猫の死体 ②
五分後。
猫は何もしない内に息絶えた。最後にお礼を言う事もなければ、派手に血を吐く事もなく、何一つドラマもなく、ただただ当たり前に、眠りに付くように死んでいった。
胸に抱えたその猫だった肉の塊を見下ろすと、無力さが足元から向日葵を包み、電源が切れたように膝が折れる。
「何をやっているのでしょうか」
ポツリと、自嘲する声が漏れる。
「助けられるわけ、ないじゃあないですか」
当たり前の事を再確認する。自分は無力だ。
血を見て、死んでいく命を見て、一時的に興奮状態になった勢いに任せて、短絡的に『救える』なんて思った自分が恥ずかしくて仕方がなかった。
「ごめんなさい。もう、私はあなたが汚い物にしか見えません」
猫をアスファルトに降ろして、目を瞑ると手を合わせる。
目を開いたら、猫の死体が目の前から消えていれば良いな。そんな事すら考えて、猫の冥福を祈る。
と。
「その猫、死んでいるのか?」
突然の若い男の声が耳朶を打った。
「うひゃあ!」
あまりの唐突さに、向日葵は奇声を上げて飛び跳ねる。その動きに、声の主は僅かに後ずさる。いつの間にか、本当に気が付かない間に、その男は向日葵の正面に立っていた。
見た目は二十歳前と言った所の、何処にもいなさそうな青年だった。
例えば、闇に浮かぶ白髪。
例えば、生気のない青白い肌。
例えば、宝石を埋め込んだような不自然な緋色の瞳。
幽鬼を思わせる不吉な青年だった。
それだけでも十分に常軌を逸していたが、何故かボタンの代わりにベルトが付けてある黒い詰襟の学生服を身に着け、四輪のバイクのような奇妙な乗り物を引いている姿が、奇妙さに拍車をかけている。
人生で一番個性的な人間に出会い、向日葵の脳が一時停止する。
「死んでいるのか? って訊いているんだが」
呆けた顔の向日葵に、青年は先程と同じ質問を繰り返す。
「は、はい。さっき、死んで、しまいました」
青年の不機嫌そうな蒼白顔に怯み、自慢のツインテールごと顎を上下に激しく動かして肯定する。物腰というか雰囲気と言うべきか、青年はそうしているだけで何か圧倒するものがあった。
青年はバイクを道の端に停めると、しゃがみ込み猫の首筋に指を当てる。「まだ温かいな」何箇所か指を当てる場所を変えて、確実に死んでいる事を確認すると、
「殺したのか?」
しゃがみ込んだまま、向日葵を赤いで見上げて訊ねる。『明日の天気知っている?』そんな気軽さのトーンだったので、『はい』という言葉が喉の寸前まで出かけてしまった。
「違います!」
先程とは違い、髪の毛が地面と水平に左右に激しく揺れる。
「車に跳ねられちゃったのですよ……」
「跳ねられた? そんな痕跡は見えないが」
猫の死体を指で突きながら、青年は地面に目を落とす。この暗闇の中で猫を跳ねた証拠を見つける事など出来るのかどうかは怪しいが、青年は堂々と断言した。
「ここじゃあない場所で、です」
そんなに跳ねられた場所が重要なのだろうかと、向日葵は首を捻りながら答える。自分が猫を殺したと疑っているようでいい気分ではなかった。
「そうか。で、何していたんだ? お前には死体を持って帰る趣味でも有るのか?」
そんな向日葵の心の機微を知ってか知らずか、青年は再び世間話の延長のような気軽さで向日葵に話しかける。まるで死体を持ち帰る趣味の人間が知り合いにいてもおかしくないような口振りで、向日葵は今更ながら、目の前の青年に恐怖を感じた。
「……助けようと思ったのです」
いっそ逃げようとも考えたが、向日葵が五分間のハンデを貰ったとしても勝てそうにない体格差に逃走は諦める。そもそも、バイクに乗られたらそこで終わりだ。大人しく答えて、さっさと家に帰ろう。向日葵はそう決めて答える。
「助ける?」
返ってきた答えに、青年は今までとは真逆の反応を取った。理解に苦しむように、向日葵の言葉を鸚鵡返しする。そんな言葉は始めて聴いたといわんばかりに、向日葵を睨む。いや、恐らくただ見つめているだけなのだろうが、質量すらありそうなその迫力に、向日葵は一歩距離を取る。
今日は厄日なのだろうか? 向日葵は緋色の瞳を見つめてどう答えたものか考える。
「真っ赤な車がその二匹の猫を轢いたのです。大きな猫は明らかに死んでいたのですが、子猫の方はまだ息があったので、助けられると思ったのです」
「で、死んじゃったと」
