後日談 ⑤
「世界君は相変わらずツンデレですねー。でも、休日の約束も取り付けましたし、明日が楽しみです」
バイクで朝まで追いかけるぞ。世界の発言を『来たならどっか連れてってやるよ』とかなり都合よく解釈した向日葵は上機嫌だった。
その上機嫌と夜風に身をまかせ、向日葵は三週間前に世界と出会った散歩道をなぞっていた。
あの時以来この道は通らないようにしていので、気が付かなかったが、鬼頭教諭の事故の目撃者を求めている看板や、家出した三毛猫の所在を探すチラシなど、やたら『捜索を願う掲示物』が増えている。
この町は、呪われている。
そんな戯言を事実として認識させるスパイスのようで、向日葵は上機嫌を少し忘れて薄気味の悪い何かが背筋を震わす。
「その噂も、超能力者が関係しているのですかね?」
超能力者が集う場所だから、呪われていると噂されるのか。
呪われている場所だから、超能力者が集ってくるのか。
根拠はなくとも、向日葵はそんな想像をしてみる。世界は当然超能力者だ。嵐に黒天や一もどう考えても超能力者だろうし、あの店にいた全員が超能力者だとしても不思議ではない。世界中に広がる神知教の情報網ですら、見つけた超能力者は七人にしかならない。その超能力者がこんな狭い町に二人も三人もいるのはどう考えても不自然だ。となると、この土地には彼らを惹きつけるような何かがあるのだろうか? それが呪いの正体?
「また、バイクの後ろに乗せて貰えると良いですけどね」
考えた結果は、「どうでもいいや」に到った。答えが出てないのに考察だけ続けても、出てくるのは想像とも妄想ともつかないものばかりになってしまう。一流の研究者の娘だからと言って、考えるのが好きなわけでは当然ない。そんなことよりも、世界との明日の予定の方が重要だった。
鼻歌交じりに猫が跳ねられた場所へと続く角を曲がろうとしたその時、スカートのポケットに入れておいた携帯電話が鳴った。はりきっているわけではないだろうが、誰もいない静かな夜に、着信メロディは普段より少しだけ大きな音を出しているように感じられた。
折角の静かな夜の散歩に水を差された向日葵は、最初こそ無視しようとも考えたが、余りにしつこいその着信音に耐えかね、乱暴にポケットから携帯電話を取り出す。
「って、世界君から!」
ディスプレイには奇跡と読んでも過言ではない人物の名前が表示されていた。電話番号を知って以来、幾度とはなく電話をかけては無視された人物から着信が来ているのだ。ある意味、父親のショッキングな変身よりも衝撃がある。
咳払いをして喉の調子を確かめると、向日葵は恐る恐る通話ボタンを押した。
「どうした『何で家に大人しく帰ってないんだよ!』んですか?」
聴こえてきたのは、聴いたこともないような世界の怒号。
『いま何処だ? 言え!』
普段の飄々とした印象が微塵もない、切羽詰った物言いに、向日葵は緊急事態だと悟る。
「猫が轢かれていた場所です!」
目立つ建物も何もない小さな路地で、普通なら表現に迷う場所だったが、二人の間にある忘れようのない場所を叫ぶ。
『馬鹿かお前は! 何でよりによってそこなんだよ! すぐ行くから電話を切らずにその場から離れろ!』
「は、はい」
世界に馬鹿呼ばわりされたことに困惑しつつ、向日葵は家に戻ることにした。先程の発言を聞くに、どうやら一度自宅まで行ってから電話をかけてきたようなので、一直線に家に帰れば、その途中で出くわすだろう。そう思い来た道を戻るその足は、自然と駆け足になっていた。漠然とした危機感だけが、向日葵の頭にあった。
「ミツケタ」
五十メートルも行かない内に、向日葵は漠然とした危機感と言う認識を改めた。
危機感は、人の形をしていた。
目の前にいたのは、世界と同じくらいの大きさの影だった。
人間の影がそのまま立体になったような手抜きデザインの身体に、学生服。
頭髪も鼻も口も耳もない丸い頭部には、無理矢理押し込んだ紅く丸い瞳。
そして、右手には……右手そのものが野生動物の牙を模した、巨大な刃と化している。
口がないのに一体どうやって声を出しているのかわからないが、その影が出す音は、ボイスレコーダーを使ったように甲高く、底を見せない恐ろしさがあった。
人間じゃあない? 刃物? 紅い瞳。どこかで会ったことがある?
