赤い瞳の噂 ①
向日葵達が通う、県立校の部活動への情熱は薄い。勿論、朝部活などは存在しない。故に、朝の過ごし方は始業ぎりぎりに来るか、早めに教室で駄弁るのかのどちらかに別れる。世界はどちらかといえば後者であった。朝から会話をするような相手はいないが、意外と几帳面な彼は、どうにもぎりぎりに登校する事を許せないでいるらしい。
そんな世界が今朝も身体のだるさに顰め面で、金魚の糞と化しつつある向日葵が笑顔で教室に入ってくると、教室は一瞬だけ静まり、二人に視線が集まる。和やかな雰囲気は皆無で、パニックの語源のように教室中の生徒がざわつく。
新しいクラスになって一週間。特に世界が何をしたわけでもないが、一人歩きした(向日葵はそう思っている)噂話に怯えるなと言う方が無理だ。それにしても今日は若干世界に対する視線がきつい。
全員がとにかく世界と距離を取ろうとしている中、
「おはよう、お二人方」
よく通る、日本人らしい挨拶が二人を暖かく向かえる。教室は取り敢えずざわめきが収まる。誰だ? なんて気にかける必要もない。学校一の問題児と噂高い世界に対して軽やかな挨拶をする人間は少ない。
「涼、一つの括りにするな」
そんな数少ない人間、涼の好意に眉を寄せる世界。対照的に向日葵は自分の席に鞄を置き、唯一と言って差し支えない友達に近寄っていく。
「良いじゃない、別に」
子犬のように上機嫌で近付いてきた向日葵の頭を撫でながら、世界にそんな口を利く。教室はその態度に一瞬息を止めるが、世界は席替えをしていない教室の一番窓側の一番前の椅子に腰掛けるだけで、目立った反論もしない。
何故かこの少女は世界と対等で入れる数少ない生徒の一人であるようだった。向日葵は頭を撫で回されながら、機会を窺って是非聞いてみたい話がそこにはありそうだな、と勝手にドラマを想像する。
涼はスティック付のキャンディを腰につけたポーチから二本取り出し、二人に勧める。世界は首を横に振って拒否。向日葵は礼を言って口にそれを放り込む。すっかり餌付けされている向日葵だった。
「それと、聴いた? お二人さん」
余ったキャンディをしまいながら、既に距離もずいぶんと離れた世界と向日葵を再び一まとめで呼ぶ。一言言ってやろうと、周りの人間を無駄に脅えさせながら立ち上がる世界。が、その様子を見る涼の表情は裏のない楽しそうなもので、世界は毒気を抜かれる。
「何の話なのですか? 世界君は私の話を聴くだけで一向にネタを振ってくれないので、話題になるような新しい情報は大好きですよ」
「それはわるかったな。後、俺はその話しに興味ない」
キャンディを嘗め回しながら、嫌味ったらしい言い方をする向日葵に世界は肩を竦める。
噂話で一花咲かせるようなキャラではない事を自覚している世界は、そのまま二人の前を素通りして、教室の出入り口に向かっていく。
「聴いていかなの? 結構新里君にも関係する話だけど?」
向日葵と涼の目の前を素通りする世界を不思議そうに呼びかける。是非、世界に聞いて欲しい話だったのか、残念そうな表情を浮かべる涼。
「聴かん」
対して世界は露骨に機嫌が悪いことが一目で分かるオーラを出し、教室をゆっくりと出て行く。何が悲しくて自分の悪口……もとい噂を聞かなければいけないんだ。
「本当に行っちゃいましたね」
「うん。相変わらずマイペース」
大げさに音を立てて閉まったドアを見て、顔を合わせる女子二人。半ば予想していたのか、そう驚いた風もない。
「それでお話は?」
「うん、三年の親七先輩。知ってる?」
返事は苦笑だった。知っていると言えば、知っている。政経の授業で習った単語をその夜にニュースで見た時のような感覚になる。
楽しそうに首を傾げる涼に向日葵はざっと昨日の夜、その親七先輩にナンパされた事と、世界が颯爽と助けに来てくれた事を説明する。
話に相槌を打ちつつ、涼に苦笑が移る。噂話にほんのちょっとの現実味が帯びてきていた。
「その人が、骨折したらしいの」言いづらそうに、涼は頬に手を当てる。「足らしいんだけど。夜の十一時くらいに、大声で叫ぶのを近くの家の人が聞いて、また事件かな? って、田圃までいったら、泥に塗れてのた打ち回るのを見つけたみたいで」
「あんまり愉快な話でもないですね」
舌を出し、不快感を隠さない相槌。いくら嫌な目に合わされたとは言え、「ざまーみろ」なんてとてもではないが思えない。
「そうね」涼はその向日葵の反応は正しいものだと理解しながら「でも」と話を続ける。一度話し始めたのだからどうしてもオチまで持って行きたいらしい。
眉根を寄せながらも、向日葵は仕方なく話の続きを無言で待つ。
「素行の悪い人だったから、見つかった時も飲酒していたみたいだけどね」
「酔っ払って落ちて骨折ですか?」
「って言う話だけど……」
自業自得。そんな言葉が頭を過ぎる。ここ最近この町で起こった二つの事件から、今回も勝手に「事件」だと思い込んでいた向日葵だが、その言葉で少しだけ嫌悪が薄らぐ。未成年が飲酒して田圃に転げ落ちて骨折する。なんとも可愛らしい話じゃあないだろうか?
