真実の蛇 ①
「よお。どうだい? 気分は」
「世界君?」
教室に入るや否や、軽快な声をかけてきた世界に、向日葵は違和感を覚える。
お互いの無罪が証明されるまで一切会話をしないと約束をしたのは昨日だ。電話も無視されたし、メールも未だに一件も返信がない。
だと言うのに、世界は机の上に腰掛けて、平然と悪びれる様子もない。犯人が捕まったとは思い難いし、噂が消えていないのは確認するまでもない。
「なんだ? あんまり気分上々ってわけでもなさそうだな」
言い澱む向日葵に世界は、にっと唇を吊り上げ笑ってみせる。
その笑顔も妙だった。いつも気だるそうな、出会ってから毎日のように「身体が重い」と言っていた世界が、笑い顔を安売りするものだろうか?
「ああ、もしかして昨日の約束で黙っているのか?」
不自然な饒舌さの世界は腰を上げて、教室の入り口で立ち尽くす向日葵の正面までやってくる。教室にいる同級生数人がその様子に注目する。
「アレならもう止めだ。欲しい結果に遠回りしすぎて、俺の性分じゃあない事に気が付いた」
何が言いたいのか、向日葵には理解できない。遠回りが彼の性分でないのは疑いようがないが、彼の求める結果と言うモノが何なのかわからない。
「世界君は何を言っているのですか?」
「例えば、親七功兵」
やはり、言いたいことがわからない。丁度一週間前、出会った先輩の名を口にする。
「他には鬼頭教諭、堀田雪根。それに馬台冬馬」
「何を言っているのですか?」
初めて、向日葵は世界を怖いと思った。薄っぺらな笑顔で向日葵を見下しながら、世界は淡々と喋り続ける。
「馬台冬馬ってのは、高校球児だ。昨日、お前の鼻に白球をぶつけた」
向日葵の疑問とは全く関係のない場所に補足が入る。昨日痛めた鼻を右手で押える。
「あいつの右手首、粉砕骨折だそうだ」
「…………!」
また『骨折』だ。しかも、やはり向日葵に関わった人間が。最早、偶然で済ますには出来過ぎている。話の流れから、犯人が捕まったと言う風でもない。ますます、世界の言葉が何処に向かうのかが、わからなくなってきた。
怖い。本当にこれは世界なのだろうか? 向日葵は目の前の現実を否定したくて堪らなかった。涼か忍、この際なら雪根でもいい。誰か一人でも傍にいれば、この状況も冗談に出来るのに。祈るが、珍しく涼はまだ学校に来ていないのを下駄箱で確認したし、忍が来るのはもう二十分以上の時間が必要だろう。雪根は別のクラスなので知らないが、わざわざ朝から他の教室に出向いて友達の顔を見に来るキャラじゃあないのは間違いない。
押し黙る向日葵に、世界が再び口を開く。その役割はいつもと逆で、話の内容は剣呑そのもの。
「気にするなよ。お前のせいじゃあない」
「それは、そうですけど……」
それは間違いなく疑いようのない事実だ。向日葵がやった覚えもないし、誰かに頼んだ事実もない。
それでも、向日葵の胸中は穏やかではではない。誰かが誰かを傷つけた。それだけで十分に悲しい気持ちになれるのに、そこに自分が関わっているかもしれない。博愛主義を語る気はないが、関係ないなんてとてもではないが言い切れない。
「いや、無関係だよ。お前は」
最後の「お前は」にアクセント置いて、世界は言う。まるで、世界は関係が有るかのように。
「俺が、勝手にやっているだけだからな。お前は全然関係ない」
「……………………はい?」
「ったく、あの一年坊主も酷い真似をしてくれるよ。まあ、反省の材料としては、手首なら十全だろう。一年かからずに直るだろうし。若いって良い事だな」
今までの言葉とは真逆に、世界の言葉はしっかりと向日葵の頭に染み渡る。世界が勝手にやった。一年生の手首を砕いた。意味のわからない文章でもないし、矛盾もない。中学生が英文を訳したものと同じくらい無駄のない文章。
教室の少ない生徒達も、その言葉の意味をはっきりと理解した。その反応は二種類で、世界からなるべく離れようとする者と、詳しい話を聞こうとその場に残って聞き耳を立てるもの。
「何を、言っているのですか?」
自分の声が震えている事に気が付くが、それを隠す気も起きない。この震えは間違いなく、世界の言葉を理解してこそだが、向日葵は認めたくなかった。
「事実さ」
平然と、世界は迷う事なく答える。
「事実って……何が」
「お前な、もう一度言わすか? 俺が親七功兵の足を折り、鬼頭先生の胸を砕き、堀田雪根の腕を曲げ……」
「嘘を言わないでください!」
