兄 篠原椿
水族館にいく前のお話です
僕は天才だ。これは自惚でも過信でもなく、事実だ。生まれてこの方勉学で一番以外をとったことはない。ハーバード大学を首席で卒業し、在学中から父の仕事を手伝い続け、今では跡取りとして確固たる地位をものにしている。自分で言うのも何だが、容姿も悪くない。それどころか良い部類に入る。芸能界にスカウトされることも多々あると言えば分かりやすいだろう。正直、向かうところ敵なしの僕が、唯一逆らえない子がいる。妹だ。
妹は目に入れても痛くないほど可愛い。艶やかな黒髪に勝気そうな美貌。他人に厳しくて、でも、誰よりも努力をしていて。目的の為ならどんな手段も選択出来る冷酷さを持ちながら、他人への慈愛も忘れない、大切な可愛い妹。桜子は俺の持つどんなものよりも価値のある大切な宝だ。
「お兄様、それでね。今日はとても良いことがあったの」
「それは良かった!何があったのか、聞かせてくれる?」
「あのね、今まで苦手だと思っていた方と仲良くなれそうなの。きっとお友達になれるわ」
「そうなの。同じクラスの子かな?」
「ええ。立花さんて言って、転入生の方」
楽しそうに今日の出来事を話す桜子はこの上なく可愛らしい。ただし、話の内容にはひっかかりを感じた。
「転入生って言うのは先週来たばかりだったよね?」
「金曜日に来たばかり。仲良くなろうと思ったのは最近で、だからまだ全然よく知らないのよ」
まだ会って日の浅い筈の転入生を苦手に感じるとは一体どういうことだろう。誰にでも平等に接する我が妹にしては珍しい感情だ。
「桜子ならきっと仲良く出来るさ。でも、何かあったら僕に言うんだよ」
「もちろん」
笑顔で頷く妹の頭を撫でると、嬉しそうに頬を染める。ああ、かわいいなあ。
「さ、今日はもう遅い。もう寝なきゃね」
「はい。おやすみなさい、お兄様」
「おやすみ、桜子」
部屋を出て行く桜子を見送りながら、桜子の悪い癖が出そうだと苦笑した。
もともと桜子には生き物を拾ってくる悪い癖があった。雀から始まって犬や猫、果ては動物園にいるような小猿まで。全て捨てられた動物だったが、ある日を境にパタリとその癖は収まった。たぶん、これ以上ないほどの大物を拾ってきたからだろう。
桜子が最後に拾ってきたのは、松山裕之と名乗る人間だった。
ホームレスのような格好をした薄汚い少年を連れてきた桜子に、気の強い母が卒倒したのは今でも忘れられない。
当時の松山はまだ高校生くらいで、身元もよくわからない彼に騒然としたものだ。結局、桜子は本当に拾ってきただけで、彼については何も知らなかったが。彼の身元を調べてもとの場所に戻すことも可能だったが、松山本人が篠原家にとどまることを望んだ。我が家の権力を使い、松山に一流の教育を受けさせ、その後は桜子付きの執事として働いている。桜子が篠原グループの何れかの会社を継いだ際には、秘書としてサポート出来るように手回しもしてある。
松山は恐ろしく頭の切れる男で、どこで学んだのか執事としての技能も完璧に備えていた。可愛らしい容姿とは裏腹に腹黒い男なので桜子にはあまり近付けたくはない。しかし、松山が桜子のことを最愛の主として敬い、桜子に及ぶ害悪を完膚無きまでに叩きのめす為、無碍にも出来ずに今日まできている。
視界の端に佇む松山を横目に彼の経歴を思い起こす。珍しく桜子の後を追わずにこの部屋に留まっていることから、僕が命じたいことが何だか分かっているのだろう。というより、僕が彼に命じたることで使える伝が増えるからこそ、待っているのだ。
「松山」
「はい」
「桜子の言っていた立花という女生徒を詳しく調べて報告しろ。一週間以内だ」
「かしこまりました」
一礼してから部屋を出て行く松山を見送る。あの男なら一週間で僕の欲しい情報は全て調べ上げてくるだろう。
桜子の悪い癖。どんな矮小なものにも情をかけてしまうこと。生き物を拾ってくる癖はなくなったけど、根本的な部分が変わっていないから時折トラブルを招いてしまう。僕は桜子のそんな所も愛しているけど。
どんな女だか知らないが、桜子に相応しくなさそうならこちらで排除させてもらわなければ。可愛い可愛い桜子に万が一があってはいけないからね。
桜子が何一つ心配事がないように尽力するのが僕の役目。目の前に転がる石にすら愛情を向けてしまう桜子の為に、いらないものは全て僕が排除してあげないと。
「可愛い桜子を守るのは僕の役目なんだからね」
順調にいけばすぐにでも全てが明らかになる。次の祝日は珍しく僕もまとまった休みがとれそうだから、桜子と何処かに出掛けたい。でも、楽しいことの前にやるべきことはやっておかないと、ね。