一瞬で頭の中に様々な疑問が飛び交う。現実ではない恐怖だけは、ハッキリと確認できる。
「コロス」
聞き取りづらい声の意味を向日葵が理解すると同時、それは右手を高々と上げ、
(殺される!)
振り下ろした。
間違いなく、絶命に到る一撃が向日葵の旋毛目掛けて落下する。
「~~っ!」
昨日の経験が生きたのか、それとも生存本能の警告に身を任せた結果か、向日葵はその一撃をかわす。と、言っても後ろに倒れるだけの、後に続かない一度だけの回避行動。横に転がっての回避は道幅の関係で数度もできないし、転がる方向を読まれたら終わり。
一回の攻防でチェックメイト。
「オマエヲコロス」
再び、影が疑いようのない本音を漏らす。今度は討ち漏らさないように、爪の刃を向日葵の首筋にいったん当て、狙うべき場所をしっかりと確認する。その刃の冷たさが、死の温度だと言われたら、向日葵は一も二もなく信じただろう。
その冷酷な温度を纏った刃が、ゆっくりと持ち上がっていく。同時、向日葵の襟元を足の裏で押さえつけ、退路を塞ぐ。
あっけなさ過ぎる人生の終焉に、向日葵の心は意外なほど静かだった。
何故なら、
「奇遇だな、俺もお前を殺そうと思うんだ」
こういう存在を葬る存在を知っているのだ。
新里世界の声と共に、向日葵の目の前で紅い瞳が飛び散った。
何を投げつけたのか、影の身体は大きく後ろに仰け反り、バランスを崩す。
「ぎりぎりセーフだな」
いつの間にか影の横に立っていた世界が、ニヤリと笑う。
「持ってて良かった、携帯電話」
たった今、紅く光る的にぶつけたばかりの携帯に対する感想を呟きながら、今度は自分自身を影にぶち込む。風を切る鋭い蹴激が人間で言う鳩尾に収まり、急所云々の意味をなさないその威力が影の身体を後方に吹き飛ばす。
「世界君! 来てくれるって信じていました……いや、知っていましたよ!」
アメリカンヒーローさながらのタイミングで現れた世界に、寝転がったままの姿勢で向日葵は目を輝かせる。
「いいから立て」
対する世界は、真剣な表情で地面に倒れこむ影を睨み、余裕がない。
「終わったんじゃあないのですか?」
世界の蹴りの威力を知っている向日葵は、慎重に立ち上がりながら、同じ方行を見つめる。
「俺の携帯の寿命は終わったみたいだがな」
足元の粉々になった携帯電話の残骸を蹴飛ばす世界。どんな力をかければこんな風に砕けるのか、向日葵には検討もつかない。
「多分、まだ生きている。いや、一度死んでいるんだから生きているって表現は適当じゃあないな。兎に角、逃げるぞ」
世界は向日葵の手を掴むと、影に背を向けて走り出す。影の背中に家があるため、家に帰ることはできないし、逃げ込めるような家屋も近くにはない。そもそも、室内に入った程度で撒けるとも思いがたい。
「っていうか、どうやって世界君は私のとこまで来たのですか?」
いくらなんでも駆けつけるまでが早すぎるし、最短距離で来たのなら、あの影の背後から現れるはずだ。
「文字通り一直線に来たんだよ」
向日葵の足の遅さに苛立ちながら答える世界の身体をよく見ると、葉っぱや枝が数本付着しており、来る道をまったく選ばなかったことが窺えた。
そして、今現在も相当世界は急いでいる。殆ど焦っていると表現しても過言ではない。向日葵を引きずるように、世界は細い路地を疾走していた。
「た、戦わないのですか?」
謎も氷解し、息を吸う合間に何とかそれだけを吐き出す。好戦的な世界からは考えられない全力逃走に向日葵は首をかしげ、世界は首を縦に動かして返事とする。
俺じゃあ、まだ勝てない。世界はその事実に唇を噛み締める。
敵に実力では遙かに勝ってはいる。
しかしあの影は明確に向日葵を狙っている。前回の白蛇が世界を怨恨で襲ったように、今回は影が復讐に燃えて向日葵を殺そうとしているのだ。
それが世界にとってこれ以上ない、プレッシャーで、足枷だった。
殺意が自分に向けられるなら平気だった。例え毒の沼だろうと、槍の雨だろうと、紅蓮地獄だろうと、自分だけならなんの問題もない。《地獄期間》の名の通り、世界がいるのは地獄なのだ。一人きりで丁度いい。一人きりなら心地よい。
