第二章 第三話
「ああ、そうだ。
我々にはもう食糧も水もない」
バベルもあの黒衣の神官と同じように、感情を込めない静かな声で絶望的なその事実を肯定していた。
否定の言葉を求めて尋ねた俺は、いきなり出鼻をくじかれた形となった訳だ。
「水はもって三日。
食糧はあと二度三度が限界だろうな」
「いや、でも今まで生活していたんじゃないのか?
だから、その、お前たちは今まで生きてこられたんだろう?」
「……ああ。
しかし、我々サーズ族は戦いに敗れ……その生きるための水場と猟場を奪われたのだ。
だからこそ、こうして塩の砂漠に呑まれていた、こんな廃れた神殿に逃げ込んだ訳だが」
何とか希望に縋りつこうとする俺の言葉は、またしてもその野太い声にあっさりと叩き潰されていた。
淡々と絶望的な言葉を連ねる巨漢は、どうしようもない現状を嘆くよりも戦に敗れたことを悔やむような溜息を吐く。
「これを、どうぞ」
そこへ先ほど全裸だった女性……三十代後半くらいの疲れ切った様子の女性が皿を俺とバベルの間に持ってきた。
上に載っているのはさっき口にしたあの塩辛い干し肉で、あまり食欲が湧く代物でもない。
それよりも、先ほど全裸を見てしまった気まずさから、彼女を直視出来ずに俺はテント内を見渡す。
粉挽きの臼や燃料らしき枯れ木、壷が幾つか……そして弓矢に槍や剣、砥石という武具だけという、部族の戦士を率いる身にしては質素な室内に見えた。
そんな質素な部屋の中で一つだけ妙に目についたのは、木の枝と何かの骨を組み合わせて作られた×と〇の変な飾りだった。
──なんだ、コレは?
その見たこともないハズのない妙な飾りに何故か俺の視線は引き寄せられていた。
何故かは分からない。
分からないが……その飾りが視界に入った途端、俺は視界にハエが飛び回っているような、妙な苛立ちを感じていた。
「いえ、これは、その……失礼しました」
ただ、そんな俺の視線に気付いたのか、女性がその飾りを慌てて伏せてしまう。
それだけで俺の苛立ちはあっさりと収まったものの……
彼女のその仕草が、特に突き出された尻が妙に色っぽかった所為か……さっき見た全裸を強烈に意識してしまい、俺はもう一度慌てて視線を逸らす。
「……ふっ」
そんな俺の様子に何かを気付いたらしく、バベルは少しだけ笑みを浮かべていた。
その笑みを見た俺は、何処となくバカにされているように感じ、少しだけイラついたものの……現状はそれどころではない。
先ほどの話の続きをしようと口を開く。
「そもそも、どうして戦いになったんだ? 話し合いの余地は……」
「そんなもの、ある訳ないだろう?
塩の砂漠が広がっている所為で、次々と水場が枯れ始めているんだ。
獣も魚も減り、畑は死に、木々すらも枯れ始めている」
「……なんでそれが、戦争になるんだよ?」
現代日本で平和の尊さと不戦主義をみっちりと叩き込まれている俺は、思わずそう呟いていた。
その言葉を聞いたバベルは、まるで小学校低学年の算数が出来ない高校生に直面した教師のように、呆れかえった溜息を吐くと……
物分りの悪い子供に語りかけるように、話し始める。
「……良いか?
今まで二百人が暮らせる土地があって、二つの部族が百人ずつ暮らしていたとする。
その土地が百八十人しか養えなくなったら、どうなる?」
「だから、話し合いで……だな。
えっと、節制するなり、その……」
いや、俺自身、そうして語りつつも分かっていた。
……自分の言葉が何の意味もない『ただの言葉でしかない』ということくらいは。
ただ、今まで延々と、教育やゲームやアニメや漫画などによって「戦争はいけない」「人殺しはいけない」と刷り込まれてきたんだ。
──自分の頭が引っ張り出した『その結論』を、すんなり納得できる訳もない。
「ま、言うのは簡単だ。
だが、自分の家族が、友人が、妻が、子供が死ぬかもしれないんだ。
だったら、見知らぬ誰かから奪い、ソイツが死んでくれた方がマシだ。
……違うか?」
「──っ」
返す言葉なんてある訳もない。
簡単な二択なのだ。
──何もせずに自分の家族が死ぬのを見るか。
──他人を殺し奪うことで、自分の家族を生かすかの。
食事も水も足りていない世界では、平和も調和も言葉すらも、何の意味も持たないのが現実だった。
アニメや漫画でよく見かける、戦争中に「分かり合える」なんて言っているのは、所詮、ある程度文明や技術が発達し飢えや渇きが無くなった近代の、『価値観の相違』で生まれる戦争だから、なのだろう。
この戦いが純粋に水場や食糧の奪い合いである以上、戦わなければ誰かが死ぬという凄惨な前提がある以上……どう足掻いても戦いは避けようがない。
「……他の土地に移住するというのは?」
「此処より先は塩の砂漠が広がっている。
行く先も分からぬ旅に、水も食糧もなしで旅立てと?
……我ら戦士なら兎も角、女子供老人は耐えられまい。
それでも我らが神は、弱者を切り捨ててでも新天地を目指せと?」
バベルは淡々と語る。
そして、頭が良い訳でもなければ弁が立つ訳でもなく、彼らの現実すら理解していない通りすがりのただの高校生でしかない俺には、彼を論破する言葉もプランもありはしない。
「……だから、戦争を?」
「ああ。だから奪い合い、そして負けた、というだけの話だ。
勿論、ただ座して死を待つつもりはない。
……せめて一矢は報いてやらねば」
凶悪に笑う巨漢が大鉈を手にそう哂うのを、俺は未だに納得できないままに聞いていた。
奪ったから奪われて奪われたから奪って。
……それで、終わりはあるのかと。
──そんなの延々と殺し合いが続く……まさに地獄そのものじゃないか。
(って、何を考えているんだ、俺は)
そこまで考えたおれは、首を振ってその考えを振り払う。
──帰れない。
──飯もない。
──水もない。
……そんな俺が、他人のことを、未来のことを気にしていてどうする?
今考えるのは……死なないこと。
生きること。
帰ること。
(……そう。
自分のことを考えるだけで、精一杯じゃないか)
そう考えると、自分のすべきことは簡単に思いついた。
……恐らく、未来のことよりも命の尊さよりも、今日明日の命を繋ぐだけで精いっぱいの彼らと同じ結論を。
「なぁ。俺は腹が減った。
咽喉が渇いた。食事が欲しい。水が欲しい」
「あ? だから、何もないと言っているだろうが。
我々はもう……」
「だから、奪えばいいんだろう?」
バベルの前にあった、塩辛いだけのクソ不味い干し肉をさっと奪うと、俺はソレを口に放り込み……
「何処に、奪われた水場があるんだ?」
そう、尋ねたのだった。