弐・第五章 第八話
「ぐ、が、がぁああああああああああっ!」
幸いにしてこの機体は……いや、俺の身体に重なり合っている破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能は、この高層ビル一つ分ほどにも見える老蟲の巨体を受け止めることが出来るほどのものだったらしい。
とは言え、その老蟲の半分近くの重量を両の腕で支えているのだ。
……こちらにもダメージがない、筈もない。
「ぐ、く、そっ?」
機甲鎧というこのロボットを操縦しようとすると、この機体が操縦者である俺の身体そのもののように感じられるのだが……
その所為だろう。
両腕が、脚が、身体が、軋む。
ンディアナガルの権能を手に入れてからは全く感じたことのない、身体が外からの力に負けるその感覚に、俺は歯を食いしばることしか出来なかった。
──こんなの、もう、無理、だ……
その痛みにも似た感覚に、俺はもうさっさと逃げ出したくてたまらなくなっていた。
もうこんな重荷なんて放り捨てて、何もかも投げ捨ててここから逃げ出したいという諦観が身体へと重く圧し掛かってくる。
……だけど。
「……うそ、でしょ?」
背後で聞こえる、そんな少女の声が……俺に逃げることを許さない。
歯を食いしばり、身体中の力を放出し尽くしてでも……この老蟲の巨体から彼女を守り切ってみせると心に誓う。
両手で握りしめる操珠に力を込める。
──頼むぞ、相棒っ!
俺は自分に重なり合う破壊と殺戮の神ンディアナガルにそう呼びかけ、更に身体中の力を振り絞る。
その権能のお蔭か、これだけの凄まじい重量を支えているというのに、脆く柔い筈の砂で出来た足場は膝より下へは沈もうとしない。
……お蔭で、レナータかレネーテのどちらかを、俺は今、守れている。
「このまま、行くぞぉおおおおおっ!」
後は、膂力任せにこの化け物の巨体を吹き飛ばすだけ。
そう考えた俺が、操珠に更なる権能を込めた、その時だった。
「何よ、これっ……?
私は、夢を、見ているのっ?」
背後からはそんな……脅えたような少女の声が聞こえて来る。
ふとその声に俺は背後へと視線を向け、足元を、周囲を見て……
──これはっ?
……全てを、悟る。
気付けば俺の周囲の砂漠が、純白に輝き……まるで雪のような白銀の世界へと変わっていたのだ
──塩の、権能。
……そう。
破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能の一つ。
あの塩の砂漠を作り出すことで世界を滅亡寸前まで追い込んだ……破壊と殺戮の神に相応しい凶悪な権能である。
道理で、この老蟲の巨体を受け止めても、機甲鎧が沈み込まない訳だ。
俺が無意識のうちにこうしたのか、それとも俺と重なり合う破壊と殺戮の神ンディアナガルが俺の身を守るためにこうしたのだろうか。
──どっちでも、構いやしないっ!
世界を滅亡させたその権能によって、今、俺は……いや、俺と背後の守るべき少女は助けられているのだ。
細かいことなんてどうでも構いやしないだろう。
──これなら、いけるっ!
「うぉおおおおおおおおあああああああああっ!」
そう確信した俺は、喉の奥、腹の底から叫びを上げる。
……魂の奥からンディアナガルの権能を振り絞り、未だに腕に圧し掛かったままの蟲の巨体を押し返そうと。
「もうっ、す、こしっ、でっ!」
そうして、渾身の力を込めた甲斐もあり、老蟲は徐々に徐々にと上へと上がり始め……更には眼前の老蟲の身体までもが白く結晶化し始めた、その時だった。
「ひぃっ。
この、塩、わたし、までっ?」
背後から聞こえて来たその声に……ギクリと背筋が凍りついた俺は、ゆっくりと背後へ視線を向ける。
そこには……機体の半分ほどを純白の結晶に覆われているボロボロの青い機甲鎧が一機、力なく横たわったまま転がっている。
そしてその結晶は……徐々に徐々にその青い筈の機体を飲み込もうと広がり続けているのだ。
この分では……恐らく、胸甲の中身までも。
「出、出してっ!
