結済み)
『転生忍者は忍べない ~今度はひっそりと生きたいのですが、王女や聖女が許してくれません~』
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