故に、彼は誰かを守るという行為が壊滅的に苦手だった。肉体的な苦痛など感じたこともない彼が、他人を痛みから守ると言う前提自体が間違っているとすら言えた。
守りながら戦って、勝つ。そんな騎士のような勝ち筋を世界は組み立てられず、倒れた相手に追撃もできず、背を向けて少しでも遠くへの逃走以外、取るべき行動がわからなかった。
「失禁してないだろうな」
世界が押し黙っていた世界が口を開くと、そんな事を真剣な表情で訊ねた。
「するか!」
肺に溜まっていた空気を爆発させるように吐き出す。
「って、うわあ」
「お前と走っていたんじゃあ追いつかれる」
走りながら強引に向日葵の身体を抱き寄せると、世界はその身体を持ち上げて肩に乗せる。神輿の如く担がれた向日葵の顔は世界とは反対を向き、後方に紅く輝く影の瞳を発見した。
「追いつかれそうになったら叫べ」
短く指示を出すと、世界の速度がグングンと伸びる。蹴りに使う筋肉と、走る筋肉は別だと言うが、世界の足は向日葵を乗せてなお早かった。
「アレ。何ですか?」
会話する余裕を肺に見出した向日葵は、どんどん小さくなっていく紅い輝きを見つめながら自分を殺そうとした脅威について訊ねる。
「猫だ」
世界の答えは簡潔だった。が、向日葵には十分だった。
「猫って、始めて会った時の?」
二人に共通する猫と言えば、あの日の黒猫以外はない。だが、それ以上の答えが向日葵には出せずにいると、
「化けやがった」
世界がやはり短く補足する。
「はあ?」
「多分、犯人はお前の親父さんと一緒だ。誰かが、何かの理由でお前を狙っている」
「昨日と丸で逆じゃあないですか」
昨日、世界は『向日葵を守るために父親の魂を使った』と言っていたが、その予測は違った。
『父親の魂を使った結果、父親が向日葵を守った』だけなのだ。
「でもそうすると……」
「あの猫はお前に対する怨みで動いているな」
向日葵の言わんとすることに、世界は静かに答える。
「怨み……」
「あの猫がお前の腕の中で抱いた感情だ」
恨みではなく、怨み。いまわの際に芽生えたのは、憎悪。
「そんな、私は別に……」
「優しさなんて、結局自己満足だ」
向日葵に抱かれ、揺れる身体は痛みしか感じなかっただろう。
そして思った。
自分がここまで酷い目に遭っているのは、自分を抱えるこの人間が原因に違いない。
ああ。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
と。
「その感情を元に造り出された影が、お前を襲うのは必然だ」
「もしかして、このあたりで起きた鬼頭先生の交通事故って」
顔面を蒼白にする向日葵に、世界は「その通り」とだけ漏らす。
造りが悪いのか、失敗作なのか、動くのにも制約があるのか、はたまた全く別の理由からか、あの影は大した判別も持たず、通りかかった女子生徒や車を無条件に襲うと言う、性質の悪さまで備えているらしい。ただ、自分が死んだ日から一週間おきにしか行動できず、その範囲も狭いというのは僥倖だった。こんな激しい感情で時間を問わず暴れられたら何人の被害者がでたか。
「そんな。私は……って、あいつが走ってきました!」
自分の取った行動が、二人――もしかしたら知らないだけで多くの人間を傷つけていた事実に胸を締め付けられたのを忘れるほどのスピードで影が走ってきた。何度も小道を折れたりして撒こうと努力していたに関わらず、影は先程よりも近い位置で紅い目を爛々とさせている。
「あの走り方は液体金属ですよ! 滅茶苦茶早いです」
「お前は結構大物だなおい!」
下らないことを言う向日葵の薄い尻を掌で叩く。案外、走らせたら付いてきたかも知れない。
「痛っ! 世界君何するのですか! 変態! ってここは」
「二日連続無縁仏だ」
変態の言葉に心を抉られつつも、世界は早口に墓場までの階段を上るよう促す。走って追跡してくるのを見るに、消えたり現れたりはできないと踏んだのだ。この階段で向日葵と自分を隔てれば、向日葵を守りながら戦う理由が消える。向日葵単体を守るよりは、この階段を死守する方が百倍やりやすい。