「そう言う事です」
簡単に状況を言うと、青年は勢いよく立ち上がり、「なるほど」と、一人頷く。今の話に大袈裟に頷く程の価値があるのだろうか? 向日葵はもう一歩後ろに下がる。
その様子を見て、「ふふ」青年は不器用に笑う。意外にも子供っぽい、彼の印象から考えるとちぐはぐな笑い方だった。
「ほれ、泣くんじゃねーよ」
「え?」
ポケットからミニタオルを取り出し、向日葵の頬に押し付ける。ミニタオルを受け取ると同時に、自分の頬に恐る恐る触れる。
頬は、涙に濡れていた。
自分では気が付かなかったが、向日葵は泣いていた。
「私、泣いていましたか?」
信じられずに、向日葵が漏らす。
「はあ? 泣いているじゃあねーか?」
青年は向日葵の言葉に不信を抱きつつも、事実をそのまま答える。
「じゃなきゃ、俺はわざわざ話しかけねーよ」
あいつと違ってロリコンじゃあねーからよ。自分を納得させるように青年は強く頷く。
その後、青年は脇に止めていたバイクのキャリアに繋げてあるバックからタオルとコンビニの名前がプリントされた大きめのビニール袋を取り出す。何をするのかと涙を拭いながら見ていると、青年は猫の亡骸を地面から拾い上げ、タオルに包みビニール袋に入れてバックにそのまましまいこんだ。
死体を持ち帰る趣味でもあるのだろうか。
「よし。泣き止んだなって、何ビビってんだよ。取って食ったりしないからよ。ほら、行くぞ。乗った乗った」
青年はバイクに跨り、ヘルメットをバスケットボールのように脇に抱えて向日葵を手招きする。先程までの機嫌悪そうな表情が嘘のような、上機嫌さで、それは十二分に警戒するに値する変化だった。
更に言えば猫の死体をバイクに乗せて、何処に行くというのだろう? 跨るバイクも、そもそもバイクかどうかも疑わしい。見たことがない四輪の物だ。極めつけは、ほいほい付いていくのには怪しすぎる容姿。
しかし不思議と悪い事をするような人間にも見えない。ミニタオルの件だけであっさり買収される自分に嫌悪しそうにもなるが、何故かこの白髪の青年は信じるに値する気がしてしまった。
「どこに行くのですか?」
ミニタオルを握り締めて、一番気になる事を訊ねる。嘘をつかれればそれまでだが、取り敢えずは何かの指針にはなるだろうと思ってだった。
「何処って、親猫拾って、埋めに行くんだろ? 早くしろよ」
脇に抱えたヘルメットを向日葵に投げて、青年は顎で後ろに乗るように促す。その答え方は『1+1=2だろ?』と当然の事を確認するようで、嘘をついている風には見えないし、嘘だと思いたくない答えでもあった。
ヘルメットを受け取り、向日葵は覚悟を決める。
彼を信じよう。
向日葵は猫の死体を嫌な顔をせずに、優しい手つきでタオルで包んでいた青年の姿を信じる事に決めた。
「……行きます」
ぶかぶかのヘルメットを頭に装着して、バイクの後ろに回る。
そして青年の足が長い事を知った。自分の腰よりも高い位置にあるシートに何とか腰掛けると、身長の差を差し引いたところで到底敵わない位置に、青年の足があった。どんなにがんばった所でつま先すら地面に届きそうがなく、向日葵はぶらぶらと足の置き場を探す。
「バイク、乗った事はあるか?」
「健全な学生生活をしていれば乗る機会なんてないです。『四ない運動』って知っていますか?」
何故か諭されてしまった青年は、溜息をついて乗り方を説明する。四輪と言う特殊な外見だが、乗り方は普通のバイクと変わらないようだった。
初めて会った人、しかも男性の腰に手を回すのには少しばかり抵抗があった向日葵だが、最終的に青年の説明通りに背中に身体を預けた。外見に似合わず、それとも外見通りなのか、学生服の下の身体は思わずうっとりする程絞り込まれていた。
すると、「くっ付きすぎだ」と注意を受ける。慌ててヘルメットの下の頬を朱に染めながら、少し座席の後ろに身体を移動させる。付かず離れずの、微妙な位置を取ると、ようやくOKが出た。
「よし。親猫の場所は?」
エンジン音に紛れて、行き先を訊かれ、向日葵は正面を指差す。
「ここからまっすぐに行った所です。マンションが山の一番上にある山の麓の十字道を少し過ぎた所です」
「了解」
台詞と同時、アクセルが開き四つのタイヤが地を掴み、
「きゃあ!」
向日葵の沈んだ気持ちを置き去りにして、田舎道を奇妙なバイクが駆け抜けた。