弐・第四章 第三話
俺の部屋は二階の隅にあった。
……食事の用意をしている最中、子供たちが口を揃えて部屋割りを繰り返していたから間違えようもない。
そうして部屋の中へと足を踏み入れた俺は……予想を遥かに超えた豪華な部屋に思わず立ち尽くしていた。
──マジか。
──10メートル四方くらいあるぞ、これ。
学生服を着たきり雀の俺には必要ないと思われるような大きな衣装棚に、鏡のある机、キングサイズとかって形容詞が付きそうな、一人では広すぎるようなベッド。
片隅には椅子や水を入れた皿、暖炉まである。
……恐らくはこの屋敷に住んでいた前の住人が使っていたのだろうその豪華な部屋は、『下』で暮らしていた頃のテテのボロ屋敷とは比べ物にならず。
その部屋の広さに俺は驚きを隠せない。
──コレ、持って帰れたらなぁ。
ついでに、小学校のウサギ小屋よりもまだ小さい自分の部屋を俺はふと思い出し、そう内心で呟く。
……尤も、部屋だけ持って帰れたところで、土地がなければ何の意味もないんだけど。
と、そうしてため息を吐いた所為だろう。
「ん?」
ふと、変な臭いが鼻を突く。
長い間使われていなかった所為か、僅かに埃っぽいこの部屋の臭いではなく……一月もの間放っておいて腐敗した肉に、ナメクジの汁を煮詰めたエグい香りをブレンドして、それをちょっと薄めたような臭い。
目と鼻から後頭部まで貫くような激痛としてではなく、薄まった所為で「臭い」として認識出来る分、吐き気がこみ上げてくるその臭いは……
紛れもなく「俺の身体から」立ち上っていた。
──蟲の体液かよ、こりゃ。
気付けば、向こうの世界から着てきた学生服が虫食いにあったかのように、俺の指が入るくらいの大きさの穴が幾つも空いている。
身体ごとぶち当たって蟲を貫いたあの一撃の代償は、どうやら機甲鎧だけでは済まなかったらしい。
俺自身も何滴かは身体に浴びてしまったようだ。
「やっぱ、槍ってのは使い難いよなぁ」
どうしてもその「突き刺す」という武器の性質上、腕力に任せた一撃を決めると、身体ごと突っ込む羽目になり。
……それは、あの酸の体液をまき散らす蟲相手では、非常に効率が悪い。
俺の乗っていた機甲鎧はあっさりと溶けてしまって、酷い目に遭わされたものだ。
何としても、次は使い慣れた戦斧のような得物を借りないと……またしても同じ目に遭うことだろう。
──そう言えば……
俺が身体に浴びたのは……その機甲鎧の身体を構成する、鋼鉄の甲冑をも溶かす酸の体液である。
だと言うのに……。
──身体には別に、異常はない、よな?
身体に触って確認してみたが、どうやら酸の体液を浴びたくらいでは、俺の皮膚には何の問題もないらしい。
今更ながらに俺は、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能の凄まじさに驚いてしまう。
「臭っ!
……この服もそろそろヤバいな」
ついでに言えば、蟲の体液以外にも……元の世界から着てきたこの学生服は、返り血の所為だろう錆びた鉄の匂いと、この世界にたどり着いてからかいた汗の匂いが充満し、凄まじいことになっていた。
まぁ、こちらの世界では砂漠のお蔭か湿度が低く、汗が身体中を這い回るような不快感はないのだが。
……それでも俺はやはり日本人なのだ。
──せめて風呂くらい……いや、濡れタオルで身体を拭くだけでも……
そう考えた俺は服を脱ぎ捨て、ベッドの枕元に置いてあったタオルを手に取ると、近くのボールみたいな金属皿に入ってあった水に浸し、身体を洗うことにする。
……何故か都合よく身体を拭く道具がベッド側に揃っていたことを特に疑問に思うこともなく。
「うわ、寒っ!」
濡れたタオルの冷たさに思わず声が出る。
それもその筈……この砂漠の季節がどうなっているかは分からないが、今は夜。
日中の熱射地獄が嘘のように、徐々に気温が下がってきているのが分かる。
暖炉も視界には入っているのだが、エアコンと電気カーペットに慣れた俺は、生憎と暖炉の使い方なんて分かる筈もない。
……ライターやマッチすら見当たらないのだ。
──畜生、寒ぃ。
正直なところ俺は……身体を拭くのを放棄して、ベッドに転がり込みたい気分に駆られていた。
とは言え、この世界に来て数日間、もう汗だくの日々を続けていたのだ。
……『下』にいた頃は、水が汚くて身体を拭くどころじゃなかったし。
そうして寒さに凍えながらも俺は、取りあえず身体を拭き終える。