「気をつけて下さいね」
あと十数秒で世界と激突するであろう陰を見据え、向日葵は祈るように呟く。
「後は任せとけ。優しくないこの俺が、あいつにお前の気持ちを伝えてやろう」
余裕たっぷりに世界が笑う。
「ほれ、走れ。こっから先はこの《地獄期間》に任せとけ」
一度死んだ存在を睨みつける《地獄期間》。滞在中に他者は必要ない。自分と敵しかいない戦場こそが《地獄期間》の独壇場。両手両足を大きく振る、独特な走法の影を一瞬も与えずにバラバラにすることを決めたその時、
「ああ?」
追いかけてくる影の手がなくなっている事に気がついた。
あの、大きいな刃の右手が、あるべき場所にないのだ。
携帯をぶつけた紅い瞳は既に修復されており、蹴飛ばしたのは腹部。右腕がなくなる理由は一つもない。
「何でだ?」
そう呟いた瞬間、
世界の右腕が千切れ跳んだ。
「なるほど」
鮮血が舞う中、世界が呟く。右腕が胴体と離れたとは思えない冷静さが。この攻撃の犯人を捕らえていた。
視界に映るは、真っ黒な子猫。ただし、尻尾には影に付いていたはずの刃が、アンバランスにくっ付いているの。
「確かに、親子だったな」
埋めたのは、猫の親子だった。ならば、魂は二つ!
二匹で一匹の凶刃。それが影の正体だった。
世界は標的をそう確認し、認識を改める。本体が到達するまであと五秒もないが、この刃物の部分だけでも倒さなければ、二対一の右腕なしのハンデマッチが発生してしまう。
「おらぁ!」「しゃあああ!」
先程切り跳ばされた右腕がくるくると回り、地面に落ちる。一瞬の時間を終わらせたその音を引き金に、世界が吼え足を延ばし、猫が刃を世界に向ける。
凶刃の長さと世界の足の長さは互角。本来ならどうにかして距離を詰めたい世界だが、右腕の欠損と、いつ階段を上る向日葵を狙うかわからない現状では、悠長なことはしてられない。
賭けではあったが、最善の一手。
「っち!」
そして、世界は賭けに破れた。
薄く延びた刃が世界の学生服と胴体を貫通して背中から飛び出し、口からは血の塊が毀れる。
「なるほど、猫の爪は出し入れ可能なんだったけか?」
「世界君!」
叫び声に振り返った向日葵が、この世の終わりを叫ぶように串刺しになった青年の名を呼ぶ。
「早く上れ!」
血を撒き散らしながら、《地獄期間》は自らを貫く刃の切っ先をしっかりと握り締める。幸い刃の切れ味はそこまで大したことがなく、指が切れ落ちるようなことはない。それだけを確認すると、世界は自らの背骨にあたるまで猫の刃を無理矢理動かし、
「うおりゃあああ!」
背骨を支点にテコの原理で刃を砕く。
「ギニャア!」「グフっ」
刃が真っ二つになると同時、二対の化け物がその場で動きを止める。どうやら、黒猫のダメージは影にもある程度の影響があるらしい。
世界はその様子を一応知識として頭の隅におきながら、目の前の猫に蹴りを繰り出す。いつもの切れのない、取り敢えず距離を取る為だけに放ったそれは、猫に当たると世界の身体をゆっくりと押し倒した。
「くそっ」
予定では、猫の身体を粉砕するはずが、大したダメージも与えられなかったことに毒づく。それに、真後ろに倒れるのは予想外。さすがの《地獄期間》も腹に穴が空き、右腕を失った状態では巧くバランスが取れないらしい。
が、猫の方も小さな身体が宙に舞い、二回、三回と地面にぶつかることでようやくその動きが止まった所だった。これで、猫と影がこちらに来るまでに数秒は時間が稼げる。
その間に向日葵を逃がせば、後はどうとでも戦える。腕が千切れて胴体に風穴が開いたくらいでは、敗北するにはまだ遠い。上半身が消し飛んでも、世界は十秒もかからず身体を再生させて戦い続けることができる。身体さえ治れば、折れた刃を振るう猫に負ける道理はない。
などと悠長な考えは、目の前で吹き飛んだ。影がよろよろと歩き、吹き飛んだ猫に近付く。すると、猫は一瞬で影に取り込まれ、右腕に再び刃が鈍く光る。折れた部分も綺麗にくっついて、世界止めを刺そうとこちらに近付いてくる。『再生』と言う点でお株を奪われるとは思いもしなかった世界の顔は軽く引きつる。
