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甲塚の部屋の隣は九剣の部屋だ。しかし、この二部屋はどちらも死体が発見当時のまま残されているということ以外、異状は見られなかった。
九剣の部屋の左隣は俺の部屋――48号室だ。
俺は鍵をポケットから取り出して、錠を外すと皆を中に招き入れた。
幸い、まだここに滞在して二日ほどしか経っていないので、部屋はそれほど散らかってはいない。少なくとも人に見られても恥ずかしくはない程度だ。これが一週間、一ヶ月となると、目も当てられないほどの酷い有様になってしまうだろう。その例が、自宅の俺の部屋だった。あそこは書物だの替えの服だので溢れ返って、足の踏み場もありはしないのだ。
俺は沖とバスルームに入って、身体検査を受けたが、無論この48号室の鍵とスマートフォンぐらいしか持っていない。
数分もしないうちに解放された。
バスルームから出てきた俺は、クローゼットの中を覗き込んでごそごそやっている御行に訊いてみた。
「あの絵、何の絵だか分かりますか?」
俺はベッドの横に掛けられた二枚の絵を指し示した。
彼はちらりと一瞥すると、再びクローゼットの中に目を向けながら、ぺらぺらと語った。
「あれは、ルカ・シニョレッリがイタリアのサン・ブリツィオ礼拝堂の壁に描いた、天国と地獄の絵ですよ。見ればわかると思いますが、左が天国で、右が地獄です。それぞれに別にタイトルはついていますが、全体としてのテーマは『最後の審判』ですね」
「最後の審判? 俺の知っている奴とはだいぶ違う気がするけど」
俺の知っているそれは、大きな一枚の壁画で、中央にキリストがいて、審判を下している絵だ。
これはそれとはだいぶ違う。
「神話や聖書の話をテーマにした作品は、西洋では多くの画家が描いていますよ。多分、末田さんの知っているのは、『最後の審判』の中でも最も有名なミケランジェロ・ブオナローティの描いた絵でしょう」
「ミケランジェロというと、九剣さんの部屋の、『カッシーナの戦い』の絵を描いた?」
「そうです。ダビデ像のような彫刻で有名ですが、絵や建築や詩など、幅広い分野で活躍した人物ですよ」
俺の部屋の捜索も無事終わり、その次は隣の84号室――夜宵の部屋の番になった。
彼女はポケットから鍵を取り出して、自室の扉を開けた。
夜宵と女納尾が例によって身体検査のためにバスルームに籠っている間、部屋の隅から隅まで調べが入った。
正直、事件のためとはいえ、女性の部屋を家探しするような真似は、あまり好ましいとは思えない。妙な罪悪感を覚えながら、部屋のあちこちを見て回ったが、何も見つかりはしなかった。
身体検査を終えて戻ってきた女納尾も、やはり首を振っていた。
夜宵の部屋に掛けられた絵は、雲を切り裂き、天を貫くように聳え立つ塔の絵だった。
人々がまばらながら、その建物に上ろうとしている様子も窺える。しかしながら、色褪せたようなモノクロームのその絵は、どことなく不気味さを醸し出しているようにも見えた。どっしりと構えているはずの塔も、見ているこちらには不安定さを与える材料にしかならない。
「御行さん、この絵は?」
「これは、えっと……」
しかし、今回はすんなりと言葉が出てこなかった。目線を宙に彷徨わせて、記憶の糸を手繰り寄せている。
それでもその間僅かに数秒といったところで、彼ははたと思い出したように手を叩いた。
「確か『バベルの塔』ですね。スタニスラオ・レプリの作品です。あまり有名な絵ではありませんね。『バベルの塔』と言えば、フランスの画家のイメージですから」
「バベルの塔って、聖書の話でしたっけ」
「そうです。かつて世界は一つの言語で統一されていました。そして人々は力を合わせて、天にも届く高い塔を建て、神に近づこうとしました。しかし、そのことで神の怒りを買い、神は塔に雷を落として破壊し、二度とこんな塔を創らない様に、力を合わせることができない様にと、言葉を分けたんですね」
絵のテーマのせいか、彼は聖書の内容にも精通しているようだ。先程から幾度も解説を聞いているが、彼はモチーフになった話を何も見ることなく、そらんじている。その記憶力は相当なものだろう。
