弐・第九章 第八話
「マリアフローゼっ?
お前は、何をっ?」
その娘の挙動に慌てたのだろう。
王冠を被ったクソが慌てた声を上げるものの、マリアフローゼ姫は父親の言葉に振り向くこともなく、俺にしがみ付いてきた。
そして彼女は……俺を上目使いで見つめながら、口を開く。
「助けて下さいっ!
私は、貴方様の妃になりますからっ!
貴方様のお隣に置いて下さいませっ!」
そうして期待をさせた彼女の口から出て来たのは、結局……ただの命乞いだった。
他のクソ共とそう変わりもしない、何の変哲もない命乞い。
──いや、違う。
上目使いと言い、その大きな胸を俺に押し付けてくることと言い……自分の美貌が相手にどういう影響を与えるかを知っているが故の行動だろう。
事実、彼女はそれを理解しているからこそ、妃とかお隣とか、今頃虫の良いことを言っているのが分かる。
──だけど。
あれだけ恋い焦がれた筈の美少女なのに。
彼女を手に入れるために蟲皇を倒し、砂漠を旅に出て来た筈なのに。
……何故、だろう?
俺の心は、欠片も動かない。
こうして慈悲を乞う彼女が……ただの豚にしか、見えない。
「妃がダメなら、愛人でも、奴隷でも何でもなります。
この身体を、処女を、全てを、貴方様に捧げますっ!
だから、他の連中をどうしても良いからっ!
私は、私だけはっ!
お願いしますっ、命だけでも……」
俺の顔色が全く変わらないのに気付いたのだろう。
妃になると口にしていた彼女の語勢は衰え、愛人・奴隷へと自分の地位を格下げし、それでも必死に生きようとしていた。
俺はそんな彼女の命乞いに軽くため息を吐くと、身体中から吹き上がるような怒気と殺気を緩め……
彼女の顎へとゆっくりと手を伸ばし……
「あ、ありが、とう、ござい、ます。
私は、貴方様のぉぎゃああああああああああああああああああああああああああっ!」
軽く指に力を込めて……その顔の皮膚を、引き千切る。
手のひらに触れる感触は、ぬるぬるした血と、しっとりとした皮膚の感触で……他の誰とも何の変りもない。
その肌の表面部分は、まぁ、綺麗だとは思うが……裏面はただの脂肪と滴る血で気持ち悪いだけの、ただの皮膚一枚に過ぎなかった。
──俺は、何をやっていたんだろうな?
絶世の美少女……『美貌』などという、こんな『クソみたいな皮一枚』のために、俺はテテニスを無視し、リリスを放置し……結果として、彼女たち二人の死を招いたのだ。
心底……自分の愚かさが、嫌になる。
ついでに顔の皮を引き剥がされてのたうち回る、数秒前までは絶世の美貌を誇る姫『だった』肉塊に手を伸ばすと、その豊満な乳房に指を触れ……
その脂肪の塊も、力任せに引き千切る。
「ぅあぃあぃあぉあぁああああああああぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
やはりその脂肪の塊も、ただぶよぶよしただけの、肉の塊に過ぎず……そんなものには、やはり何の魅力も感じない。
噴き出す血が手を汚す上に、引き千切った時に潰れ出た脂肪の感触が気持ち悪く……ただの汚らしい肉塊に過ぎない。
付け加えるなら、手が汚れるばかりか……悲鳴が耳障りで気分を損ねる。
「うるさい、豚」
「ああああっぷぎゅっ」
耳元で甲高い悲鳴を上げる、薄汚い雌豚への不快感に耐えかねた俺は、その胸に拳を叩きつけて黙らせていた。
姫だった残骸が塩へと変わるのを見ながら、俺は歯を食いしばる。
──ああ、そうだ。
こんな豚よりも、こんなクソよりも、こんなクズよりも……
身体を売ってでも懸命に生きていたテテニスの方が、ずっと魅力的だった。
