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また雷が落ちた。さっきよりも近づいているような気がする。閃光から雷鳴までの間隔が狭まっているのだ。
「一体何を言ってるんだ、夜宵さん」
頭が混乱したまま、話についていけない沖は、夜宵に向かって困惑の顔を向ける。
そんな沖を、彼女は冷たい眼で見下ろした。
「その夜宵って名前、私の本名じゃないの。殺人をするっていうのに、自分の素性を正直に話す事なんてしないわよ。院生っていう肩書も嘘」
夜宵は目にかかった前髪を手で払いのけた。
「本名を言えば、少なくともどこかで耳にした事くらいはあるような企業の経営者の一族であることはわかると思う。私はそこの会長夫婦に、養子として引き取られたの。養母が女の子を産めない身体だったらしくて、娘を欲しがった二人は孤児院を訪れて、そこで私と出会ったらしいわ。前に雪崩に遭って記憶を喪ったって言ったでしょう? あれだけは唯一本当の事。病院で目を覚ました時、私は名前のわかるものを身に着けていなかったから、私の本当の名前は今でも知らない。本当の両親のこともね。でも、二人が私に新しい名前を与えてくれた。新しい両親にもなってくれた。優しい養父母は、私を本当の家族の様に接してくれたし、何不自由ない生活を送らせてくれた」
しかし、その言葉とは裏腹に、彼女は寂しそうな、物悲しそうな目をした。
「でもね、病院で目を覚ましてからの私の心には、いつも真っ暗な底なしの穴がぽっかり開いていた。それは何をしていても塞がることはなくて、私はその喪失感にどんどん耐えられなくなっていった。そしてある日の事、私はその空白を埋める方法に、偶然にも辿りついてしまったの……」
彼女の目が、昔を懐かしむような、遠くを見つめるものになった。自らの行動を反省するというよりも、心なしか愉悦に浸っているような表情である。
再びの閃光。そして雷鳴。
「学校からの帰り道、弱って地面で苦しみもがいていた小鳥を見つけて、私は咄嗟に、一思いに楽にしてあげようと考えた。近くで木の棒を拾ってきて、それで鳥の腹を突いたの。最初は痛みで大袈裟に羽根をばたつかせて、そのうちじわりじわりと血が体毛に滲んできて、動きが弱々しくなって、最期にはピクリとも動かなくなった。その様子を見て、私は途轍もない満足感を得たのよ。今まで埋まることのなかった空白に、ピタリとパズルみたいにピースが嵌った」
彼女の表現は妙に生々しく、武刀や女納尾は顔を顰めた。沖のほうはと言うと、聞いているのかいないのか、半ば放心状態である。
「私は生き物を殺すことで、心が満たされることを覚えてしまったの。そこから先は、世間一般の道徳や倫理とはかけ離れた道を歩むことになったわ。
最初は虫や小動物だった。でも、すぐにそれじゃあ満足がいかなくなった。もっと大きなもの。もっと殺しがいのあるものを求めて、それで――」
「人を、殺したのね?」
女納尾が恐る恐る確かめるように尋ねる。
彼女が語る半生に、演出を加えるが如くに鳴り響く雷。
夜宵は躊躇いもなく頷いた。
「そうよ。初めて殺したのは同級生だった。なにぶん人を殺すなんて初めての事だったから、興奮して我を忘れて、ドジを踏んでしまった。すぐに警察に捕まったわ。でもね、養父母が助けてくれた。金で警察を買収して、私を釈放させてくれたのよ。それから一応病院で脳の検査を受けた。医師によれば、私はあの事故の時、生死を彷徨った時に、脳の一部を損傷していた。そのせいで、私の妙な性癖が現れてしまったというのよ」
彼女はベッドに腰を下ろした。上目遣いで俺を見やる。
「でも養父母は、そんな私を手放したりはしなかった。私のそんな脳の疾患を受け入れてくれた。それからも、私は度々二人の目を盗んで人殺しを続けた。でも、二人とも気付いていたみたい。私がへまをした時は、いつも二人が助けてくれたの。金に物を言わせてね」
「い、イカレてる……。本当に貴女の事を愛していたのなら、病院に入院させるなり、警察に連れていくなりすべきだった」
武刀の声は震えていた。彼には彼女たちの行動が理解できないようだ。恐ろしさに硬直した双眸で、彼女を捉えている。
夜宵はそんな武刀を睨み返した。
「偏執な人。こういう愛情の形もあるのよ」
大きく溜息を一つ。そして彼女は話を戻した。
「そしてそのうち、私は普通に殺すだけでは飽き足らなくなってきて、ゲームを仕掛けるようになっていったの」
「ゲームだって?」