早く、いや、こんなっ!
指がっ? 足先の感覚がっ?」
背後の声は、いつしか悲鳴になっていた。
彼女の身体は……徐々に徐々に塩と化しているのだろう。
……俺の身体に宿り、俺を守り続けてくれた破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能によって。
──ま、待て、おいっ?
慌てた俺は彼女を助け出そうと、せめてンディアナガルの権能を緩めようと、手に込めた力を抜いていた。
……だけど。
「がぁ、ぐあああぁぁぁ?」
すぐに圧し掛かられたままの老蟲の超重量によって身体中が軋み始め……力を抜くことすら出来やしない。
……そう。
この状況では、俺にはどうすることも出来やしない。
現状を維持すれば……彼女が死ぬ。
だけど、力を抜いても、やはり彼女は死んでしまうのだ。
……いや、もしかしたら俺自身でさえも。
だからこそ……俺は動けなかった。
「うそうそうそうそうそっ、身体までっ?
右手が、右手、右手、崩れっ!
いやっ、目が、目が見えないっ?」
俺は、ただ……その悲痛な叫びを聞き続けるしかない。
……老蟲を必死に両腕で食い止めたまま。
「助けて助けてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて……しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくない……」
その内、悲鳴は懇願へと変わり……
そしてすぐに肺の奥まで叫びつくしたのか、それとも咽喉まで塩と化したのか、叫びは一切途切れてしまい……
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ。
機甲鎧の無駄に性能の高い集音システムはそんな……何を必死に掻き毟るような音だけを拾い続ける。
「……ぅぅぁ、ぐ、くっ」
そのか細い物音を、俺は耳を塞ぐことも出来ずに聞き続けるしかなかった。
そして……すぐに、そのか細い物音は消え去り……
──嘘、だろ?
俺は内心でそう呟き、首を左右に振るものの……心の何処かでは分かっていた。
俺の権能が、一人の少女の命を、今、確実に奪ったというその事実を。
俺を確かめるための芝居でしかなかったとは言え、一度は同じ食事を口にし、そして一度は微笑み合った少女の命が失われたというその事実を。
その事実を前に、俺は……
──殺してしまった。
──俺が、俺の力の所為で……
巨体を支え続けた疲労の所為か、そんな自責の念に駆られ、両の腕ばかりか身体中から力が抜け始める。
機甲鎧全体が軋み、もう俺はこのまま潰されてしまっても構わないという、自暴自棄な感覚にも捉われてしまう。
だけど、それも一瞬だった。
──いや、違うっっっ!
──この蟲の所為だっっ!
一瞬で俺はそう考えて首を振って弱気と自責を振り払い、両の腕に力を込め直す。
未だにレナータかレネーテか分からない少女の死は……ある意味で俺にとっては幸いだった。
このアホ臭い我慢比べから、もう解放されるのだ。
何しろ……もはや俺の足元には守るべきモノは何一つないのだからっ!
「がぁあああああああああああああああああああああっ!」
怒りのままに叫ぶ。
思い通りにならない世界への、助けられなかった自分への、強すぎる自分の権能への、弱すぎる少女という存在の脆さへの。
そして……
彼女を殺す原因となった、この老蟲とかいうふざけた存在への怒りを込めて。
「くたばりやがぇええええええええええぇぇえぁああああああああっ!」
俺は、絶叫と共に、もう戻れなくても構わないと覚悟を決め、ただ怒りに任せ。
渾身の力で、右腕を振るう。
……空間を切り裂き、創造神を殺した、その爪を。
音は、なかった。
何かを切り裂いた感触すらも。
ただ単純にさっきまで老蟲の巨体を支えていた筈の腕から重みが消え……それと同時に老蟲が真っ二つに裂け飛んだ、ただそれだけだった。
周囲には酸の体液が飛び散り、純白に染まる塩の平原で白煙を上げている。
「嫌だぁあああああ!
死にたくない、助けて、助けてくれぇええっ……」
「ベルデルが、下敷きにっ!
早く、助けをっ!」
「バカ、そんな暇があるかっ!
