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「九剣さん……」
呆然として、まるで溜息を出すかのように、僅かに漏れ出た言葉だった。それだけしか言えなかった。
九剣は、浴槽いっぱいに溜まった水の中にいた。
しかし、俺も御行も、彼を助け出そうとはしなかった。異様な雰囲気を漂わせながら水中に没している彼が、素人目に見ても手遅れなのは明らかだったのだ。
一糸纏わぬ彼の身体は、狭いバスタブに挟まってしまっているようで、今にも溢れんばかりに張られた水に、全体が沈んでいる状態になっていた。
顔まで水中に埋もれているというのに、目も口もだらしなく開いたまま。鼻や口からは気泡も出ていない。光を失い、白く濁りかけた虚ろな目が、何かを訴えるようにして俺たちを見返している。自慢の長髪は、水の中でまるで海藻のようにゆらゆらと無念さを代弁するかのように漂っていた。
その手には、なぜか槍と盾が握られている。形状が似ていたので、恐らく三階の鎧のものだろう。ついさっき見た、何も装備していない不格好な鎧の姿が、俺の脳裏に思い浮かんだ。
「末田さん、御行さん、大丈夫ですか?」
心配そうにバスルームの外から見守っていた夜宵が声をかけてくれたおかげで、ようやく我に返ることができた。
浴室に入ろうとしてくる夜宵を、俺は慌てて制した。
「いや、来ないほうがいい。見ないほうがいい」
「一体何が……?」
「九剣さんが、死んでるんです」
「えっ……」
彼女は口元を覆って絶句した。さっと顔から血の気が引いて、ただでさえ白い肌が薄気味悪いほどに色を失った。
「こ、これは、溺死でしょうか?」
御行が恐る恐る尋ねる。唇が震えて上手く発音ができないようで、たどたどしい口調だった。
「いや、この首元を見ればわかるんですが、何か細いひものようなもので首を絞められている跡があります。多分、首を絞められて殺された後、服を脱がされて浴槽に入れられたんだと」
俺は九剣の首を指し示した。青黒い線のように、首に索状痕が残っている。
「じゃあ、これは……」
「冷山さんの時とは違って、紛れもなく殺人ということですね」
俺は水道の蛇口を見た。固く締められた蛇口からは、水は一滴も流れ落ちていない。
「とにかく、早くこの事を他の人にも知らせましょう」
俺たちは九剣の部屋から出て、急ぎ遊戯室に向かった。
遊戯室には、既に捜索を終えた沖と女納尾が戻ってきていた。
沖は俺たちの姿を認めると、ソファから立ち上がって、期待を込めた様子で尋ねた。
「どうでしたか。九剣さん、いましたか?」
「ええ……」
「本当ですか!? それで、どこに」
沖の顔はぱっと明るくなった。部屋にいた他の人たちも安心したように胸を撫で下ろす。
しかし、俺の顔が相変わらず暗いままで、夜宵は自分の震える身体を抱きかかえるようにしたまま黙っているし、御行などは血の気の引いた真っ青な顔で、目が泳いでしまっている。
そんな挙動不審な彼の姿を見て、流石に気づいたのだろう。
沖は緩みかかった口元を、再びきっと固く結び直した。
「もしかして……」
「そうです。その、もしかしてです。死んでいました。部屋の浴槽で」
俺の言葉で遊戯室はざわめいた。
「ああ、そんな……」
「何てことだ。立て続けに二人も死ぬなんて」
「もう、一体どうなってるのよ!」
「落ち着いてください。話を聞きましょう」
沖が場を取り仕切る。彼の言葉で、ようやく遊戯室は静かになり始めた。
「九剣さんは、自分の部屋――53号室の浴槽に沈んでいました。俺たちが見つけたときにはもう……既に亡くなっていました」
喋りながら、俺はあの光景を脳裏に思い描いてしまい、胃液が込み上げてきた。
「溺れ死んでたってことなの? なら、これも自殺なのでは?」
女納尾が尋ねる。
「いえ、首を絞められたような跡がありました。おそらく、死因はそれでしょう」
俺が彼女のほうに向き直って応えると、即座に沖が続いた。
「となると、確実に殺人ですね。犯人は首を絞めて殺した後に、九剣さんを浴槽に沈めたということでしょうね」
俺は頷いた。沖の言っていることは、先程俺が御行に対して言ったことと、殆ど同じだった。
「ええ、そうだと思います。それと、彼の手には槍と盾が握られていました」
「槍と盾?」
ざわめきあうツアー参加者たち。皆一様に眉を顰めて、怪訝そうに首を捻っている。
「しかし、なんでまた犯人はそんなことを?」
武刀は釈然としないようで、腕を組んで考え込んだ。
このパターンは、推理小説ではよく目にする、あれだ。
「俺が思うに……これは、見立て殺人なんだと思います」
「見立て殺人?」
その場にいたほぼ全員が、異口同音にそう口にした。