小さな身体から発せられたとは思えない声量が、教室を静寂に追い込む。向日葵は、怒っていた。冗談にしても悪質すぎる。ちっとも笑えないし、微塵も楽しくない。
「俺は嘘を言わないぜ?」
至極まともな声音で世界が断言する。その表情は、確かに冗談や虚偽を面白半分に言っているとは思えない。緋色の双眸は向日葵の瞳を覗き込み、威圧するように鋭い視線に向日葵は思わず目線を逸らす。
視線を戻せないまま、向日葵は必死に世界の言葉が嘘だと証明できる証拠を頭の中で探す。
「でも、でも、世界君は優しいじゃあないですか」
縋ったのは、自分が今まで見て来た新里世界。
道端で泣く少女を無視できず、死んだ猫を躊躇いなく埋葬し、鬱陶しいくらい付きまとっても嫌な顔をしながら話をしてくれ、不良に絡まれた時は助けてくれた。
短い期間だが、世界が無闇矢鱈に危害を加える人物ではないと信じている。理不尽な暴力を誰かに振るう事を許さない性格だと断言できる。
教室の聞き耳を立てている連中は首を揃えて横に振り、向日葵の発言を否定するが、そんな事は関係ない。
向日葵にとって、世界は優しく、頼りになる人間なのだ。
「その通りだ。俺は誰よりも優しいさ。だからこそ、奴らの骨をちょっとばかし折ってやったんだよ」
そして、世界はそれを肯定した。
肯定した上で、自分が犯した罪を堂々と認めた。
「なんでこうもお前に危害を加える奴が多いかな? 三人もやれば普通細心の注意を払わないかね? それに、不躾な視線を送る連中もいるし」
ぐるり。教室中をゆっくり見回し、何人かと目線を合わせる。その度に、教室に小さな悲鳴が響き、机とにらめっこをする同級生が出来上がる。
「どうする? 何ならもう二人位ぼっきりといっとくか?」
「いい加減にしてください! 一体、なんの為にそんな事をするのですか!」
本気でそう言い切る世界の制服の裾を掴み、力の限りに自分の方に引っ張る。体格差から、無駄だと思われたその行為は、予想とは裏腹に確かに成果を上げていた。
引っ張られるままに世界は身体の向きを変え、再び向日葵の小さな顔と世界の病人色の顔に付いた目が合う。
「なんの為か、決まっているだろう?」
大袈裟よりは芝居染みた動きで、向日葵の両肩に手を載せ、あと一歩で鼻先が触れ合う距離まで顔を寄せる。
世界は緋眼で向日葵を見つめて囁く、
「愛しいおま……」
ぱん。と乾いた音が、その台詞を遮る。音量からではなく、世界の口を止める事によって。
向日葵の右手が世界の左頬を叩いた。その平手打ちは加減も容赦もなく、世界の青白い肌はそこだけ赤く染まり、口内を傷つけたのか、真っ赤な血が唇の端に滲んでいる。
世界の言葉は、初めて他人に暴力を振るうのを躊躇させない程、聞きたくなかった。
「あれ? 振られちまったか?」
その血を、舌で舐め取っておどける世界。反省の色は微塵も見えず、何故叩かれたかすら、理解してない風だ。
「最低です!」
その様子に、向日葵は目に涙を溜めて叫ぶ。泣いてしまったら、負けだと、意味のない虚勢を張りたかった。
まさか、自分がここまで馬鹿だったとは思わなかった。こんな奴に三週間近く付きまとっていながら、その本質を見抜けなかったなんて。情けなさよりも、自らの愚かさが、悔しさが先に立つ。だから、新里世界と言う人間の為に自分が泣くなんて、決して許されない。
「くっくっく」そんな向日葵の表情を見下し、世界は楽しそうに顔を歪めて笑顔を作る。「最低ってのは、褒め言葉さ。愛の反対は無関心。確か偉い聖人の言葉だったな」
恐らく、その聖人もそんな意味合いで使ったのではないだろう金言に、向日葵はそっぽを向く。世界を言い包める事は絶対に不可能だろうと悟ったのだ。世界は、誰の話も聴いていないのだ。猫の時だって、勝手に向日葵を頭数に入れていた。功兵の時はただ単に暴れたかっただけだろう。昨日だって、朝早くから押しかけてきた。
いつだって、世界は向日葵の気持ちなんて考えていないのだ。
「無視か。可愛いな。そう言う所もす……」
「出てけ馬鹿野郎!」
それ以上先を言わせて堪るかと、声を荒げる。教室の出入り口を指して、向日葵は遂に涙を流す。負けてもいい、一秒でも早く世界とは違う空間にいたかった。
「はいよ、お嬢様」
手を上下にひらひらと振って、世界は鞄も持たずにそのまま教室を出て行く。
朝の時間にも開いているかどうかは知らないが、昨日忘れた鞄を取りに世界はゆっくりと図書室に向かった。