身体を拭き終えたところで、俺は固まってしまう。
「服は、どうすりゃ良いんだ」
……そう。
替える服がない。
今、自室だから全裸なのは仕方ないにしても、裸族として生きられる訳もない。
──かと言って、この汗だく、返り血まみれ、そして蟲の体液の悪臭漂うこの服をもう一度着る訳にも……
洗濯機もないこの世界で、どうやってこの服を洗おうかと、俺はボロボロの服を前に全裸で首を傾げていた。
その時だった。
「ガルディアさま。
替えの服はクローゼットに入っております」
突如、俺の独り言に答えるかのような声がして、慌てて俺は学生服で股間を隠す。
よくよく見てみれば、ドアの隙間からリリ……リリスが顔を出していた。
いや、少女はドアから顔を見せてはいるものの、その顔はこちらを向いてない。
……耳まで真っ赤に染めてドアを睨み付け、俺の方を見ないようにしているらしい。
──餓鬼の癖に色気づきやがってなぁ。
俺は俺で、子供に裸を見られたところでどうということはないと思い直し、そのまま全裸でクローゼットへと歩み寄る。
中にあった服を適当に見繕い……脚を通す。
下着は変な紐で縛る白の褌みたいなので、黒いだぶだぶのズボンに脚を通すと、肌着と黒いシャツを羽織る。
全部、この世界に来てから見たタイプの服装で……『下』の連中よりは多少マシな服という感じだろう。
リリスたちがしっかりと洗濯してくれたのか、埃一つシミ一つなく清潔に保たれている。
……だけど。
──何だよ、コレは。
ごわごわしていて、居心地が悪いことこの上ない。
微妙にずっしりと重いし、だけどあちこちから隙間風が入ってきて、あまり暖かさも保証できない。
……言うならば、服として最悪の部類に入るだろう。
「……お気に、召しませんか?」
俺の顔色が曇ったことに気付いたのだろう。
杖を突きながら部屋に入ってきたリリスが、泣きそうな顔をしてそう問いかけてくる。
──くそ、反則だろ、それ。
百を超える兵士をこの手で殺し、千の民間人虐殺を指揮したこともあるこの俺だったが、少女の涙には怯んでしまう。
こういうところは、まだ昔の……ただの高校生だった頃の俺そのもので、どうも強く出られないのだ。
「い、いや。
問題ない、ぞ。
ちとデザインが古臭いがな」
仕舞にはそんな言い訳をしてしまうくらいである。
とは言え、その口から出まかせはある程度の効果があったらしく、リリスの顔から涙は消えていた。
……まぁ、結果オーライだろう。
「あ、そうそう。
それも洗濯しておいてくれ」
これで話は終わりとばかりに俺は、さっき脱ぎ捨てた服を顎で示す。
それだけで分かったらしい。
……汗と返り血にまみれた、どう考えてもあまり素手では触りたくない筈のそれらを、リリスは嫌がることもなく右手で抱きしめて抱えると、そのまま部屋の片隅の籠へと入れる。
どうやらその籠が洗濯物を入れておく場所らしい。
と、そうして用事を終えたリリスは……
「……ん?」
……何故か、部屋から出て行こうとはしなかった。
まるでそこにいるのが当然とばかりに、部屋の隅にあった椅子に腰かける。
そうして部屋の片隅に居座る少女の姿に疑問を覚えた俺は……
「リリ……リリス、になったんだったか。
お前、部屋に戻らないのか?」
そう問いかけていた。
……だけど。
「いえ、もう戻ってます」
だけど、少女の答えはそんな訳の分からない返事だった。
更に首を傾げた俺は、もう一度問いかける。
「でも、お前にも自分の部屋が……」
「ですから、この部屋が私とガルディアさまの部屋なのです」
少し顔を赤らめながらのリリの声に、俺は思わず空いた口が塞がらなかった。
──テテの野郎、そこまでするかっ!
彼女は彼女なりにリリの……リリスの幸せを願っているのだろうし、この片足の少女もその幸せに異存はないらしく、俺を妙に意識している節がある。
まさに据え膳。
俺が望んでいた通りの、女を傍に侍らせた生活と言えるだろう。
……だけど。
──餓鬼相手じゃなぁ。
……そう。
生憎と俺としては……せめて同い年か、いや、最低でも一つ下くらいまでじゃないと、食指が動かないのだ。
年上が好きという訳でもないが、やはりこう……同級生くらいが一番、相性が良いと言うか。
──せめてもうちょっと……胸とかが目に見える形で突き出すくらいは、ないと、なぁ?
──こんな毛も生えてないような餓鬼相手には、ちょっと……
そうして俺が色々と煩悩を込めた瞳で、ジッとリリスを眺めていた……その所為だろうか?
