神女アテネー
オリヴィエールは、アルカディ城下の第一城壁までしかいったことはない。
港都市イオリアスどころか、神聖都市アルカディアスの一部だけしか知らないが、高貴なる皇子が城下に降ることは下賤なことであり、やってはならないことだと何度も言われていた。
第二城壁を越えて、そして下町にでると港にたどり着く。
「手は…届かない…か…」
あの神は…自由の色をしていたと思う。
アルカディア城第一皇子としてのオリヴィエールは、父王の全ての政務をこなし、老齢の父は奥神殿に通い続け神女アテネーの元から戻らず、正妃である母は体調を崩したとかで床についており面会すら拒絶していた。
アルカディアの政務をオリヴィエールが、軍務をレェードが行う国の危うさは、
『レェード皇子こそが、アルカディアの王に相応しいのではないか?』
『神の系譜を持つオリヴィエール皇子、つまり王と王妃の直系こそが次期王たらん』
とする二派に分かれるほどの混乱を生んでいた。
実際、聖都アルカディオンで知られているの名はオリヴィエールであるが、抵抗による敗戦の奴隷となった小さな都市国家の達の多くはレェードの残虐さから、『アルカディアの黒い悪魔』と恐れられていた。
幼い頃から近寄りがたかった義兄は、剣にオリヴィエールが選ばれた時から、より離れた存在となった。
オリヴィエールが生まれる前までは、いや、オリヴィエールが国剣を手にするまでは、次期王であったのだ。
「義兄上…レェード皇子はいずこに」
オリヴィエールが尋ねると、政務室のレーダーがアルカディアが制圧した各都市国家の意見要望の巻き羊用紙を開きながらぼやく。
「レェード皇子は所用とかで、港町に下がられています。奴隷がまた暴れているのでは?」
戦神…戦いを好むレェード。
何を求めるのか…屍の向こうに何を築こうとしているのか…そこにアルカディアの未来はあるのか。
オリヴィエールは自分には許されない港町にいるレェードを見つめるように、窓の外を見下した。
アルカディ王国は奥神殿の奥深く。
女神神殿の乙女達が、薔薇の香と共に起き始める。
「アテネー様」
「はい」
美しい癖のない金髪に、金の双眸をけぶらせて、その姿はまさに女神と称される女神巫女は寝台から薄衣をかけて起き上がる。
柔らかな寝台に座り、絹の薄い布を長く羽織る女神巫女は、年若く薄い胸を押さえた。
「アテネー様、お目覚めですか?」
侍女が恭しく両手を胸元に合わせ入ってくる。
「そんなに改まって入ることはないわ。奥神殿も女神神殿も変わらないのよ」
アテネーに着いて来て初めて女神神殿巫女の侍女になった女は、
「はい。でも…」
と慌てて、顔洗いの濡れた布を差し出す。
「皆様にはお世話になるわ。私は…私は誰かもわからないのに…」
アテネーの長い金髪をすきながら、侍女は呟く。
「嵐の夜、アテネー様は女神デーメテールの足元にいらっしゃいました。きっと女神様の生まれ変わりか…お導きですね。そう…今日は…どこと無く、アテネー様…ああ、なんと言ったらいいか…」
アテネーはくす…と笑った。
「なんだか、どきどきするの。不思議な夢を見たからかしら」
「不思議な夢?」
アテネーはふふ…と笑った。
「…小さい頃…そう小さい頃…私の横には誰かがいたの…」
心が温かくなる夢を見た。
アテネーはそれが何かわからないが、とても大切な物のように感じていた。
「さあさ、朝食を済ませて、朝のお支度を」
古参の侍女の馴染みの声がする。
「アテネー様のおぐしの櫛削りに時間が掛かりすぎています」
アテネーの衣装を調え、侍女長が手を取る。
「ありがとう。あのね、侍女をあまり叱らないで。私が夢を話したの」
「まあ、夢を…お告げでもございましたか?」
アテネーと呼ばれた少女は、イオリアスの女神神殿の奥で倒れているのを発見された。
記憶を持たない美しい少女は、豊穣の女神デーメテールの美しき使いとなり、神女として女神の言葉を降す。
「そうではないの…ただ…胸がどきどきして…」
動悸が治まらない。
「今日は国王様ではなく、オリヴィエール皇子が来られる日ですわね」
「ええ…そうね。彼は悩める人だわ。女神様のお言葉を…彼に降ろして差し上げたいわ」
「奥神殿の泉で禊をいたしましょう」
侍女長は神女に従った。




