弐・第三章 第一話
返り血にまみれて帰った俺に、テテは何も言わなかった。
それどころか、血がこびりついてひしゃげた指輪を見たときも……
「……換金しなきゃダメだね、こりゃ」
ただそう呟いて軽く肩を竦めただけに過ぎなかった。
……そう。
眉を顰めることすらしなかったのだ。
まるで、盗む奪う殺す……そういう出来事なんて別に珍しくもないと言わんばかりに。
──そういう世界なのか、ここは。
その事実を前に、俺は改めて彼女の住んでいる世界が……この砂に埋もれゴミで暮らす彼女たちの世界が如何に荒んだ世界かを気付かされていた。
実際、この街の顔役とやらの屋敷にあれだけの兵隊が詰めていたということは、あのデブがどれだけ悪どい商売をしていたかは兎も角、それだけ襲撃の危険がある……安心できない世界だということだ。
──そう言えば、ジロジロ見られていたっけなぁ。
この世界に来たばかりの頃、外見だけではただの少年にしか見えない俺に誰も手出しをしてこなかったのは……あの豚の所有物になった筈のリリを連れていたから、なのだろう。
そうでなければ無防備にうろつくガキ一人、あっさりと身ぐるみ剥がされていたに違いない。
……まぁ、破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身たるこの俺を相手に強盗なんて、ただ砂のシミを増やす程度でしかないだろうけれど。
兎に角、この世界はそういう……治安も良くない世界ということらしい
──だからテテは、こんな場所から子供たちを連れて巨島の中へと逃れようと必死なのか。
腕力もないただの娼婦が子供を抱えて、そういう社会で生きることがどれだけ過酷かなんて……俺に想像できる筈もない。
逆に何故彼女がそういう境遇にあるにも関わらず、どう見ても自分の子供じゃないリリたちを育てているか……そっちの方が不思議なくらいだった。
「さて、ガルも帰ってきたところで、ご飯にしようか」
俺の訝しげな視線に気付くこともなく、テテは昨日と同じ調子でそう告げていた。
ただ、いつも通りに見えても彼女は……俺が手渡した『戦利品』を喜んでいない訳じゃないらしい。
少なくともその日の晩、食卓に出て来た料理は、凄まじく豪勢で……先日、子供たちが「豪華だ」と表現したあの時よりも遥かに色々な野菜と肉が盛られた料理だったのだから。
「なにこれ、すごすぎ」
「どうしたの? おいわい?」
「ほんとにこれ、たべていいの?」
事実、子供たちは生まれて初めての御馳走を前に目を白黒させていた。
とは言え、ここまで豪華なのは俺が持ってきた指輪が高額だったからという理由よりも……彼女が明後日に控えた機師試験とやらに全てを賭けるつもりだから、なのだろう。
要は、上に行きさえすれば……金に困ることも、こんなクズ野菜と下水に捨てられた死骸を食べる必要さえもなくなるのだから。
──そうなんだよなぁ。
こうして豪華に盛られている肉も、俺にしてみれば下水で『上』から投棄された死骸でしかなく……正直、あまり食べたいとは思えない。
この街が砂に埋もれていて農業なんて出来そうにない以上……野菜も似たようなモノだろう。
……だけど。
──腹は減ってるんだ、くそ。
……そう。
幾ら俺が破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身だからと言っても、何も食べずに延々といられる訳もない。
ここ数日間はろくなものを食べていない所為か……そろそろ空腹も耐え難い苦痛に変わり始めている。
いや、飢えている割には悪くない身体の調子を考えると、恐らくは年単位で食べなくても死にはしないだろうけれど……本体である俺自身が飢えに耐えられない自信がある。
ついでに言うと、周囲の子供たちは俺が食事に手を付けるのをジッと見つめていて……このまま食べないという訳にもいかないのが現実だった。
「ええい、口に入れりゃ一緒だ、畜生っ!」
結局、俺は周囲の視線と空腹に耐えかね、その野菜炒めらしき料理を口に運ぶ。
……相変わらず、臭い。
口に入れた感想は、まずソレだった。
肉の鮮度の所為か野菜の所為か、それとも料理するための水の所為か……兎に角、生ゴミ臭さは相変わらず凄まじく、口に入れた途端、俺は顔をしかめていた。
……だけど。
──美味いっ!
口に入れた途端に舌を刺激したその味は、現代日本の料理に慣れ切った俺でさえもそう内心で叫ぶほど、感動的な味だった。
──塩が、こんなに美味いとはっ!