何を勘違いしたのか、少女は杖を器用に使ってこちらへ歩み寄ると、俺のベッドへと潜り込んできやがった。
……しかも顔を赤らめて、俺と視線を合わせないようにしつつ、だ。
その妙に艶っぽい仕草に、俺は思わず首を振って変な気分を追いやる。
──大体、コイツ、小学生だろ?
元の世界である日本ならば、ランドセルを背負っているそこらの餓鬼だ。
……そんなのに、欲情できる、訳がない。
「その、今宵はよろしく、お願いします。
私は、その、初めて、ですので……」
「いや、そう言われても、な?」
酷く緊張しているのだろう。
毛布をかぶって顔を隠したママのリリスが、かすれた声でそう告げてくるが……正直、だからどうしたという感想以外は抱けない。
と言うか。
「初めてって……あの借金取り共、何もしなかったのか」
「……は、ぃ。
蟲の餌にそんなことをしたら、情が移るとか言ってました」
ふと胸中に抱いたその疑問に返ってきたのは、リリスのそんな言葉だった。
あの時のことを思い出したのか、未だに突き刺さったままの針を探すかのように、今はもう無きその脚をさする仕草を見せる。
──確かに、そりゃそうだ。
……少女の声を聞いた俺は、思わず頷いてしまう。
正直な話、俺も一度餌をやった金魚をこの手で殺せと言われれば……躊躇ってしまうだろう。
その金魚が水槽に入れた俺の指をパクパクと突いてきたならば、そんな残酷な行動なんてやろうとも思えない。
ましてや、無理矢理だろうとナニを突っ込む形でも相手の温もりに触れてしまい、下手に相手が人間だと認識したのなら、蟲の餌にするような残酷な真似は……
──ま、武器を持った人間は別、だがな。
あと、俺を喰おうと襲い掛かってくる蟲とか。
……俺の殺意というモノは、どうやらかなり都合よく出来ているらしい。
今更ながらに自分の思考回路がどうなっているか、一度確かめて見たくなってきた。
「ですから、その、お願い、します」
「……だから、なぁ」
リリスとしては俺に全てを任せるつもりなのだろう。
自分から俺に触れてくるようなことはせず、縮こまったままで俺の方を見上げてくる。
……だけど。
──俺自身だって経験がある訳じゃないんだよなぁ。
だからこそ、人様を指導できる訳もなく。
つーか、そもそも出会ったばかりのこんな小娘が、俺に惚れたってだけでこうしてベッドに忍び込んでくる筈もない。
何度か命を助けはしたし、漫画やアニメじゃ好かれている展開だろうけれど、生憎と俺はそういうの目に遭ったことはなく……
……この誘惑は、絶対にテテニスのヤツが後ろで糸を引いているのだ。
俺のその探るような視線に気付いたのだろう。
「テテが……テテニスが言ってました。
ガルディアさまは、必ずもっと上へ行くお方だと。
だから、絶対に食らいついておけ、と」
リリスはあっさりとこの色仕掛けの黒幕を暴露する。
──上、ねぇ?
どうやら立身出世の道と言うのは黒機師団に入って終わりという訳ではなく……もしかしたら、黒機師団で大きな活躍をしていれば、青や赤に取り立てられるのかもしれない。
この世界の身分制というのがどうなっているのかは良く分からないが……
──そりゃ……上手くやれば、マジで貴族の姫様を手に入れられそうだな。
俺は自身の野望を今更ながらに思い出し、目を野心に輝かせ……いずれ迎えるだろう最高の初体験に思いを馳せていた。
……同じベッドに寝ている幼い少女がいると言うのに、そちらに視線を向けることもなく。
そもそも、こんな小娘相手に何かをするつもりはない訳で。
幾ら据え膳とは言えば、テテが仕掛けた罠にわざわざ嵌るのもバカバカしい。
──しかし、それはそれとして。
夜の所為なのだろう。
暖炉を灯してもないこの部屋は、酷く冷え切ってきて……流石にそろそろ起きているのも辛くなってきた。
どうやら『下』と比べてここはかなり高い分、寒さもまた酷いのだろう。
「取りあえず、湯たんぽ代わりにはなるか」
「え、あの、えぇ、その……」
結局。
寒さに耐えかねた俺は、少女を抱き枕代わりに抱きしめるとそのまま毛布に包まることにする。
そうして少女を腕に抱いていても……欲情は、あまりない。
少女特有の幽かな、だけど落ち着かない香りと、女性になり切れてない身体の中途半端な柔らかさ、そして何よりも俺と比べると少し高い体温。
そういう俺の心拍数を乱す要素よりも、今日戦場に出た、その疲労の方が重かったのだろう。