片足でも必死に生きようとしていたリリスの方が、遥かに魅力的だった。
あの戦場で必死に生きようとしていた双子の方が……
──俺は、一体、何をやっていたんだろうな。
後悔と未練に……俺は目を閉じ、歯を食いしばる。
今さらながらに思い出すと……彼女たちを俺は、ずっと邪険にしていた。
身体を売っていたテテニスを、汚らわしいと考え。
身体の未成熟なリリスを、ただの餓鬼だと断じ。
顔の皮一枚であの双子の片割れとマリアフローゼ姫を天秤にかけ、その顔だけで価値を計っていた。
……だけど。
──美貌なんざ、ただの皮、一枚じゃないか。
──体型なんざ、ただの脂肪の塊じゃないか。
身体を売っているかどうかでさえも、これだけ手を血で汚した今なら……これだけ汚らわしい処女とほざく豚を見た今なら、大したことなんてないように思えてくる。
──馬鹿、だったな、俺は。
……だから、だろう。
テテニスとリリスと、三人で過ごしたあの最後の夜が……今さらながらに、悔まれる。
彼女たち二人と過ごせていたら……あの時、二人を受け入れていれば。
俺は、何の後悔もなく、彼女たち二人を……
「き、貴様っ!
姫を、姫をっ!」
「何と言うことを、ああ、あれだけ可憐な少女をっ!
その手にかける、なんてっ!」
流石にマリアフローゼ姫はそれなりの人気を誇っていたらしく、何人かのクソが俺に文句をつけてくるが……それすらも、俺の一睨みであっさりと鎮火する程度の怒りに過ぎない。
命懸けでも俺に向かってくるほどの……彼女の死に対して怒りを抱く気概のある、アルベルトみたいな奴なんて、一人もいやしない。
そうしている間にも、この王城は揺れ続け……
ついに壁を突き破って蟲がその口を覗かせる。
一つ、二つ、三つ、四つ……ざっと見る限り五つほどの、人間を軽く飲み込みそうなっ巨大な口が、壁を突き破って姿を見せたのだ。
玉座辺りに並んでいた貴族という名のクソ共も、入り口から駆け寄ってきた暴徒共も、その口から等しく悲鳴を上げるだけだった。
「ひぃいいいいいいいいっ!」
「神よ、我らを、救い、たまえ……」
「神様~~~~っ!」
神にも等しいとか何とかほざいていた癖に、この期に及んで出来ることと言ったらただの神頼みしかないらしい。
その神頼みに応じるつもりもなかったものの……俺はその巨大な蟲の口に手を伸ばし、告げる。
「……お預けだ」
その命令が通じたのだろうか?
俺のその一言で蟲はあっさりと動きを止め、城の揺れさえも見事に収まっていた。
そして……その行動によって群衆共は、俺こそがこの事態を収拾することの出来る『神』であるという事実に気付いたのだろう。
「た、助けてくれっ!
俺たちを、どうかっ!」
「大体、我々は、ただ利用されていただけなんだっ!
あの、連中にっ!」
「そうだっ!
俺たちは何もしていないっ!
全て、あの連中がっ!」
そうして俺を『神』と認めた結果なのだろう。
……当然のように連中の間では、醜い責任転嫁が始まっていた。
「何を言うかっ!
貴様らも天空人だろうがっ!
紅石の恩恵を受けて生きていた癖にっ!」
「黙れっ!
機師を、下民たちを賭けの対象にしてのはお前らだろうがっ!
俺たちは、ただ暮らしていただけだっ!」
「私なんて、ただこの城で働いていただけよっ!」
「そうだっ!
貴様らがいなければ、それでっ!」
責任転嫁という名の怒号が飛び交うことに飽きてきた俺は、手を軽く挙げる。
それだけで、あっさりと周囲に満ちっていた叫びは鳴りを潜め、誰一人として口を開くものはいなくなっていた。
そして、入り口側の暴徒に向かって優しげな笑みを浮かべると、玉座へと指を向け……静かに告げる。
「なら、何故、あのクソ共が生きている?