……そう。
種を明かせばただそれだけ……昨日とは違い、ただ肉と野菜に塩で味付けがされていただけなのである。
だけど、『ただそれだけ』が大きな違いだった。
砂漠を歩き続けて汗を大量に流し、今日も暴れてきた俺にとって、この塩という味は最高の調味料だったのだ。
──前の世界であれだけ忌々しかったあの塩味が、今はこんなに美味いなんてなぁ。
ついでに言うと、空腹という調味料もその感動を加算していたのだろう。
兎に角、一口で俺はその料理の虜になり……次から次へと料理を口に運ぶ。
口へ運ぶ度、凄まじい臭気が鼻を突くが……今はそれよりもこの塩気を取るのが最優先だった。
「うわ、やばい」
「はやくしないとなくなっちゃうっ!」
子供たちも俺の勢いに危機感を抱いたのか、慌てて料理へと喰らいつき……そしてその塩味にあっさりと魂を奪われたらしい。
一口味わった子供たちは、それ以上物も言わず、ただ料理を一心不乱にかけ込み続けたのだから。
「ちょ、ガル。あんたたちも。
こんなにあるんだから、そんなに急がなくても……」
呆れたかのようなテテの声に手を止めた俺は、ふと疑問を抱く。
「そう言えば、テテ。
塩なんてどうしたんだ?」
冷静に考えてみればそうなのだ。
前の料理が腐った野菜と肉の味しかしなかったと言うことは、塩などの調味料すら入っていなかったということである。
つまり……昨日の時点では、この家には塩なんてなかったのだ。
塩を買えないほど貧しいのか、砂漠ばかりの所為で『下』じゃ塩すらもろくにないのか。
俺がそう考えた、その時だった。
「何言ってるんだい、ガル。
あんたが作ったんじゃないか……リリの足で」
テテの答えはそんな簡単で、そして分かりやすいものだった。
その『事実』に気付いた俺は、俺の隣に座っている少女へと視線を移す。
「……ぁ」
リリという名の片足の少女は、俺に見つめられた途端、すぐに俯いてしまう。
ワンピースの裾を押さえ、さっきからチラチラと見えていた……その無くなった足の先を隠すようにしながら。
ただ、その耳が真っ赤に染まっていたのは、一体どういう心理なのやら。
少女がどういう意図で俯いたかは兎も角、一つだけはっきりと分かったことがあった。
──聞くんじゃなかった、畜生。
現代日本人の感性を有する俺が、少女の足で……自分がぶった切った少女の足で出来た塩を食べたいなんて思える訳もない。
しかも今朝、足を失ったことでリリが歩くのにも苦労しているのを、水を汲みに行ったその場で見せられたばかりなのだ。
その事実を前に俺の食欲は、瞬く間に萎んでしまっていた。
「あれ、ガル? もう良いのかい?
意外と小食じゃないか」
「……まぁ、な」
こういう環境で暮らしているテテには、俺の繊細な心なんて理解出来ないのだろう。
彼女は本気で思い当たる節もないという表情で、食事を終えた俺を見つめてくる。
俺はそんな彼女の視線を振り切ると……そのまま昨日の寝室へと入っていた。
「ったく、またこうなるのかよ……」
ベッドへ大の字で寝転がった俺は、思わずそう呟いていた。
以前……あの塩の世界で食べ続けた臓物のスープを……子供を食べていたあの味を思い出してしまったからだ。
この世界でも子供の身体を食べてしまうとは……そしてそれが極上の調味料のように美味く感じてしまうとは……
──本気で味覚、狂ってんじゃないだろうな、畜生っ!
子供以外を受け付けない化け物に成り下がる自分を想像した俺は、内心でそう吐き捨てていた。
ただ、まぁ、杞憂に過ぎないだろう。
さっきの料理が美味く感じられたのは、あくまでも足りなかった塩味が追加されたからに過ぎない。
そう考えると……折角食べられる料理が出たのだ。
もうちょっとくらい食べておくんだったと悔やまれる。
「ま、腹六分ってところか」
ただ、まぁ、あの料理もリリの足で味付けされているということを気にしなければ、食べられないことはない。
これならもう二日くらいは……機師試験に受かるまで飢え続けるような真似はしなくて済むだろう。
「なら、もう寝るか」
灯りもろくにないこの世界。
日が暮れてしまえば真っ暗になって、どうせ何も出来ないのだ。
俺はそう呟くと上体を起こし、今朝汲んできた甕の水をコップ一つ一気に飲み干す。
「……まずっ」
濾過くらいはしているにも関わらず、その水は相変わらず下水の匂いが鼻を突く、酷い味だった。
が、水は水。
一食二食程度抜いても死にはしない食事とは違い、こちらの方は生命に直結しかねない。
俺はその不味い水をもう三杯ほど息を止めて飲み干し……
テテたちが食べ終わるのを待つこともせず、ベッドに大の字で転がると、そのまま目を閉じて夢の世界へと旅立ったのだった。