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32 エピーローグ2

裁判員の経験から数ヶ月。


英語に”make a difference”という言い回しがある。直訳すると、何かをこれまでと異なるものにする、ということだけど、ある出会いやきっかけが、その後に良い意味での違いや改善もたらす、というような含意だ。裁判員に選任され、その職務を務めることになった経験は、まったくの偶然の出会いだった。けれどもそれは、自分のその後の人生に、大きな違いをもたらした。


一番大きな違いは、人身売買や薬物密輸、そしてその背景にある貧困の問題に強い関心を持つようになったことだろう。裁判が終わった後でネットを検索してみると、アメリカの国務省が人身取引報告書というのを毎年出していて、世界には人身取引が横行している国が少なからずあるということを知った。こんなの、大学でそうした講義を選択でもしていない限り、知ることもなければ知ろうとすることもなかっただろうと思う。


そしてショックだったのが、日本も人身取引に関する問題を指摘されていることだった。自分が快適に暮らしているこの国も、外国から見たら決してクリーンではないのだというのは、衝撃的だった。同じ日本に暮らしていても、見えていない景色はたくさんある。いわんや外国をや、ということなのだろう。アメリカだって大概問題があるようには思うけれど、それはそれとして、耳を傾けるべきところはそれなりにあるように感じた。そして、いかに自分が箱入りで、庇護されて育ってきたかを、今更実感する。


また、この興味関心は、2年次以降に大学で選択した科目や、その後の進路にも大きく影響した。もともと政治学系の学科にいたこともあって、公共政策や開発援助といったテーマのコマを可能な限り取るようになった。そして、将来はそうした問題を扱う仕事をしたいという思いが強まった。


ただ、裁判の仕事をするには司法試験に合格しなければならず、極端にハードルが高い。行政職の国家公務員になるのも一つの道だけど、その中で力を持つキャリア官僚になるなら、東大や京大を出ていないと肩身が狭そうだ。それに、霞ヶ関の労働環境は超絶ブラックだと聞くし、スペシャリスト採用がないから望む分野の仕事ができるかどうかもよく分からない。さりとて、こういう志望だと民間企業に普通に就職という感じでもない。


そんな悩みをゼミの教授に相談してみたところ、容易い道ではないけれど、という留保付きで、大学院に進学した上で、最終目標として国際機関や国際NGOに進むという道もある、という示唆を受けた。


文系の大学院なんかに行ったらますます就職から遠ざかりそうで、聞いたときには抵抗があった。けれどその後調べてみると、特に国際機関では、最低でも修士以上の学位がないと、そもそも応募自体ができないことが多いことが分かった。というよりも、この点では日本がむしろガラパゴスで、ヨーロッパなどでは主要な企業では、幹部クラスはほぼ修士以上の学位を持っているようだった。大学の学部を出ただけの学士が官僚組織や大企業を牛耳っているのは、日本くらいのものらしい。


そうした世界的なスタンダードを前提にすると、国際系の道に進む場合、学位は半ば必須条件のようだ。逆に、大学院の学位さえしっかりしたところで取得できていれば、学部は各国のトップ大学を出ている必要はないことも分かった。たしかに、日本の大学なんて、世界から見ればどれも同じようなものなのかもしれない。これは救いだった。


その後ずいぶん悩んで、進路を決めたのを覚えている。さすがに大学院に合格しなかったらどうしようもないので、大学4年のときには押さえで就職活動もした。最近はESGに力を入れている企業も多いので、そうした分野で自分の関心分野に強みがありそうな会社を選んで受けた。そういう選び方なので業界はバラバラだったのだけど、不思議と内定率は悪くなかった。他方で、大学院の入試も無事合格し、また悩んだ末に大学院進学を決めた。


修士を取得した後も、一度社会に出たり、その後留学したり、そして最終的には今勤めている国際機関に応募したり、就活以降全ての機会に、裁判員裁判の経験はフル活用された。自分がこの道を志望した原点は、他でもないあの事件だったのだ。そして、この経験は、誰もが持っているようなものではないという意味で希少価値があり、しかも志望動機の説明に強い説得力を付与してくれるので、志望動機やビジョンを問われるタイプの選抜では非常に強かった。


最初に最高裁判所から封筒が来たときは、宝くじでも当たればいいのに、どうしてこんな面倒くさそうなのに当るのか、などと己の不運を呪ったのが嘘のようだ。禍転じて福となすというべきか、あるいは将来が見えていなかった故の短慮というべきか。


いずれにしても、人生、何がどこでどう役立つかは分からない。その後の人生の進路を大きく定めていく時期にあたる学生時代。もし裁判員に選ばれたら、進学や進級がかかった試験と日程が重なっているといったことでもなければ、積極的に参加してみて損はないと思う。それは、目指す分野にもよるけれど、並のガクチカなどよりもずっと、あなたの志望動機を、具体的で説得力あるものに変えてくれるから。


などと思いにふけっていたら、もうすぐ飛行機が着陸するようだ。昔話はこのくらいにして、そろそろ飛行機を降りた後の予定を確認しよう。残念ながら、あれから20年ほど経った今も、相変わらず世界の薬物犯罪は減らない。相変わらず人身売買も大きな問題であり続けている。けれど、だからこそ頑張らないといけない。微力でも、少しずつでも、何かの形で、この世界を良くしたい。転んでも、倒れても、前へ。あの日、裁判長が言い渡す判決を横で聞きながら、密かに決意した想いは、今もまだ生きている。

この作品はフィクションです。2023年時点での日本の法制度を前提にはしていますが、登場する国名や地名、会社名などは全て架空のものであり、扱う事件も実在のものではありません。

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