50代と14歳問題~50代はゴキブリである。故に彼らは未成年と同意性交していはいけない。証明完了
こんにちは、ふりがなです。
割と話題になりました。
50代が14歳とセックスしても良いのか、というお話です。
まぁ、個人主義的立場からすれば、本人達が納得するなら別に良いんじゃないの?
どうせ、私には関係ないし、といった所です。
ダメだと言ってる立場の人達の中には、お前にも関係あるんだよォォ!としたいために、もし、その14歳が自分の娘だったら等の条件を付け足してる人がいるみたいですね。
これは、私からすれば、もし娘が婚約者に黒人連れてきたらどう思う?という話題と一切変わらないので、思い付いた方は、普通に発想が下劣なんだなぁと思います。
娘が選んだんだから、もうしゃーねーんだわ、つべこべ言うなという話です。
私の立場表明は、ここら辺で終えておきまして、では本題です。
立法の議論で出た同話題に反応し叩いた方々の大多数は、なんとなく気持ち悪いから、という理由が大半なようです。
50代が14歳と性交するのを気持ち悪いと思う事と、ゲイが気持ち悪いと思う事、両者に何か違いなんてあるんでしょうか?
ゲイの排斥は、常に一定の支持を得る物でして、世論はLGBTなんて言ってても、その内実は一枚岩なんかにはなり得ません。
LGBTは、愛やその人の人生の在り方から、斯くあるべしと整備の進められている領域ですが、そもそもの話で、愛や人生の在り方を定義出来ない人も非常に多いのです。
これが、自身の感覚のまま、事実上50代はゴキブリのようなものだから、そもそも性交なんてするな、という意見表明をした層です。
ゲイに置き換えると、解りやすくなるかもしれません。
ゲイはゴキブリのようなものだから、居なくなった方が良いという発想の方々です。
ゴキブリは昔は身近な生物だったのが、虫との接触が稀になるにつれ、ヒステリーの対象へと変化していきました。
50代叩きに走る人も、50代との接触が稀になった世代なのかもしれませんね。
今回50代叩きに加わった方の大半は、大なり小なりが、50代をゴキブリと見なした方々です。
色々条件を組み換えてみまして、そういう感覚なのだろうなと確信しております。
その中で一番大きな根拠となった条件が、もし、顔の美しい青少年が一切歳を取らなくなった上での50代だったなら、今回の炎上など起こらなかったのでないか? といった物となります。
結果的に50代の与えるイメージから、醜い、汚いをとってみたらどうなるかといった思考実験になりました。
そして、醜い、汚いから連想したのがゴキブリです。
ゴキブリの発想に至った結果、14歳という未成年の条件までとっぱらっうことに成功しています。
皆さんゴキブリの性交なんて年齢関係なく、ないほうが良いと思いますよね。
この件の未成年の条件は、実はおまけに過ぎない、ということです。
そして、ある程度理知的な方々になると、今度はパターナリズムの否定による叩きになってくるようです。
こちらは、大半ではない方々の根拠です。
パターナリズムとは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利のためだとして、本人の意思に問わずに、介入、支援、干渉する事です。
曰く、50代と14歳、両者の立場が大きく違うので、対等な合意にはなり得ないといった物です。
故に、立場の大きく違う性行為は、合意の結果とはみなさないといった主張になります。
こちらも色々条件を弄りまして、どのようにすれば、対等な性行為の合意は成されるのか、といった物を考えてみました。
収入の面から大谷将平(26)選手が、対等な女性と付き合うなら、その女性の年収はいくらになるでしょうか?
無職、年収300万円未満は話になりませんし、年末1000万円未満でも、パターナリズムとして問題が起こりそうです。
このパターナリズムの否定思想は、私達の身近にありまして、例えば、それは、美女と野獣の物語りになります。
野獣の呪いは解け、最後にはイケメンになる、といった物ですね。
『最終的に容姿が対等でなければ、それは、幸せな付き合いにはなり得ない』
これは、典型的なパターナリズムの否定となります。
ブスとイケメン、美女と不細工が、付き合っているを見て叩く層が現実には意外に多く居ます。
パターナリズムを許さない思想は、普段から身近にあるのです。
パターナリズムだとして、50歳と14歳の性行為を叩く層は、本質的には、ブスとイケメンのカップルを叩く、その層と何ら変わらないという物になります。
同時に実際には、50代と14歳の性行為の同意は、パターナリズムとしての問題も抱えているでしょう。
性行為の同意としては問題のあるケースが多くなるのに、立場の違いが大きいからなのは事実だからです。
立場の違いからパターナリズムだと見なして、人付き合いそのもの否定する一番大きな問題点は、愛の存在証明となります。
それは、究極的には、我々の指定するパートナーの条件が合致しなければ、愛は存在し得ないのだ、といった主張になるからです。
この論理は、ゲイの否定にもそのまま使えます。
立場の対等なゲイだとしても、行政の指定するパートナーの条件から外れれば、愛は存在し得ないのだといった主張になりえるからです。
人々の人を愛する自由を、政府の管理に委ねる。
それ自体が、非常に危険な考えではないでしょうか?
今回、この愛の存在証明の問題に簡単には突き当たらない辺りが、日本人の特異的な価値観なように感じました。
個人の愛の在り方や、人生の在り方を問うた結果至ったLGBTの成立過程が、この騒動から、日本には存在しないように感じたからです。
パターナリズムの否定は、常にこの問題に向き合わなければなりません。
愛の在り方のどこまでを、政府に委ねるのか議論しなければならないのです。
その議論自体が成立しなかったという事で、今の我が国の立法府とマスメディアは、議論の知的資格を満たしていないと私は感じました。
殊LGBTに対しては、明日ひっくり返っても、おかしくはない水準にあると言えるでしょう。
その上で書きますと、議論の成立の末なら、このパターナリズムの否定には一定の利用価値はある、と書いておきます。
年齢問わず、パターナリズムの抱える問題に関しては、その議論の価値も、立法の価値もあるのではないでしょうか。
特殊な立場にある人を愛するには、ハードルをあげる、もしくは下げる領域があって良いように感じます。
50代はゴキブリとみなす、そしてパターナリズムの否定。
さらにはその混合が、私に思い付く、今回のバカらしい騒動の根拠の全てです。
まぁ、細かい論理をかざしても、理解の出来ない層が大半でしょうから、簡単な極論を書いてしまいましょう。
前提として、日本の50代はゴキブリである。
故に、彼らの性行為そのものが許せる物ではない。
ゴキブリであるから、あらゆる年代と同意の末の性行為など、そもそもが成立しないのである。
この価値観が蔓延している、蔓延しつつある、更には、共有している層が多いから、この話題は盛り上がった。
もしくは、マスメディアに取り上げられた時に、人々は脊髄反射のように噛みついたのだ。
という物です。
それは、日本のマスメディア、または国民に、美醜差別至上主義、ルッキズムが蔓延してきている証左なのかもしれません。