逃げろ、早くっ!」
「ひぃいいいいいいいいいいいいいいい!
手が、足が、顔がぁああああっ?」
老蟲が千切れた所為で、戦場は大混乱に陥っていた。
黒も青も赤も関係なく、酸の体液はシャワーのように周囲に降り注ぎ、あちこちで阿鼻叫喚の地獄が発生していた。
……が、今の俺はそれどころじゃない。
「ぐぅうううううっ?」
爪を振るった右腕と、後頭部とに激痛が走り……俺はその苦痛に耐えるのに必死で、周囲に視線を向ける余裕すらない。
やはりこの権能は未だに使いこなせていないらしく、こうして副作用が存在する。
世界そのものを切り裂いて帰らずに済んだのは幸いだったが……この激痛には未だに耐えられない。
しかも、俺が『生身の』右腕を振るった所為だろう。
俺の乗る機甲鎧の右腕は粉々に砕け、胸甲も右半分に大きな横一文字の亀裂が入っていた。
戦闘不能とは言わないものの、戦力は完全に半減してしまっている。
──だけど、これで……
爪を振るったその事実に、勝利を確信した俺は顔を上げる。
そして、すぐに目を疑った。
「ばか、な……」
何しろ俺の眼前では、身体を半ばから真っ二つに斬り裂かれ、死んだ筈のその老蟲が、それでもまだ生きて動こうとしていたのだから。
流石にもう戦う気を無くしたのだろう。
もそもそとした動きで砂の中へ逃げ込もうと、徐々に身体を砂へと沈ませていて……
「ガルっ!
あんた、生きてっ?」
「兄弟、おい、お前っ?」
俺の姿を確認したらしきテテニスとアルベルトらしき叫びが耳に入る。
二人ともその手に握った長剣と槍に緋炎を燈していて……さっきまでこの老蟲と戦っていたのだろう。
蟲の体液や肉片を躱す二人の挙動は一兵卒ではあり得ないほど洗練されていて……あの様子では周囲の黒も青も、赤機師たちももついていけなかったのだろう。
二人はそういう、次元の違う動きを見せていた。
……だけど。
俺はそんな些事なんざ意にも介さず、眼前でもがく一匹の蟲を睨み付けている。
──何故だ?
──何故、生きているっ?
憎悪に顔が歪む。
ただ、あの蟲がまだ生きている。
……その事実が、俺には、許せない。
──俺の女が死んで、何故、貴様が生きているっ!
後は、ただ激情に任せただけだった。
俺は機甲鎧を操り、足元に落ちていた戦斧を拾うと、ただそれを残った左腕一本に渾身の力を込め、老蟲へと叩きつける。
さっきまでの比ではない、破壊と殺戮の権能の所為で戦斧そのものが黒く肥大化するほどのその一撃に、老蟲は声にならない悲鳴を上げて暴れ回る。
だと言うのに、俺の気は晴れない。
晴れる、訳もない。
「ぉおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
怒りのまま叫ぶ。
吼える。
「お、おい。兄弟っ?」
「ガル、あんた、何をっ?」
何かが聞こえたが、言うにも意にも介さない。
戦斧を叩きつける。
蹴りつける。
柄で殴りつける。
もはや機甲鎧を動かしているのか、俺が怒りのままに動いているのかすら分からない。
その時の俺はただ……怒りに任せて暴れるだけの、破壊と殺戮の化身となっていた。
そうして……数百度に渡る殴打の末。
戦斧が砕け散ってバランスを崩した俺が、ようやく我に返って顔を上げると……
「……兄弟、もう十分だ」
眼前には赤い機甲鎧の姿があった。
周囲にはただ……白い肉と赤い肉と紫色の肉と茶色の肉と白い塩の結晶しか散らばっておらず。
「何なんだよ、あの化け物は」
「アレじゃ、蟲よりも……」
「あんなのと、共に戦えってか?
こっちが殺されちまいかねないぞ?」
俺に向けられてそんな……畏怖とも恐怖ともつかない叫びが黒、青、赤のどの機甲鎧からも零れ出ていたのだった。