だが、それでも向日葵が階段を上りきる時間稼ぎはできるだろう。防御に重点を置き、身体の再生を待ってから攻めれば、勝つことは可能だろう。
「世界君!」
そんな予想も、見事に裏切られた。
向日葵は落ちているとしか思えないスピードで階段を下り、たった今涙を流しながら世界の隣に座り込んでいた。
世界はそんな向日葵を見て、阿呆みたいに空けた口が塞がらなくなる。
わけがわからない。
その一言が頭の中を埋め尽くす。敵がどれだけ奇妙奇天烈摩訶不思議な攻撃をしてきても、世界は思考を止めない自信が有った。事実として、あの影の予想外の攻撃を喰らおうが、ある程度冷静に次の行動を決められた。死なないと言う絶対の安心感と、常に自分より強い人間と戦ってきた経験からそれは可能だった。
が、目の前の少女はどうだ。人が逃げろと言っているのに、わざわざ死地に足を踏み入れ、何か策があるわけでもなく、ただ泣きじゃくっている。
「馬鹿が! 早く逃げろ!」
肺に傷はないようで、世界は小さな声に怒気を滲ませる。
「でも、世界君が……」
大粒の涙を流しながら、向日葵はこの期に及んで世界の安否を気遣っていた。
「いいか、教えてやる。俺の傷は治る。俺は死なない。そして、俺は負けない」
くしゃくしゃになった向日葵の顔を見上げながら、世界は力強く断言する。
無様な姿で何を言うか。自分で自分がおかしくて仕方がないが、不思議と心の底から力が沸いて来る。
こいつの為にも負けられない。
下手な漫画ではないが、『誰かを守る』このモチベーションなら戦える。
「だから、お前は逃げ「嫌です」ろ」
「はあ?」
世界の決意を、向日葵は泣きながら否定する。
「何を言っているのですか。世界君が戦えるわけがないじゃないですか」
向日葵はそう言い切って、後三メートルの距離に迫った影を見る。攻撃的な鋭さのない、涙を流すその瞳で。
「お父さんの時もそうでした。本当なら戦うのは私の筈です。決着は、私がつけるべきです」
「はあ?」
「私を中心とした事件で、私が逃げ惑うなんて末代までの恥です」
武士の鏡。そんな言葉が似合う発言をして、向日葵は一歩前に出る。
これで、距離は後二メートル。
「おい? 何を言っているんだ? お前がするべきことは逃走だ。逃げるんだよ」
現状にやっとのことで噛み付いた世界が、諭すように言うと、
「逃走でも闘争でもないですよ。私が、立ち向かう必要があるんですよ」
「ねーよ! あるわけがない! お前はガキだ。人間だ。《人生不敗》でもなけりゃ《地獄期間》ですらないんだよ!」
口と腹から血を噴出しながら世界は叫ぶ。
なんだこの展開は? なんだこいつは?
世界の疑問に答えるように、向日葵は微笑んだ。
「私は、世界君みたいになりたいのですよ」
初めてあったあの日から、日向向日葵にとって、新里世界は目標だった。
一人絶望に浸っていた自分に声をかけ、自分が考えなかったことを実行する。
その優しさに憧れていたのだ。
他人の為に傷つくことを恐れない、その精神が羨ましかった。
「だからって今じゃなくても問題ねーだろうが!」
世界が渾身のツッコミを入れると同時、向日葵と影が一歩前にでる。
残り一メートル。
影の攻撃は、外しようのない距離に入っていた。
「コロス」
「殺されるぞ! 逃げろ!」
なんて陳腐な台詞だ。世界はこんなことしか叫べない自分の身体を八つ裂きにしたくなる。
「そうですね。多分、私は殺されちゃいます」
泣きながら、震えながら、向日葵は更に一歩前に出る。
影は刃を掲げ、声にならない叫びを上げる。
「だから」
「私がもし、生きていたら付き合ってくれますか」
「うおおおおおおおおおおおお!」
その台詞に、世界の何かが弾けた。
「死亡フラグぶっ立てているんじゃあねぇぇぇ!」
同時、先程千切れた右腕が血痕ごとアスファルトの上から消え、あるべき位置に現れる。
腕が戻ったと言うことは、腹部が治るまで後数秒もない。
が、その異常とも言える再生スピードでは足りない。
足りないのなら、向日葵は死んでしまう。
何故?
