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「冷山さん、大丈夫ですか?」
真っ先に彼に駆け寄った沖が、汚れるのも構わず屈み込んで脈をとる。が、彼はしかしゆっくりと首を横に振った。
「ダメです。もう……」
それは、近寄ってみれば明らかだった。
冷山の首はあらぬ方向に折れ、後頭部には大きな打撲の跡があった。さながらメデューサの眼を見て石と化してしまったかのようにピクリとも動かない彼の顔は、この世のものとは思えない恐怖を目撃したように目をかっと見開き、断末魔を叫ぼうとするように口を大きく開けている。
上を見てみるのだが、この暗さと雨粒が邪魔して、どの窓が割れているのか判然としない。
腕時計を見やった。午前八時十分。
「とにかく、一旦戻りましょう」
やっと言えた言葉がそれだった。
「他の皆さんにも、この事を知らせないと」
俺たちは重い足取りで、館内に引き返した。
食堂の扉を開けようとした時、丁度今目が覚めたのだろう、武刀と女納尾が廊下の奥からやってきた。
二人は頭を重そうにもたげながら歩き、しきりに欠伸をしていた。まだ眠り足りないのか、あるいは寝覚めが悪かったのか。瞼が垂れて半目になった顔は、まだ筋肉が弛緩していて、緊張感は皆無であった。
しかし、その寝ぼけた頭でも俺たちの蒼白した顔色に気付いて、何かしら重大な事が起こっているというのは、理解できたようだった。
「何かあったんですか?」
女納尾が呂律の回らない舌で尋ねる。
しかしここで詳しく説明していたら二度手間になってしまう。
「食堂に来てください。そこでお話します」
俺たちは食堂に入り、各々席に着くのを確認すると、全員が集まっているかどうかを今一度ぐるりと見回して確かめた。女納尾と武刀は、冴沼に水をもらっていた。相当喉が渇いていたのか、彼らは水がグラスに注がれるや否や、すぐに全部飲み干してしまった。
「九剣さんはまだ来てないようですね」
「もしかしたら、彼も何か事故に巻き込まれているかもしれません。兎に角みんなに冷山さんのことを知らせてから、九剣さんを探しに行きましょう」
俺と沖は、周りに聞こえないよう、声を低くして話した。
そして、沖が立ち上がり、もっともらしく咳払いをすると、神妙な面持ちで改めて口を開いた。
「皆さん、落ち着いて聞いてください」
一拍置いて、息を深く吸い込んだ彼は、意を決して言った。
「冷山さんが亡くなりました」
どよめきが起こる。死亡を確認した俺や沖、御行以外の殆どはまだ、彼が倒れているとしか聞かされていなかった。まさか死んでいるなどとは、夢にも思わなかったのだろう。
まさしく寝耳に水といった様子の武刀と女納尾は、目を見張って驚きに満ち満ちた顔になった。
「亡くなった? 死んだということですか? 一体どうして? 何があったのか、詳しく説明してください」
テーブルに身を乗り出し、矢継ぎ早に質問を繰り出す武刀。
彼に言うだけ言わせた後、沖は静かに答えた。
「先程、窓ガラスの割れる音がして、僕と甲塚さんが調べに行ったんです。三階の窓が割れているのに気付いて、僕たちがそこから下を覗いてみると、冷山さんが外に倒れていたんです。それで急いで戻ってきて、丁度さっき男ばかり三人で確かめに行ったんですが、もう息はありませんでした」
一つ一つ言葉を選ぶようにして、慎重にかつ簡潔に彼は答えていた。
「ちょっと待ってください。ということは、彼は自殺だったということですか?」
女納尾が怪訝そうに尋ねる。
「いや、そこまでは……」
返事に窮した沖を見兼ねて、俺がその続きを継いだ。
「まだそうとは限りませんよ」
御行も沖も驚いた様子でこちらを見返した。彼らはあの現場を見て、自殺だと思っていたようだ。しかし、俺にはいくつか気になる点があった。
「彼はこの真夏に、ダウンジャケットを身に着けていたんですよ。どうも妙だと思いませんか。それと沖さん、一つ聞きたいんですが、その割れた窓は、嵌め殺しの窓でしたか?」
「いや、普通に開閉できる窓だったよ」
