大弓引きのソレス
神国アルカディア 、のちの世に失われた楽園と謳われる美しき王国。
まだ世界が成熟せず、未知と無垢が交わる世界の果て、神々と人々が混沌をかき混ぜるその階で、狡猾なる人の神託がまことしやかにあった。
破滅の剣は肉鞘に降臨し、邪悪な神託で消え去ろうとしていた。
月星ごとく神々しいの全き双子は、破滅と再生の縦糸と横糸を紡ぐ。
糸は決して緩めても絡めてもならない。
後世に『アルカディア国物語』として語り継がれる物語の一端は、今、ここに広がるのだから……。
アルカディア王国はアナトリア半島にあり、国境沿いの山岳神殿都市は蛮族たちとの攻防に明け暮れていた。
石切場で、褐色に日に焼けたもろ肌の青年が、長時間の労働に伸びをする。
「ソレス、御前試合には出るんだろう?」
「ああ…うん、弓引きの方に」
男達の中でも長身のソレスは、長くなった灰髪を下の方でくくり、額の汗を拭った。
「うまくいけば、神殿の警備兵士に取り立ててもらえるさ、ソレス」
との男の声に
「お前、石切の才能ないしなあ」
と笑いが沸き起こる。
「そうそう、今回のコロセオでも優勝者は市民権がもらえるらしい。奴隷階級からのかさ上げや、外国からの流民も参加してるってよ」
すでに下級とは言え、市民権をもつアルカディア近隣の村の男達は笑って過ごせる。
ソレスは同じように笑いながらも、市民階級の余裕を感じて苦々しく思った。
ソレスは近隣の村の者だが、三年ほど前に奴隷商人に捕まり、売られたのだ。
新しい弓を試しに、山に入って直後だ。
迂闊だったのだ、人買いなどどこにでもいる。
神聖都市の城壁作りのために、大量の奴隷が投入されている噂は流れていたのに。
「ソレス?」
「あ、ああ、すまない」
それでも労働奴隷は、神殿奴隷よりはまだましだ。
給金も出るし休みもある。
去年流行り病で死んだ母の葬式にも出られた。
暖かく愛してくれた父母が相次いで死に、その死に際の母の言葉が、ソレスを苦しめる。
…お前が奴隷とは…お前がうちにいれば父さんはどんなにか…。
労働が終わり粗末な家につくと、板の寝台に横になった。
つい最近一人の宿舎に移ることが出来て、のびのびと広い新台を使うことが出来る。
でも、奴隷には違いない。
売られたぶんの金は回収できていないのだ。
「俺はなんのために生きているんだ…」
毎日のように呟く言葉を吐く。
父を苦しめ母に呪われ、大切な二人を失った今、生きている価値を感じられないでいた。
「早く早く」
「今回の英雄は市民権利を得られるそうだよ」
「あたしゃ、余興が楽しみさね」
市民の娯楽といえば、コロセオの試合だ。
奴隷同士を闘わせる時もあれば、剣士同士、かたや獣とも闘うこともある。
それ以外にも力比べや弓引きなどの余興があり、大神官も来る御前試合でソレスは、神から賜わったとかいう大弓を唯一引いて矢を打ち、喝采を受けた。
観客のお目当であるコロセオでは、外国から来た神殿奴隷が優勝したと、話題になった。
大神官お着きの神官に褒美の金をいただいて、コロセオの勝者を横目で見た。
痩躯な男が立っていた。
男のはずだ。
頭から被る貫頭衣は薄く、突き出た胸はない。
しかし顔の造作は美しく、綺麗で癖のある豊かな金髪は腰まであり、ひと振りの血のついた剣を神官に返した、金の瞳。
「まるで獅子だな…」
小声で呟いたソレスの声は、隣にいたソレスより年若い青年…少年に届く。
金をもらった半日は自由な時間が、勝利者に与えられた権利だ。
夜明けまで遊ぶか飲むか、まあ、寝るかしかないのだから、ここで初めて会う奴に絡むのもどうかとは思ったが、青年…とは言えぬ少年然とした美貌の外国人は金のけぶる睫毛に、戸惑う黄金の双眸を泳がせて、ソレスを見上げた。
金の豊かな髪に縁取られた卵型の見事な造形美は、神殿に飾られる若い神のようで、黄金の濁りのない瞳が生気を感じ、辛うじて人であると分かるような完璧さだ。
「誰だ、お前は」
意外にも少し高めの声に、
「お前と同じ奴隷だ」
とソレスは言い放つ。
「だが、神殿奴隷のようにへつらえ仕える奴とは違う。お前は奥神殿の女達の警護がお似合い…」
「貴様!」
胸元を下から鷲掴みにされ、コロセオの裏まで無言で引っ張られたソレスは、痩躯の腕を引き剥がす。
「外国人のお前は山岳神殿奴隷を分かっちゃいない。バビロンと闘う神殿奴隷兵士のつもりかも知れんが、お前みたいな綺麗な奴は、変態神官の餌食がオチだ」
ぎゅうと少年の腕を掴み、ひそりと言葉を吐き続けようとしたソレスの手を払いのけ、
「はっ…。どこの神官も同じだな」
馬鹿にしたように息を吐き出す少年に、
「お前、名前は?」
とソレスは聞いた。
「アーレフだ。金をくれた神官の言葉を聞いていなかったらしいな、大弓引きのソレス」