しかし、結局この部屋からも、合鍵や手掛かりは見つかることはなく、俺たちはそのまま隣の冴沼の部屋を調べ始めた。
朝方調べに来た時と、全く変わっていないように見える。しかし、万が一という事もある。だからどんなに変化がないように見えても、今まで通りに細かくチェックしなければならない。
が、ここにも何もなかった。
さらにその足で隣の空き部屋を調べてみる。
いい加減そろそろ何か出てこないと、やる気も何もあったものじゃない。
他の人の動作も緩慢になってきている。口々に溜息を吐いているが、この調査が意味のない行為だと言い出す者は誰もいなかった。
今のところ、他に犯人を見つけ出すような方法はないのだ。地味だが、それでいて確実なやり方だ。
「あっ、ちょっと来てください」
トイレを調べていた沖が声を上げた。久々の発見に、僅かながらその調子は上がっているように聞こえる。
何事かと集まってみると、彼はトイレのタンクの中から鍵を取り出して見せた。
その鍵の木製のタグは、水分を含んで茶色く湿っているが、刻まれた金文字ははっきりと読み取れた。87と刻まれている。この部屋のものだ。
「こんなところにあったんですね。犯人は、冴沼さんからこれを盗んで、ここに隠したんでしょう」
「でも、わざわざ何のために?」
「さあ……」
沖は首を傾げつつも、水滴を綺麗に拭き取ると、それをベッドサイドテーブルの引き出しの中にしまった。
隣の37号室からも、同じくトイレのタンクから部屋の鍵が見つかった。これまたその部屋――37号室の鍵だ。これも同様に、水滴を拭ってベッドサイドテーブルにしまった。
しかし、見つかったものと言えばこれだけ。そのほかには一切何もなし。
何故、冴沼から奪った鍵を、それぞれの部屋に隠したのか。
犯人の意図が読み取れなかった。
腑に落ちないことが多すぎる。
捜索の手は、空き部屋の隣の女納尾の部屋――25号室に及んだ。
ここに掛けられているのは、一人の男が半裸で戸外にある柱に括りつけられている絵だった。
異状なのは、その男の身体に幾本もの矢が突き刺さっているところだ。主に腹部から下半身まで、矢は貫通し身体からは血が流れている。その姿は実に痛々しい。
苦悶の表情で天を仰ぐ男。
こんな姿になって、まだ生きているのだ。
「これは、『聖セバスティアヌス』という絵ですね。アンドレア・マンテーニャの描いたものです。セバスティアヌスはキリスト教の聖人でしたが、ディオクレティアニス帝のキリスト教迫害によって、殺されたとされている人物です。よく、このように矢を射られた姿が絵になっていますね」
御行の説明を半分聞き流しながら、俺は部屋の捜索を始めた。だが、ここでも何か発見されることはなかった。女納尾もまた何も所持していない様子だった。
さらに隣の61号室。冷山の部屋を調べたが、ここでも目当てのものは何も見つからないまま、調べが終わった。
そして、ついに最後の部屋、御行の部屋の番になった。
ここにも何もないとなれば、後はもうどうすればいいのか。
本当に奇人の仕業であるということも考えなくてはならなくなる。あるいは、その奇人の怨念が殺人を行っているとでもいうべきなのか。そんなオカルト話は流石に信じられない。
だが――。
いや、とにかく、この部屋の中を見てからだ。
俺たちは御行に扉の鍵を開けてもらって、部屋の中に入り込んだ。
まず目に留まったのは、壁の絵だった。
俺はまたもストレートに人間の死体が描かれた絵にどきりとした。
梁から垂れ下がったロープに、男が首を引っかけて、だらりと肢体を伸ばしている。風に長い髪がなびいている。その腹部は裂けていて、ごちゃごちゃとした内臓が覗いていた。首吊り死体の絵なのだ。
「御行さん、これは」
バスルームに入ろうとする御行を引き留めて、彼から話を聞いた。
「ああ、不気味な絵でしょう。『ユダの首吊り』って絵ですよ。ピエトロ・ロレンツェッティの絵で、キリストを裏切ったユダが、その罪を悔いて自殺をしたと言われているんですが、それを描いたものです」
俺は絵のほうに向き直った。
自殺をしたというのに、なぜ腹が裂かれているのだろう。
それを訊こうと、再び御行のほうを見やったのだが、既に彼は沖と共にバスルームの中に入ってしまっていた。
その時だった――。
「あっ! 皆さん、これ!」




