156 守り人を守る者
リンが、涙を浮かべていた。あれだけ俺を殴り、散々な目にあわせてきたというのに、そんな俺の目の前で――弱さを隠そうともせずに、ただ立っている。
頭に残る激痛も忘れ、俺はその泣き顔を、黙って見つめていた。すると、いつもの調子で鉄扇が容赦なく振り下ろされ、鈍い衝撃とともに視界が揺れる。そしてそのまま、両腕を組んだリンが、いつもより少しだけ静かな声で口を開いた。
「サイガ、覚えてる? ショウオン村で約束したこと。たった一度、『なんでも言うことを聞く』って」
「ああ……言ったな。で、それがどうした?」
「ほんと、相変わらず鈍いんだから……。じゃあ、はっきり言うわ」
リンは、息を整えるように視線を落とし――そして、どこか覚悟を決めた表情を浮かべながら一歩前に出て、まっすぐに俺を見据え、言葉を続けた。
「サイガ。私を――トガシゼン様との戦いに、絶対に連れていきなさい」
一瞬、言葉の意味が飲み込めず、俺は言葉を失った。たった一度の約束……もっと、別の場面で使うものだとばかり思っていた。だが、それをどう使うかは、俺が決めることじゃない。これは――リンが、自分で選んだ答えなんだろう。
「……いいのか? 本当に、それで」
「いいの。私が決めたことなんだから。問題ないでしょ」
まっすぐな瞳で、リンが俺を見つめる。その瞬間、意志が頭に届く。静かで澄んだ、けれど決して揺らぐことのない想い。まるで深い湖の底から、そっと差し出された手のように、強く、揺るぎない気持ちだった。俺はその意志を、静かに、確かに受け止める。
「……わかった。約束だからな。でも、ひとつだけ言わせてくれ。もし命の危険を感じたら、迷わず逃げろ。それまでは、何があっても、俺が守る」
俺も静かにリンを見つめ返し、「約束だ」と呟き、そのまま柔らかく言葉を重ね、「自分の命を、何よりも大切にしろ」と告げる。
そして、最後に迷いなく意志を飛ばす。
『命を懸けて、絶対に守る』
その想いを、まっすぐに、リンの心へと届けた。
――――――――――――
部屋を出ていくリンの背中を見送ると、俺は白い死免蘇花を取り出し、大きなたんこぶができた頭をそっと癒やす。そして、痛みが引いていくのを感じながら、もう一度ベッドに横になる。
リンが、どんな想いでトガシゼンとの戦いに加わりたいと望んだのかは分からない。けれど、あのときの瞳は、確かに真剣だった。そして、リンから伝わってきた意志は――有無を言わせないほど、強かった。
正直、俺はみんなをここまで連れてきたものの、誰一人として戦いに参加させるつもりはなかった。もうこれ以上、大切な仲間を――誰かを傷つけるような真似だけは、したくなかったからだ。
人間だった頃の俺は、魔王だったリンと戦っていたときも、いつも前に立って、身を挺して仲間を守っていたらしい。マヤたちが、そう話してくれたことがある。たぶん、その想いは、今も魂の奥底に刻み込まれているのだろう。
仲間の誰かが傷つくくらいなら、自分が代わりに傷つく方がいい。たとえその結果、どれだけの不幸を背負うことになったとしても――。
俺は、リンと交わした約束を胸に、「トガシゼンとの戦いよりも、リンを守ることを優先する」と心の中で静かに誓う。たとえ、その選択のせいでトガシゼンに敗れることになったとしても、構わない。リンが傷つくよりは、ずっといい……。
とにかく今は、まず島に着くまでに少しでも休まなければならない。そう思いながら、俺はこれ以上余計なことは考えず、ゆっくりと目を閉じる。――やがて、意識は薄れていき、静かな眠りへと落ちていった。
◆
私は、一度は自分の部屋に戻ろうとした。けれど、なぜかサイガのことが気になって――気がつけばまた、アイツの部屋の前まで来ていた。そしてそのとき、不意にアイツの意識が、私の中に飛び込んできた。
『トガシゼンとの戦いよりも、リンを守ることを優先する』
その言葉が、頭の中にずっと響き続ける。……押し寄せてくる想いが、どれほど強いものか、嫌でも思い知らされる。
サイガは、自分のことよりも、私を守ることを何より大切だと思ってくれている。たとえ、そのせいでトガシゼン様に敗れ、人間に戻るための情報を得られなくなっても――それでも構わない、と。サイガは、本気でそう思っている。
それは、魔人となったマヤやアオを巻き込み、2人との約束を破ることになるかもしれない。それでもなお、私を守ることを最優先にしてくれている……。
胸が熱くなった。けれど、それと同時に、どうしようもない苦しさが込み上げてくる。結局、私のわがままのせいで、サイガは人間に戻れなくなるかもしれない。最悪の場合、私を庇って命を落とすかもしれない……。
頭に過った最悪の光景を、必死で振り払うように、私は何度も首を横に振った。そして、サイガの部屋からそっと離れる。
十分に距離をとり、もう私の想いがサイガに届かないと分かったとき、私は、心の中で静かに、でも強く誓った。
(……みんなを守るアンタを、今度は私が守る。たとえ、この命に代えても!)
