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深い眠りの中に沈み込んだ俺を引き上げたのは、何か硬いものを叩くような音だった。
最初は小さかったその音は、徐々に耳障りなほどに大きくなっていき、俺はついに耐えきれなくなって目を覚ました。
何事かと扉のほうに近づいて、覗き穴に目を通して見たのだが、廊下には誰の姿もない。
――トン、トン。
その音は、扉からのものではなかった。
背後から聞こえてきたのである。
背筋に悪寒が走った。
馬鹿な。鍵はかかかっている。誰かが忍び込んだのだろうか。だとしたら、それは一連の事件の犯人に他ならないのではないか。
途端に重しをつけたように、身体の動きが鈍くなった。
振り返り、部屋を見回す。
誰もいない。
そこへ、
――トン、トン。
再び聞こえたその音の出所がわかって、戦慄は極限に達した。
それは壁を叩く音だったのだ。
それも外側からではない。壁の内側から、叩かれているのだ。
俺は何かに突き動かされるように、殆ど無意識のうちに壁に近寄っていた。
もうすぐで手が届きそうなくらいの近さ。
――ドン、ドン。
急に、音が激しくなった。
ひっとしゃくりあげたような声が、思わず口から零れた。びくりと身体が竦んで、文字通り飛び上がりそうになった。全身の毛が逆立つ。心臓が早鐘を打った。
――ギイイイイイイイ。
木の軋むような忌まわしい音を伴いながら、壁が真っ二つに切り裂かれていく。そこから覗いているのは、光など存在しない暗黒の空間。
凝視していると吸い込まれるような、そんな奇妙な感覚に陥った。
口を開け、ただ事が起こっているのを見守ることしかできなかった。足が震えていた。もう、言うことは聞いてくれない。金縛りか、底なし沼にでも嵌ってしまったように、動こうとしないのだ。
ぽっかりと開いた壁の隙間から、白い仮面が現れ出た。口元に薄笑いを浮かべているが、感情など微塵も感じられない、冷たい仮面。
奇人だ。
この島から突如消息を絶った、あの奇人だ。
会ったことなどなくとも、直感的にそうだと分かった。
既に二人を殺したこの奇人は、闇に同化するように黒いスーツに身を纏っている。さながら暗闇の中に、首だけが浮かんでいるようなシュールな映像だ。
そして今、この俺の命を絶つべく、その手袋を嵌めた両手が首元に近づいていた。
逃げないと。
だが、筋肉が脳の命令を無視している。
動け。動け動け。
奇人の両手が俺の首を捕えた。
声も出せなかった。
力は徐々に強くなっていく。気管が圧迫される。
何の抵抗もできないまま、奇人の仮面を見ていると、真っ白のその仮面に、走馬灯が浮かび上がってきた。
俺の身体は、そのまま彼に押し倒され、ベッドの上に大の字に寝転ぶ形になった。
意識は遠のき、壁の隙間の暗黒の世界が、視界を侵食していく。首を絞められている感覚が薄れていった。
*
――ドンドンドン。
騒々しいノックの音で、俺はベッドから飛び起きた。
夢――だったのか?
息が乱れている。疲れが全身から溢れ出ていた。汗で寝間着はすっかり湿っている。そればかりか、シーツもぐっしょりとなっていた。
壁を見てみても、例の裂け目の跡など、どこにもなかった。
悪夢だったのだ。
俺は安堵の溜息を吐いた。心底からの安堵だった。汗が一気に引いていくのがわかる。
――ドンドンドン。
再びノックの音。すっかり神経過敏になっていて過剰に反応したが、それは壁からではなく、しっかり扉のほうから聞こえてきている。
誰かが呼んでいるのだ。
腕時計を着けて時刻を見ると、まだ朝の六時四十分だった。
朝食の時間にはまだ少し早い。
窓を叩く雨音が聞こえてくる。雨は未だに途切れることを知らず、飽きることなく館に降り注いでいるようだ。
またもノックの音。先程よりも少し乱暴になっている。
今度はそれだけでなく、焦っている男の声まで俺の耳へとやってきて鼓膜を震わせた。
「末田さん、起きてください! 大変なんですよ!」
沖の声だった。ドア越しでも声の上擦った調子から、何か大事があったのではないかと、すぐに予想がついた。
俺は服を着替える間もなく、ノックに急かされるようにして、扉を開けた。
「ああ、よかった。なかなか返事がないから、不安になりましたよ」
