169 支配する香り、清浄する赤き剣
私は今、サイガと二人きりで食事をしている。もちろん、配下の者たちは下がらせてある。たった二人、向かい合いながら、互いの様子を伺いつつ料理を口に運んでいた。
サイガからシーサン平野を使いたいと聞かされたときは、あんな魔物だらけで誰も寄りつかない平野など、使いたいなら勝手にすればいいと思った。
だが、ライのクソガキが私を馬鹿にしたことで、ついカッとなり、ほんの少しだけ、サイガを困らせてやろうと、こうして食事に誘ったのだ。
正直、目の前に座るサイガのことは、まったく好きではない。顔は精悍で容姿も整っているし、魔皇の称号を持ち力も十分にあり魅力的だが、私より年下で、しかもどこかオッサン臭い……その時点で、まったく頂けない。
そんな男と一緒に食事をしても、何ひとつときめかない。けれど、あの方たちが興味を持つこの男の秘密でも握って報告すれば、きっと私への評価も上がるはずだ。
とりあえず、私は笑顔を崩さぬまま、食事を続ける。そして、隙を作るために、わざとフォークを床に落とした。
カシャン──。
二人きりの静かな食堂に、小さな音が響く。サイガは最低限の礼儀として、落ちた食器を拾おうと席を外し、床に膝をつく。私から視線を外した。
――その瞬間、私は髪に微かな魔素を流し込んだ。
(呪術:髪香媚塵 ⦅ハッポウビジン⦆)
すぐに、髪からかすかな香りが立ち上り、食堂全体に広がっていく。
この香りを吸い込んだ異性は、その量に応じて次第に私に心を支配されていく。僅かに吸えば、軽い好意。多く吸い込めば、死んでもいいと思うほど、私の虜となる。
サイガが席に戻り、落ちたフォークを私に手渡そうとしたので、お礼だけ述べて受け取らず、呼び鈴を鳴らす。
……落ちた食器は、もはや汚れ物。新しいものに替えるのが、最低限の礼儀だ。それすら理解していないとは、やはりこの男は、こういった作法に疎い。
――そう思うと、異性としての興味はますます失せていった。
だが、もしこの男を篭絡できれば、魔族領における私の地位は確固たるものとなる。さらに上手くいけば、あの方々からも気に入られ、私にもあの施術を施してくれるかもしれない。
そんな期待に、胸が微かに膨らむのを感じつつ、私はそっと髪をなびかせ、サイガへ向けて甘い香りを漂わせた。
ゆっくりと、私の魔素を含んだ香りがサイガの周囲を濃く包み込んでいく。けれど、サイガは気にする様子もなく、淡々と食事を続けた。
時折、私が話題を振るものの、興味がないのか、それとも無教養なのか……。どちらにせよ、返ってくるのはありきたりな返事ばかりだ。
まあ、目的は親交を深めることではない。私は気にせず食事を続ける。
──と、そのとき、サイガが突然、食器を置き、人差し指を自らのこめかみにぐっと押し込んだ。
その異様な光景に思わず息を呑み、サイガの様子をじっと伺う。よく見るとこめかみに突き刺さった指は赤い魔素を守っており、こめかみを通じてアイツの脳へ流れ込んでいるのが分かった。
……何が起こってるのか分からず、呆然としフォークを再び落としてしまう。
「おい、大丈夫か、ミナニシ。二度もフォークを落とすなんてマナーが悪いぞ」
まだ動揺の収まらない私に、サイガは不敵に笑いかけた。そして、呼び鈴を鳴らすと、すぐにメイドが現れる。
アイツは顎で床に落ちたフォークを指し示すと、メイドは恭しく頭を下げて、新しいフォークと交換し、足早に食堂を後にした。
その一連の様子をつまらなそうに眺めていたサイガは、僅かに殺気を滲ませ、ため息交じりに口を開く。
「――ふぅ。あまり、くだらない真似はしないことだな。とりあえず今回は、シーサン平野を使わせてもらうということで見逃すが……次はないぞ」
◆
俺はミナニシの誘いを受け、こうして食事をしている。だが、上辺だけの笑顔を張り付けて話すミナニシに、不快感ばかりが募っていくのを感じていた。
なるべく早く食べ終えようと、黙々とテーブルに並ぶ料理を口に運んでいると、突然、ミナニシがフォークを落とした。
仕方なくフォークを拾い、手渡そうとするが、ミナニシはそれを手で制し、呼び鈴でメイドを呼び出して、新しいものと交換させる。そして、にっこりと笑った。
……その笑顔に、不穏なものを感じた俺はミナニシに気づかれぬよう、魔眼を薄く開く。
微かに漂う魔素の気配を感知すると、アイツの髪から、ほんの僅かだが、確かに魔素が放たれているのが分かった。
(……やはり、コイツは油断できない)
俺はミナニシから漂う香りを、なるべく吸い込まないように注意しながら食事を続けた。
だが、完璧に防ぐことはできず、次第にミナニシに対して、好意のような感情が湧き上がってくるのを感じる。
やはり、操作系の呪術か──。
そう確信した俺は、まず第3段階の呪術:仁心解放で体の異常を治そうと試みたが、うまくいかない。
そういえば、仁心解放は、毒や痺れといった肉体への異常には効果があったが……ミナニシの呪術は、脳や心そのものに作用しているらしい。
仕方なく俺は人差し指を立て、指先に魔素を集中させる。
(呪術:釼清刈崩 ⦅ニッシンゲッポウ⦆)
心の中で呪いの言葉を呟くと、赤い魔素が指先を包むように現れた。
それを俺はゆっくりと、こめかみに指を突き刺す。その瞬間、視界の靄が一気に澄み、今までの好意が、嘘のように消え去った。
呪術が解除されたことに気づいたのか、ミナニシは、こめかみに指を当てた俺を、まるで信じられないものを見るような目で見つめる。
――そして、手を滑らせ、再びフォークを落とした。
カシャン──。
よほど自分の呪術に自信があったのだろう。だが、俺にとっては、過去に同じような呪術を経験し、破ったこともある……特に驚くようなことじゃない。
俺は、いまだ呆然としているミナニシを一瞥し、呼び鈴を鳴らし、すぐにメイドを呼ぶと、フォークを顎で指し示す。
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、メイドはそそくさとフォークを拾い、新しいものと交換すると、足早に食堂を後にした。
新しくなったフォークを、ただ見つめるだけで手に取ろうとしないミナニシに、俺は少しだけ殺気を込めて睨みつける。
その次の瞬間、ハッとしたように顔を上げたミナニシと視線が合う。
俺は、落ち着かせるように静かに笑うと、ほんの僅か声に殺意を滲ませながら、ゆっくりと語りかけた。
「――ふぅ。あまり、くだらない真似はしないことだな。とりあえず今回は、シーサン平野を使わせてもらうということで見逃すが……次はないぞ」
その言葉に、ミナニシは俺から視線を逸らさず、猛獣でも相手にするかのような警戒心を滲ませながら、静かに頷いた。
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『魔女の烙印を押された聖女は、異世界で魔法少女の夢をみる』(完結済み)
『転生忍者は忍べない ~今度はひっそりと生きたいのですが、王女や聖女が許してくれません~』
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