お前らは、ただ……騙されただけ、なのだろう?」
その一言の効果は絶大だった。
貴族以外の……普通の天空人とやらは、せめて『神』である俺の機嫌を取ろうと必死なのだろう。
入り口から現れた群衆たちは、近くに転がっていた槍や瓦礫などを手に、徐々に徐々にと上段の方へ……
王族や貴族が並んでいる方へと進み始める。
「き、貴様ら、何を考えているっ?」
「我々は、同じ天空人ではないかっ!」
「そう。
この島で、共に生きてきた……」
「黙れぇええええええええええええええええええっ!」
そして、貴族という名のクソ共が群衆を宥めようとしたその一言が、暴徒に火をつける結果となってしまっていた。
「俺はっ!
俺たちは、貴様らに使われていただけだろうがっ!」
「そうだっ!
働きもしないクズ共がっ!」
「私の兄は、機師として死んだのよっ!
貴様らも死にやがれぇええっ!」
石を、槍を手にした暴徒によって、王冠を被り玉座に座っていた国王が、豪華で見事な服を着ていた貴族様たちが、殴られ刺され、血祭りに遭うその光景を見て……
「ははっ。
はははははははっ!
ははははははははははははははははははっ!」
俺の口からは自然と、笑い声が零れ出ていた。
……だって、そうだろう?
神にも等しいとか何とか言っていた癖に、所詮、この程度なのだ。
暴徒によって石で頭をかち割られ、脳漿を噴き出し、目玉を零しているアレが、この国の国王なのだ。
槍に突き刺され、血と臓物を噴き出しながらもがいているのが貴族様なのだ。
殴られ蹴られ、必死に命乞いをしているアレが、この世界の支配者階級様だったのだ。
──どうして、この程度のことをっ!
──もう少し、早くっ!
その事実に、俺は歯を噛みしめる。
みんながこの世界の理不尽さに気付き、もう少しでも早くこの世界を良くしようとしてくれていたならば……
こんな簡単なことをしていたとしたら……
このクソみたいな世界は、もっと良くなっていて……
──たったそれだけで、テテニスも、リリスも……
──死なずに済んだかも、しれないのにっ!
その事実に、俺は歯を食いしばる。
だけど幾ら悔んだところで、幾ら惜しんだところで……今さらあの二人が帰ってくることはなく……
そうして目を閉じた俺が、もう戻ることのない死者を悼んでいる間にも、殺戮は終わっていたらしい。
「こ、これで、これで俺たちは……」
「た、助けてくれるんです、よねっ?」
頭蓋が潰れ、もはや誰のとも分からない頭を、引き千切ったかのような皮膚を、腕を、足を、そして臓物を掲げながら、顔も知らぬ群衆たちは俺に頭を垂れ、跪く。
そんな彼らに向けて、俺は笑みを浮かべると……
「ああ。
貴様らには褒美を与えよう」
……そう告げる。
その言葉を耳にし、救われた安堵の表情を浮かべた連中に向けて……とびっきりの笑みを向けながら、俺は穏やかな声で言葉を続ける。
「破壊と殺戮の神ンディアナガルの名において命じる。
俺の目を汚すゴミ共よ。
……蟲の、餌になって果てろ」
……と。
あとは簡単だった。
俺が指を鳴らすだけで……
「そ、そんなっ!
話が違うっ!」
「たす、助けて、助けてくれぇええええええええっ!」
「ぎゃああああああああああああっ!