彼は俺の顔を見ると、胸を撫で下ろした。緊張していた顔の筋肉が僅かに緩んで、微笑が零れたようだった。しかし、俺の顔から血の気が引いていたのがわかったのだろう。咄嗟に心中を悟られない様に、俯いて隠した顔を心配そうに覗き込んできた。
「どうかしたんですか? 顔色が悪いみたいですけど」
「いや、あまり眠れなくって」
まさか奇人に襲われる悪夢を見たなどとは言えまい。恥ずかしさから適当に誤魔化した。
「無理もないですよ。こんな状況ですから。ただ、そんな中で悪いんですが、ちょっと来てほしいんです」
彼は深刻な顔をしている。
「どうかしたんですか? まさか……また?」
何が起こったのか、今までの流れや、あの沖の声を聞けば、大方の察しはつく。
しかし、訊いてみないわけにもいかなかった。もしかしたら、俺の考え過ぎかもしれないのだから。ただ、誰かが鍵を無くして騒いでいるだけかもしれないし、あるいは、誰かが備品を壊して責任を追及されているだけかもしれないのだ。
俺はそんな淡い期待を込めて、彼に尋ねたのだが、やはりそんな期待は無情にも打ち砕かれることとなった。
「また、死体が……。とにかく、早く来てくれませんか」
「わかったよ。着替えてくるから、ちょっと待ってて」
俺は急いで着替えて、沖のもとに駆け付けた。
現場へと案内する彼も、流石に不安の色が露わになっていた。冷房は効いていても、冷や汗が額に浮かんでいる。
当然だ。ここへ来てから、遂に三人目の死が訪れたのだから。
こうなると、御行が恐怖を煽るように言っていた皆殺し説も、真実味を帯びて迫ってきているように感じられる。
俺は先程見た夢を思い出して身震いした。
「ここです」
階下に降りた俺は、沖のあとに続いて廊下を進んだ。彼はある扉の前で歩を止め、その取っ手を掴んだ。
両開きの扉が開かれると、中の様子が明らかとなった。
そこは厨房だった。
一目見ただけでは、初日に迷い込んで見たあの光景のまま、何も代わり映えしないように見える。調理道具は整然と並べられ、調理台やガスコンロ、冷蔵庫は未だ新品同様の輝きを放っていた。床の光沢は眩しいくらいに天井の照明を反射している。
冴沼一人がやり繰りするには、広すぎるとも言えるキッチン。
入り口からの視覚情報だけなら、初日と全く同じ印象だ。
しかし、俺はその臭いを敏感に感じ取っていた。
キッチンなのだから、多少の血の臭いが漂っていようと、何ら不思議はないかもしれない。だが、この綺麗に掃除された、どこにも生肉の存在など見られない厨房には、不似合いな臭いに感じた。
それだけではない。
何だろうか、この青臭い匂いは。それに、ほんのりと甘い匂いも感じる。
「こっちです」
沖が部屋の奥へと進んだ。丁度、部屋の入り口からは死角になっている調理台の影に、それはあった。
「こ、これは……」
大量の花の山だった。
白、黄、ピンク、青。鮮やかに色づいた種々様々な花々が、こんもりと小さな山のように盛られているのだ。南国系の見慣れない花ばかり。この島に群生しているものだろうか。
その花の山を、ぐるりと周りながら観察してみて、ようやく気がついた。
人が埋まっているのだ、と。
山から、沢山の皺を湛えた白い手が、はみ出ていたのだ。
「まさか……」
そのまさかだった。
沖が確認した跡なのだろう。山の形が一部崩れている。そこから、大量の白髪が飛び出ていた。
冴沼の頭部だ。
異様なのは、接着剤のようなものでも使ったのか、顔を覆うように花が張り付いていることだった。最早視認できるのは、見開いた目だけ。
さらに花を掻き分け、山を崩して、沖と二人で死体を引っ張り出した。
顔だけではなかった。
身体全体に花がびっしりと苔の様に付着している。小柄な彼女の老体が、長い年月をかけて、自然へ還ろうとでもしてしまっているかのように。
僅かに露出している服に触れると、べとりとした粘っこさがあった。やはり接着剤か。
そして、彼女に纏わりつく花々から突き出た、黒い物体。
冴沼の左胸の辺りから、それは伸びてきていた。周辺の花弁が黒く変色した血で汚れていることから、それが彼女の命を奪った凶器であることは明白だった。
ここはキッチンなのだ。
凶器たり得る物など、いくらでもある。恐らくはその内の一つの包丁を、犯人は使ったのだろう。
「冴沼さんまで……」
俺は口元を覆った。
こうして三人目の犠牲者を出し、垂れ込める暗雲と再び激しくなりつつある雨音に包まれながら、奇人島は三日目の朝を迎えたのであった。