私はもう、自分に嘘をつかない。本当に大切な人を守るために戦う。そう、自分の気持ちを誤魔化していた過去の自分に誓った。
そして、この戦いが終わったら、この気持ちを、まっすぐアイツに伝えようと、自分自身に固く約束した。
◆
船が島に着くと、私はサイガ様たちを船に待たせたまま、我が主の居城へと向かった。その道すがら、数人の部下を呼び止め、これから最も重要な客人が訪れることを伝え、最大級のもてなしの準備を整えるよう命じる。
やがて玉座の間の前に辿り着いた私は、静かに膝をつき、入室の許可を求めた。しばしの沈黙ののち、重厚な扉がゆっくりと開かれる――。
目の前に広がるのは、真っ直ぐに玉座へと続く深紅の絨毯。その奥、変わらぬ威容で玉座に君臨する、我が主――魔神トガシゼン様の姿があった。
私は入室の許可を得ながらも、なお膝をついたまま、臣下の礼を崩さずにいた。すると、重く静かな声が、玉座の方から投げかけられる。
「何をしている。許可は出した。早く入れ」
「はっ、かしこまりました」
我が主の言葉に、胸の奥に緊張を滲ませながらも、無礼のないよう細心の注意を払い、ゆっくりと立ち上がる。そして、静かに玉座へと歩み寄り、その手前で再び膝をつき、深く頭を垂れた。
「相変わらず、堅苦しいヤツだな、アオキカイ」
低く静かな声が降りてくると、私は頭を下げたまま、すぐに答えた。
「……申し訳ありません。ご不快にさせたのなら、如何様な処分でもお受けいたします」
「そういうところが、固いと言っているんだがな……」
我が主は、少し呆れたように溜息を吐き、やがて柔らかな声で、顔を上げることを許した。その言葉を受け、やはり無礼がないように慎重に視線をあげると、そこには、玉座に肘をつき、つまらなさそうに私を見下ろす我が主の姿があった。
……玉座に座るそのお姿は、まさに魔族たちの頂点に君臨するにふさわしい威容を誇っている。全身の筋肉は鋼のように硬く、山のように隆起し、その巨躯と相まって、ただ座しているだけで異常なまでの存在感と圧迫感を放っている。
そして、無造作に腰まで伸ばされた真っ白な御髪は、威圧感の中にどこか気ままさを漂わせ、猛禽類を思わせる鋭い目は、白い瞳に静かに、しかし強く光を宿している。さらに、立派な顎髭は、絶対的な王者としての風格を、これ以上ないほど雄弁に物語っていた。
まさに魔族たちの神を体現したかのようなそのお姿に、私はしばし目を奪われていた。しかし、すぐに我が主が静かに口を開き、サイガ様について尋ねる。
「思ったより早く、俺の居場所を突き止めたようだが……。一体、どんな手を使った? ホシミ族の占いでも俺を見つけることは不可能だし、マガミ族にそんな強力な魔眼持ちはいなかったはずだが……」
「はっ、それは――――」
私は、これまでサイガ様を監視してきた魔鳥からの報告書と、トンハイ領に入ってから自ら収集してきた情報を、正確に、詳細に報告すると、我が主はそれを静かに聞いていたが、やがてふっと息を漏らし、次いで低く笑った。
「ふっ……ふ、はははは。なるほど、なるほど。ヤツは、魔眼も持っていたか。それも、俺ですら知らなかった強力な能力をもった魔眼を……。それだけでも十分に興味を惹かれるが、……実際、ヤツの強さはどうだった?」
「……それは――――」
私は、ハイヤンの港で目の当たりにしたサイガ様の印象を思い返す。その内に秘めた膨大な魔素、魔獣や魔蟲すら凌駕する規格外の肉体……すべてが、間違いなく我が主に匹敵するものだった。私がそう告げた瞬間、我が主は押さえていた体内の魔素を一気に解き放ち、玉座にありながら獰猛に笑う。
「――すぐに連れてこい」
その命が、島中を震わせるように響き渡った。
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『魔女の烙印を押された聖女は、異世界で魔法少女の夢をみる』(完結済み)
『転生忍者は忍べない ~今度はひっそりと生きたいのですが、王女や聖女が許してくれません~』
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