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない~~~っ!」
……蟲共は、全てのゴミ処理をあっさりと済ませてくれたのだから。
「……は、ははは」
何もない、ただ塩と砂だらけの平原をたった一人、俺は歩いていた。
……そう。
本当に、もう、何も残っていなかった。
砕け散った聖剣も、アルベルトの亡骸も、あれだけいた群衆も、群衆に肉塊へと変えられたクソ共も、あれだけ大きかった城も街も……いや、巨島の何もかもが、もう此処には存在していないのだ。
「ははは、ははははは」
それどころか、さっきまで世界を埋め尽くさんばかりに群れていた蟲すらも、この世界の住人全てと、城の残骸全てを口にした途端……
まるで自らの役割が終わったことを悟ったかのように、塩と化して消え去ったのである。
「はははっ。
ははははははは。
……やっぱり、こうなるのかよ、おい」
蟲すらもいなくなった所為で……この世界にはもはや、俺の見渡す限り、ただ砂と塩しか存在しなくなっていた。
人と一緒に大気も死に絶えたのか、さっきから風すら吹かず。
俺の耳に入ってくる音と言えば、俺の乾いた笑い声と……俺の足が踏みしだく度に、塩の結晶が崩れる乾いた音と砂が軋む乾いた音が響き渡る。
……ただそれだけである。
「……何で、こうなるんだよ。
俺は誰かを……せめて、誰か一人だけでも……救おうと……」
この世界で行った全ての行動が水泡に帰した虚しさに耐えかねた俺は、そう虚空に問いかけるものの……答えどころか木霊すら返ってこない。
……返ってくる、筈がない。
何か言葉を返す存在全ては、俺の手によって……いや、あの蟲たちが喰らい尽くしてしまったのだから。
「……お?」
そうして自らが滅ぼしてしまった世界を眺めると言うよりは、半ば現実逃避的に塩の砂漠を歩いていると……
遠くの地平線の果てにある……小さな一軒家がふと目に入ってきた。
それは、何処となく見慣れた一軒の家で。
──ああ、そうだったな。
──蟲共は、俺の気配を、襲わないんだったな……
その割には俺の乗っていた機甲鎧の残骸すらも蟲は喰い尽くしてくれたようだったが……
もしかしたら、蟲共は俺に未練があるのを見透かしていたのかもしれない。
救えなかった、何も出来なかった、何もしてやれなかったあの片足の少女を、あの子供たちを……
せめて……あの子たちを、人として弔ってやろうという、幽かな未練を。
「……そう、だな」
あれだけの数を殺しておきながら……この世界の弔いがどういう形で行われるかすら知らない俺ではあるが。
──それでも、十字を切るとか手を合わせるとか。
──形ばかりの弔いくらいは、出来るだろう。
そう考えた俺は、砂と塩の中を歩く。
何の意味もない、ただの自己満足でしかない「弔い」という行動をするためだけに、ただ砂と塩の中を、ひたすらまっすぐに。
「……畜生……」
歩きながら、自分の行動の何が悪かったかを考える。
……答えが浮かぶ訳もない。
あの醜いクソ共を見過ごす訳にはいかなかった。
紅石を使い好き勝手な横暴を繰り返していたあのクソ共を、そしてそれに飼われるのを良しとして反旗すら翻そうとせず、ただ飼われるがままになっていたあの家畜共を、放っておくことなど、出来やしない。
その所為で……テテニスが、リリスが、子供たちが、アルベルトが、犠牲になったのだから。
そうして反省と悔恨の中、一人きり延々と歩き続けた俺は……ようやく我が家へとたどり着いていた。
俺は目を閉じ、その家の中の……血溜まりに沈んだ片足の少女と子供たちの惨状を思い出す。
……その目蓋の裏に映った光景が、あまりにも凄惨だった所為だろうか?
「次に生まれてくるときは、もっとマシな世界に……」
ふと俺の口からはそんな……幼くして散った子供たちの、せめてもの幸せを願う呟きが零れ落ちていた。
……と、その時だった。
「のうのうと、よくもそんな台詞を真顔で言えたものだね。
何もかもを破壊した、災厄そのもののお前がさ」
誰もいない家の、住人全てが死に絶えた筈の家のドアが内側から開き……
見覚えのある顔の少女が、生きている筈がない少女の口が、何故か動き……そんな俺を責める言葉を紡いでいたのだった。