「はい、冷山さんの部屋には、『イカロスの墜落』の絵が、九剣さんの部屋には、『カッシーナの戦い』の絵がありました。『イカロスの墜落』は、羽根を生やしたイカロスが太陽に近づきすぎて、その翼を失い墜落死する絵。そして、『カッシーナの戦い』は、川で水浴びをしていた兵士に急襲の報せがきて、慌てふためいて武装をしている絵なんです。冷山さんの死体のダウンジャケットから飛び出した羽毛。そして、九剣さんの死体が手にしていた槍と盾。明らかに犯人が狙ってやっているんですよ」
俺がそう言うと、何人かの顔色がみるみる変わっていった。甲塚と武刀と沖、そして御行だった。
「しかしわかりませんね。何故見立てなんかをしたんでしょうか?」
女納尾が怪訝そうな顔をした。
「ミステリーだと、そこに何かが隠されている場合が多いですよね。今回はお風呂場だったから、死体が水に濡れていたのを誤魔化そうとしたとか?」
夜宵が顎を人差し指で支えるような仕草を見せつつ、考えを述べる。
「そうか、わかったぞ」
沖が手を叩いた。
「冴沼さんが見に行ったときには、九剣さんは部屋にはいなかった。という事は、犯人はその後で九剣さんを彼の部屋に運び込んだ。ここで犯人は、廊下を通って死体を移動させたのではなく、ベランダに出て、屋根を通って死体を移動させたんですよ。しかし雨が降っていたので、死体が濡れてしまった。それを隠そうとしたんです」
「死体を移動させるルートを隠す必要があるんですか?」
理解に苦しんでいる様子の夜宵が尋ねる。沖は彼女のほうを向いて答えた。
「廊下を通って移動させるとなると、人目についてしまうリスクがある。こうなってしまうと、言い逃れのしようがないから、犯人にとっては問題だ。部屋が近くにあるのなら、わざわざ屋根を通るなどという事はしないでしょうが、例えば部屋が真反対の位置にあったとしたら、屋根を伝ったほうが、よっぽどそのリスクも低く、一直線に彼の部屋に行けるんですよ。つまり犯人がこのルートを隠そうとしたのは、九剣さんの部屋と近い部屋の人間が、犯人の可能性が高いと思わせようとしたからではないかと思うんです」
「なるほど」
「それなら大体の納得がいきますね」
沖の主張に対して、その場にいた皆が納得したように頷いていた。
しかし、女納尾が険しい顔で食って掛かった。
「ということは、九剣さんの部屋から離れている部屋の人間が、犯人ということですか?」
どうやら彼女はその条件に当てはまっていたようだ。
「いえ、あくまでその可能性が高くなっただけで、断定はできませんが」
どうにも事勿れ主義の沖は、彼女の機嫌を損ねないようにと、お茶を濁した。彼女がすんなりと引いたので、沖はほっと安堵の表情を浮かべる。
話し合いが一段落したところで、俺は訊こうと思っていたことを思い出して、唐突に尋ねてみた。
「ところで、誰かこの館のお風呂を使った方は居ますか?」
「あ、私、昨日の夜に入ったけど」
甲塚が怪訝そうに手を挙げる。
「お湯が溜まるまで、どのくらいの時間がかかりましたか?」
「そうね……、確か三十分くらいかしら。やけに水の出が悪かったから、全開にしたんだけど、かなりかかったわね」
「そうですか」
「それがどうかしたんですか?」
質問の意図を理解できない沖が、不思議そうな顔で訊いた。
しかし俺は敢えてそれには答えずに、話を先に進めた。
「いや、あの浴槽の大きさだと、大体三百リットルは入りますよね。そうですよね、冴沼さん?」
「はい、そうだと思います」
突然予期せず振られても、やはり彼女は平然と答えた。
「という事は、お湯がいっぱいに溜まるまで、三十分かかるとすると、ここの蛇口は全開にしても一分でせいぜい十リットルの水量しか出せないことになる」
「だから、何が言いたいのよ?」
すっかり神経過敏になった甲塚が、耐えきれずに苛々した調子で水を差す。
「九剣さんは、背丈の割にかなり痩せていたようですから、水に浸っていた槍と盾の重量を含めても、五十キロ前後と言ったところでしょう。するとですよ、水が満杯に溜まるには、どんなに頑張っても二十五分はかかるんですよ。そして、俺たちが部屋に入った時、浴槽の蛇口は完全に締まっていました。
冴沼さんが午前七時に九剣さんを呼びに行ったときには、浴槽はどうでしたか? 水が溜まっていましたか?」
「いえ、その時は何も入っておりませんでした」
相変わらず淡々と答える冴沼。
「俺たちが九剣さんを発見したのは、ついさっきだから――」
俺は腕時計を一瞥した。
「午前十一時半は過ぎていました。つまり、それまでの間に――」
「二十五分以上一人になることができた人物が犯人という事ですね?」
俺のセリフを沖が奪った。
しかしそこには、まだ至らない部分があった。俺は沖の後に続いて、そのフォローをした。
「いえ、何も浴槽に水が溜まるまで、犯人がずっとあの部屋に留まっている必要はありません。一旦浴槽に死体と小道具をセットし、蛇口を捻って水を全開にしてから俺たちの所に戻ってくる。そして、時間を空けて、また九剣さんの部屋に行き、蛇口を締めればいいんです。という事は、犯人候補となり得るのは、二十五分以上一人になれた人物、あるいは、二回以上一人になることができた人物です」