「そう、今回みたいな。この島が格安で売りに出ているのを知った時は、武者震いが止まらなかったわ。曰くつきの館もあって、こんなにうってつけの場所はない。それでこの島を買って、思いついたトリックができるように、扉の鍵を付け替えて……」
楽しかった出来事を振り返るように、軽やかな口調で俺たちを見回す夜宵。彼女はそして、俺を捉えた。
「ただ、今回は人選が悪かったようね。でもお陰で貴方も楽しめたでしょう? こんな推理小説みたいな経験、普通に生きてたら味わえないわけだし」
その彼女の言葉には、怒りを覚えた。
ミステリをこよなく愛すが故の怒りであった。
推理小説はフィクションだから楽しめるのだ。現実になってしまったら、もはやエンターテイメントの欠片もない。現実と混同させてはならないのだ。
「ってことは、殺した五人には何の恨みもなかったってことか? あんた、人の命をなんだと思ってるんだ? 神か何かにでもなったつもりか?」
皮肉を込めて言ったつもりだったのだが、彼女は割り方間に受けていたようだった。
「神……。そうかもしれないわね。強ち間違ってないんじゃないかしら。
ここは資本主義の国。常に金を持つ者と持たざる者がいる。持っているものは常に持たざる者の上にいる。持っている者は、何をしたって金で解決できる。そうは思わない? そして私は持つ者。だから、持たざる貴方たちを好き勝手にできる」
「行き過ぎた考えだ。そんなの間違ってる」
「でも会社だってそうでしょう? 持つ者が持たざる者を好き勝手に駒として使う。雀の涙みたいな賃金で過酷な超過労働を強いて廃人にまで追い込むし、搾り取るだけ搾り取ったら切り捨てる。その後は知らんぷり。それで路頭に迷って命を落とす羽目になった人を何人も見たことがあるわ」
それとこれとは話が違いすぎる。
彼女がやっていることは、単なる身勝手な自己満足の欲求の延長線上に過ぎないのだ。そんな彼女に弄ばれるほど、人の命は小さい存在ではない。
「いい加減にしろ。ゲームだか神だか何だか知らないが、思い上がるな。どうせじき迎えの船が来るんだ。警察も来る。そうすればあんたがやったっていう証拠だって、続々出てくるはずだ。もう観念したらどうだ」
熱くなって、思わず柄にも合わない説教じみた声を上げた。
しかし彼女は、大して慌てる素振りも見せず、冷静さを保っている。
「迎えの船? どうして私がそんなもの呼ぶと思ってるの? 最初からそんなもの用意なんかしてないわよ」
「何?」
「それに私は、証拠の宝庫のこの館をいつまでも残しておく気なんてないわ。正午には、ここに仕掛けた爆弾が作動するはずよ」
「ば、爆弾……?」
「ええ、地下に食料の段ボールあったでしょ。あれは殆どダミーで、中身は爆薬。水のペットボトルもガソリンだから、跡形もなく吹き飛ぶはずね」
「正午って、あと二時間もないじゃないか!」
腕時計を見た武刀の顔が、絶望の色に染まる。
「だがそんな事をしても、あんただって逃げられはしないはずだ」
俺がそう言っても、彼女はやはり余裕綽々のまま、顔色一つ変えはしない。
「残念だけど、ゲームの仕掛け人っていうのは、いつも自分を優位に立たせる準備をしてるものよ」
彼女はそう言うと、傍にいた女納尾の背後に回り込み、彼女を押さえ込んだ。さらに、隠し持っていたナイフをその首元に突き付ける。さっきまで食堂で武刀が使っていた、食用のナイフだ。
それは、さながら演劇の舞台の様に洗練されていて、流れるような自然な動作だった。俺たちはそれに魅せられて、一歩たりとも動くことが出来ずにいた。
地鳴りのような霹靂。
「そこをどいて。ここで彼女の首を斬ってもいいのよ」
長身の女納尾が、彼女と比較すれば小柄な体格の夜宵に人質に取られているその姿は、実に不格好である。少し腕で薙ぎ払えば力で勝てそうなものだが、女納尾は恐怖のあまり硬直してしまっていて、何もすることができない。なされるがままだ。
かと言って、俺や武刀や沖が取り押さえようと、少しでも動こうものなら、夜宵は本気で女納尾を殺しかねない。
「早くそこをどきなさい!」
どすの効いた声。あの可愛らしい顔から飛び出したとは思えない、低くて響き渡る声だった。
ナイフの切っ先が皮膚に食い込んで、一筋の鮮血が流れ出た。
「わ、わかった。言う通りにするから、落ち着いてくれ。彼女を離してくれ」
そういう俺より、夜宵のほうがよっぽど落ち着いているようだ。彼女は俺たちの動きを牽制しながら、間合いを取りつつ、慎重に部屋のドアに向かって移動する。扉から後退りするようにして部屋を後にすると、彼女は女納尾を突き飛ばして、廊下を駈け出した。
「あ、待て!」
「逃がすな!」