やはりそうか。他の館の窓も、どれも開閉できるものだったから察しがついていたが、これでやっと確信した。
「ということはですよ、わざわざ窓ガラスを突き破って飛び降りる必要なんてないですよね。窓を開けて飛び降りればいいのに、何故そんなことをしたのか、どうも引っかかりますね。それに、昨日の冷山さんは、そんなに思い詰めた様子にも見えませんでしたし、わざわざこんなところで自殺をする必要なんてないと思うんです」
「思い詰めている顔をした人だけが、自殺をするわけじゃないのよ。そういう人は、他人にはその闇を見せたりはしないわ。死ぬ直前に気が触れて、おかしな行動をする人だっていないわけじゃないし」
女納尾は冷静にそう返した。さっきまで冷山の死に驚いていたはずの彼女は、もうすっかり平静を取り戻している。彼女の言葉には不思議な説得力があり、その場の全員をそのまま納得させてしまいそうなほどであった。
「それはそうでしょうけど……」
「そう言えば、昨日チェスをしていた時の冷山さん、何だか暗い顔していたような気がしますけど」
思いついたようにそう言ったのは、夜宵だった。
「言われてみれば、そんな雰囲気でしたね。勝ったというのにあまり顔つきが良くなかった」
沖も彼女に賛同する。
俺は腕を組んで、昨日の夜に冷山が見せた暗い表情を脳裏に思い描いた。
チェスの時のあの顔。それに意味深な過去の話。
もしかしたら、彼はそれを苦にして……?
「しかし、やはり窓ガラスとダウンジャケットは不自然に思うんですが」
「自殺じゃなかったら何だって言うの。事故?」
甲塚は両手で顔を覆いながら、ヒステリックにそう言った。
「いえ、事故とは考えにくいです。俺が考えているのは――」
「他殺。つまりは、この中に冷山さんを殺した犯人がいる、貴方はそう言いたいのかね?」
武刀はストレートにそう言った。その言い草で、なんだか俺が悪いことを言ったような気分になった。
実際、彼がそう言い放った直後、食堂をぴりっとした険悪な雰囲気が流れた。
恐怖に怯えた目。反応を見て、犯人を定めようとする目。動揺して忙しなく動き回る目。
明らかに居心地が悪くなった。
「そういえば、窓ガラスの割れる音がしたとき、武刀さんと女納尾さんは食堂にはいませんでしたね」
沖の指摘に、武刀が睨み返す。
「だから私が犯人だとでも言いたいのかね。それは余りに安直すぎやしないかい。仮にも君は推理クイズを解いてこの島に来たんじゃないのか。だったらトリックの一つや二つ、犯人が仕掛けていても不思議はないだろう?」
しかしそんな状況でも、女納尾はあくまで落ち着き払った調子だった。彼女は空席の一つを横目に見た。
「それに、冷山さんを殺せる人物なら、まだもう一人いるはずではありませんか?」
彼女の声が、どこかしら妖艶に聞こえる。
「そうですね。九剣さんは行方をくらませているようですし、冷山さんを殺してしまって、どこかへ逃げたというのは考えられますね」
夜宵が続いた。彼女の言葉に、武刀が突っ込んだ。
「ちょっと待ってください。九剣さんが行方をくらませたというのは?」
「まだくらませたと決まったわけではありませんよ。しかし、先ほど――朝食の始まる午前七時頃ですが、冴沼さんに皆さんを呼びに行ってもらった時には、冷山さんと九剣さんの部屋はもぬけの殻だったという事です」
「きっと、あの人が殺してどこかに逃げたに違いないわ」
甲塚が未だに興奮を抑えきれずに言う。
「待ってください、まだ彼が犯人と決まったわけでは――」
「皆さん、大事なことを忘れてはいやしませんか?」
俺の言葉を遮って言ったのは、御行だった。
それまであまり喋るような男ではなかったのに、この時は恐怖に苛まれている顔で、まるで何かに取り憑かれたかのように饒舌だった。
「この館が、誰の造ったものなのかを。忽然と姿を消し、以後杳として行方がわからない、奇人と呼ばれる人間の館ですよ。もしかしたら、彼は今もここのどこかに潜んでいて、突然やって来た僕たちを侵略者か何かと思っているんじゃないですか。それで、僕たちを一人ひとり……。最後には皆殺しにするつもりなんだ!」