答えはシンプル。新里世界が守れなかったから。
「ふざけんなああああああああ!」
口からは折角戻ってきた血が塊でごぼごぼと溢れ、腹部からは腸が飛び出す。後二秒待っていれば治った傷口は更に形を変え、結果、身体に風穴が開いているため立つのが限界、おまけに全快までの時間が更に先送りになる。
普段だったらこんな無謀は絶対にしない。こんな無様は晒さない。
どれもこれも、この目の前で何のつもりか、両手を広げる日向向日葵のせいだ。
世界は決めた。こいつを無理矢理でも生かして、説教をしてやる。足が痺れようがトイレに行きたくなろうが、許さない。一日かけてたった今の行動がどれほど馬鹿馬鹿しいことかを教えてやらなければ気がすまなかった。
「死ぬなんて言うんじゃねーよ!」
世界はよろよろと向日葵と影を止めるべく動き出す。
そして、刃が振り下ろされる。
だが、向日葵に刃は当たらない。襟首を掴んでそのまま引っ張る。それだけのことをすれば、向日葵は助かるのだ。難しいことは何もない。腕を伸ばすだけで十分。後は自分の体重で向日葵を引っ張ればいい。
出来る最速で世界は腕を伸ばし、向日葵は腕を広げたまま更に一歩前に出る。
「え?」
当然、向日葵のうなじに向けて伸ばした手は、空振りに終わる。どこまでも、人の計算を狂わす女に、世界はもう目を丸くするしかない。
しかしこれで、向日葵と影の距離はゼロ。振り上げた刃は当たらない。
当たらないが、それでかわせるのは一撃のみ。次の瞬間にはすぐさま斬激が向日葵を襲うだろうし、いまだ使っていない左手にも何らかの異能が宿っていても不思議はない。安全には程遠い、むしろ危険極まりない回避ルート。
その危険地帯で少女は、
「ごめんなさい」
影に抱きついた。
「私が悪かったです。あなたのことを考えず、自己満足な感情だけで動いてしまいました」
抱きついたままの姿勢で向日葵はその場に崩れ落ちる。わんわんと泣きながら。
馬鹿が! 世界は出なくなってしまった声で叫ぶ。
そんな言葉は無意味だ。言葉では何も解決しない。無力だ。
超能力と言う異端に、人間の情なんて蚊ほども通っていない。
憎しみで動く人間に、情けなんていくらも通用しない。
きっと、向日葵はあと一刹那に満たない時間で殺される。
自分の死に携わった向日葵の死に携わるのが、影の目的。存在理由。
「ちくしょおおお!」
向日葵の元に気だけが先走り、穴の空いた肉体がその場で前のめりに倒れる。
そして、
「にゃおーん」
可愛らしい子猫の鳴き声が聴こえた。酷く落ち着いた、和みの象徴のそれは世界の心中を馬鹿にしているみたいに思えた。
「は?」
実際、虚仮にされたのと変わりはない光景に、世界は地面との近付く距離を感じ取りながら、間抜けな声をあげる。
いないのだ。
あの影が、何処にも存在していない。
代わりに二匹の大きさの違う猫が、影のいた場所で行儀良く座っている。
向日葵が抱きついたままの姿勢で、それを不思議そうに見下す。
「世界君? これは何ですかね?」
そんなことは世界が訊きたかった。
ただ、可愛らしい二匹の猫は向日葵に答えるように再び鳴き声をあげ、空気に溶けていく。
その存在が完全になくなるまでの数秒を二人で見つめ続け、
「私も、世界君みたいにできました」
嬉しそうな表情のまま、向日葵は意識を手放した。
顔をアスファルトにぶつける前に、世界が向日葵の襟首を今度こそ掴む。今更完全に再生した割れる腹筋が今日一度でも活躍しただろうか? この腕は彼女を持つ以外に何か役にたっただろうか? 猫の魂を利用した存在に気づいたのがピークだったのじゃあないだろうか? 後先考えず飛び出して、空回りして向日葵を理不尽に怒鳴りつけた。ぎりぎり間に合ったが、立ち回りがわからずに逃走。なんとか一対一に持ち込めば、腕を切られ串刺しに。
挙句、
「守ろうと決めた女の子に助けられた」
気絶した向日葵をゆっくり抱き上げ、その頭を二度撫でる。
「俺様かっこわりー」
《地獄期間》が《人生不敗》になるまで、まだまだ道は長そうだった。