そんな穏やかになった向日葵の心を再び涼の声が荒らす。
「なんでも、『赤い目にやられた』って言ってるとか」
これが話のオチか。向日葵は言わんとすることを直に理解し、怒り心の底から音を立てて沸いてくるのがよくわかった。
「言いがかりですか?」
要するに昨日、向日葵のナンパを邪魔された恨みを、そんな形で世界にぶつけているのだ。勝手にこけて骨を折って、それを世界のせいだと言い張る。自然と向日葵の声が低くなる。
「まあね。だから新里君にも聴いてほしかったんだけど」
世界が出て行った教室の出入り口の扉を見つめる涼。扉は開いていたので、どうやら誰かが教室を後にしたようだった。「開けたら閉めよう」と書かれた紙でも張ろうかな? と学級委員長である涼は密かに思う。
そんな涼を前に、向日葵は功兵に対して憤りキャンディを再び口の中に突っ込むと、バリバリと噛み砕く。
「信じられないですね。そんな三下みたいな人間が本当にいるのですね」
すっかり人気のなくなった教室を見渡し、向日葵は唇を尖らせる。
「本当に、やっかい。たぶん今日の皆の新里君に対する反応も、この噂込みね」
そう言われれば、朝の視線はいつもより少しだけ厳しかったのを思い出す。
「でも、昨日の今日ですよ? そんなに早く噂って出回るものなのですか?」
「学校裏サイトの方でね。結構話題になっているよ」
携帯電話を取り出し、向日葵に問題の画面を見せる。装飾の少ない画面上には、昨日起こったばかりの事件が書き込まれて、相当に盛り上がっている様子だった。その内容は「世界が犯人に違いない」と言うものが殆どで、常人なら学校に来なくなるような事ばかりが書き込まれている。現代社会の闇に、向日葵は驚くしかなかった。
「……暇人って意外と多いですね」
「そこに感動しちゃいますか」
よくもまあ、深夜の二時にこんな話題で盛り上がれるものだ。少なくとも向日葵には信じられない。
「まあ、多分彼に昔ボコボコにやられちゃった人達がこうやって傷を舐めあっているんでしょうね」どこが笑いどころなのか、涼は口を押えてクスクス笑う。「新里君、容赦がないし、暴力的だからね」
向日葵には、わからない世界に対する感想だった。昨日見た世界の表情は確かに圧倒的に暴力的だが、実際は何もしていない。勝手にビビッて功兵が逃げ出しただけでしかない。どうにも、世界に恐怖を見出す事ができない。不器用で、損をする優しい人間の典型だとしか向日葵は世界を見られない。まあ、見た目が怖いことには全力で同意せざるをえないが。
「それに、世界君のアレはツンですからね。そう思えば怖い物なんて微塵もない!」
拳を握り、高々と掲げての宣言に、涼は珍しく笑みを崩す。驚いたのではない、引いたのだ。
「ま、まあ味方の三倍敵がいるような人からね。仲良くしてあげればチャンスはあるよ」
「はい」
満面の笑みで頷く向日葵の。いつか来るであろう、デレ世界の為に、向日葵は今日も世界にまとわり着くだろう。
「って、世界君遅いですね」
「そう言えば、忍も遅い」
すっかり話しに華を咲かせていた二人は中々教室に戻らない男二人を思い出す。世界はトイレにしては長すぎる、忍は始業ぎりぎり派とは言え遅すぎる。いや、そればかりではない。不思議な事に始業まで後五分と言うのに教室には二人意外、誰もいない。
その理由は昨日日直が書いた時間割の黒板に記されていた。
《選択授業。美術 → 美術室。音楽 → 音楽室。書道 → 文化交流室》
遅刻は確定的だった。