俺の意識はすぐに闇へと飲み込まれて行ったのだった。
……だけど。
「っつっくしゅんっ」
周囲のあまりの寒さに、俺は自らのくしゃみで目が覚めてしまう。
周囲は……真っ暗で何も見えない。
どうやら真夜中、らしい。
俺の腕に抱かれたまま、寝息を立てているリリスを起こさないように、ゆっくりと腕を外し、俺はベッドから立ち上がる。
毛布の外は酷く冷たく……寒いを通り越して痛いほどだった。
……だけど。
それでも俺は、何としても外へ出なければならない事情があったのだ。
「……くそ、便所便所」
……そう。
寒い所為だろう。
俺の膀胱はもう限界寸前という有様だったのである。
──こういうところには、ンディアナガルの権能も生かされないんだよなぁ。
皮膚を突き刺すような寒さに震えながら、その上漏れそうな尿意を我慢しながら、俺はゆっくりと部屋を出ると……真っ暗な廊下を手探りで歩き、闇の中恐々階段を下りる。
──便所は一階だった、筈。
幽かな記憶を頼りに、俺は暗闇の中を歩き続ける。
生理現象的に言うと、正直な話、もうそれほど余裕はない状況だったのだが……
運良く便所はすぐに見つかった。
「ふぅっ、ヤバかった」
便所は意外と水洗で……とは言え、水と共に何もかも下水へと落とすタイプの、原始的なものだったが……まぁ、汚物まみれの便所よりはマシだった。
この汚水が『下』の生活水になると考えると……ちと微妙な気分に陥ってしまうのだが……
兎に角、そうして用を足し終えた俺が、早く毛布に包まろうと階段に足をかけた。
……その時だった。
──キィィィィ。
そんな幽かな蝶番の音と共に、玄関が、開く。
そして、足音を忍ばせた、人影の気配。
──泥棒、か?
大方、餓鬼ばっかりが市に姿を現したものだから、どっかの馬鹿が楽な獲物と見て牙を剥いたのだろう。
そのフード姿の人影は、足音を忍ばせたままこの家の中へと大胆にも入って来る。
……そのヒヨコの巣には、巨大な龍が潜んでいるとも知らず。
──ま、軽く握り潰すか。
どの道俺に、忍び寄るとか隠れて捕まえるとか、そういう器用な真似が出来る訳もない。
俺はふらりとその人影のようへと歩み寄ると……
ただ拳を握ると、俺の姿に驚いたらしきその人影の方へと拳をまっすぐに突き出す。
だけど。
「おわ、ガルかい。
なんて物騒な挨拶だよっ!」
俺の拳を受け止めたのは、テテニスだった。
彼女は寒さ対策のつもりなのか、分厚い毛布のようなマントとフードを被り、腕には包帯を巻いた不審人物そのものの恰好をしていたのだ。
俺が泥棒と間違えたのも無理はない。
「……何やっているんだよ、ったく。
泥棒かと思ったぞ」
「いや、子供たちを起こさないように、ね」
俺の声には幽かに非難の色がにじみ出ていた。
……それも当然だ。
何せ、俺がもうちょっと本気で拳に力を込めていたのなら……彼女は潰れたトマトのように脳髄をぶちまけていたかもしれないのだ。
──しかし、手加減したつもりはなかったんだがな……。
──彼女を潰さなくて、助かった。
俺は自分の拳を見つめながら、内心で安堵のため息を吐く。
手加減したつもりはなくとも、彼女が今までの男たちのように潰れてないということは、どうやら俺は寸前で気付いて拳を止めていたらしい。
……もしくは、彼女に気付いたンディアナガルが権能をひっこめてくれたのか。
それは兎も角としても、彼女の行動が気になっていた。
「つーか、こんな夜中に何をやっていたんだ、お前は。
外はクソ寒いだろうに」
「何って、商売さ。
……金は幾らあっても困ることはないだろう?」
だけど、非難混じりの俺の問いに返ってきたのは、そんな……非常に分かりやすい、そして反応に困る声だった。
──つまり、その、なんだ?
俺がリリスを抱き枕代わりに抱いて寝ていた頃、彼女は彼女でどっかの誰かに別の意味で抱かれていた、という訳らしい。
その彼女の答えと、身体を撫でる妙に色気のある仕草に動揺した俺は、思わず視線を背けると……
「どうでも良いが、さっさと寝ろよ。
明日も蟲が来るかもしれないんだからな」
そう、ぶっきら棒に言い放つ。
と言うか、そんなことしか言えないまま、俺は暗闇の中手さぐりで自分の部屋へと逃げ帰る。
「そう言えば、リリの具合はどうだった?
楽しんだんだろ?
これからもずっと側に置いてやって……」
……俺の背中へとかけられる、テテニスのその声には聞かないふりをしたままで。