弐・第一章 第二話
……砂漠の旅は困難を極めた。
──何しろ、水がない。
──何しろ、食料がない。
──何しろ、制服のままである。
正直な話、ンディアナガルの力を手にしている俺は、百万の敵と相対しても勝つ自信がある。
事実、俺は軍勢に勝利したことも巨大な砦を落としたこともある。
だが生憎と……そんな俺にとっても、『ただ歩くだけ』というのは至難を極める作業だった。
何しろ……ただ足を前に運ぶだけの作業を、水も日陰もない炎天下、延々と続けなければならないのである。
……しかも。
俺の膂力が幾ら凄まじいと言えど『足を使って歩く』以上、一歩につき歩幅以上の距離を稼ぐことは出来ないのだ。
つまり、遥か彼方に見える島に向けて……ただただ延々と延々と足を運び続けることしか出来ない。
巨大な砂山を小さじで延々と運んでいるような、徒労感溢れるその作業は……俺の体力よりも先に、気力を奪い尽くしていたのだ。
「畜生、何なんだよ、コレは……」
二時間ほど歩いたところで、俺の気力は既に尽きていた。
体力云々以前に、いつまで経っても終わりのない苦行にやる気が失せて座り込む。
太陽に熱せられた砂は、洒落にならないほど熱く……座り込むだけで腰は熱く居心地が悪いことこの上ない。
しかも……太陽は座り込んだ俺へと容赦なく照り付けてくる。
早い話が、座り込んだところで……状況は何一つ改善していないのである。
「来るんじゃ、なかった、畜生……」
俺は天を仰ぎ、太陽を睨み付けながらそうぼやく。
だけど……睨んだところで照りつける太陽は弱まる気配すら見せない。
それどころか、この周囲には動物の気配すら存在していないらしい。
サソリ一匹、サボテン一つ見えない砂漠を見渡すだけで、このまま座り込んでいるだけじゃ、ただ干からびて死を待つだけだと……あまり頭の良くない俺でも嫌が応でも理解出来てしまう。
……水が欲しい。
──でも周囲には何もない。
……腹が減った。
──でも周囲には何もない。
結局、ここで干からびて死ぬのが嫌ならば……歩かなければどうしようもないのだ。
「畜生、来るんじゃなかった。
ああ、来るんじゃなかった」
俺はそうぼやきながら立ち上がり……
まっすぐに蜃気楼の向こうに浮かぶ島の影を目指し、ただ延々と足を運ぶ作業を再開し始めたのだった。
そして、俺は砂漠を延々と歩き続け……
凡そ、丸一日の時間が経過していた。
日が暮れてからは寒さに凍えながら歩いて太陽を待ち望み。
太陽が出て来てからはまたしても熱さに辟易しながら。
それでも歩いて歩いて歩いて歩いて、歩き疲れてもう砂なんて見たくもないと心底考え始める。
……だけど。
──それでも俺は帰ろうとは思わなかった。
ンディアナガルが重なり合っていると分かった以上、俺の右腕の『空間を切り裂ける爪』はいつでも発動できるだろう。
それを使えばいつでも元の世界へ戻れるに違いない。
渇いて飢えて疲れて草臥れて熱くて寒くて、もうどうしようもないほどこの砂だらけの世界が嫌になっていると言うのに。
──それでも、俺は帰ろうとは思わない。
だって、やり直せるかもしれないから。
だって、今度こそは誰かを助ける結末を向けられるかもしれないから。
俺の中にぐずぐずと残っていたあの塩だらけの世界で向けた【鏖殺】という結末が、俺の脚を前へと運ぶ。
熱いのに。
寒いのに。
疲れているのに。
帰りたいのに。
それでも、俺は帰るという手段を選べず、ただ足を前へと運び続ける。
そうして俺は歩いて歩いて歩いて歩いて……
俺はようやく、巨大な島の近くまでたどり着いたのだった。
「やっと、着いた……」
俺はその巨大な島を見上げながら、そんな感嘆をため息と共に吐き出していた。
見上げる俺の眼前にあるのは、切り立った崖……としか言いようのない斜面である。
……だけど。
どう見ても……その巨大な島へ上がる入口なんて、この場所には存在していない。
──まだ、歩けってか?
俺は絶望的なその事実に気付いた瞬間、凍り付いていた。
この島に向けてただまっすぐに歩いて来た所為だろう。
……どうやら俺がたどり着いたのは、突き刺さった巨島の真横らしい。
よくよく周囲を見渡してみれば、この辺りの砂漠には、岩らしきものが幾つも刺さっているのが見える。
だけど……島の端が落ちてきたようにも見えるその岩々を登ったところで……島の上の、人が住んでいそうな場所へとたどり着けそうにはない。
この斜めに突き刺さった巨大な島に登るには……ぐるっと回って砂場に刺さっているところまで歩いて行かなければならないようだ。
……だけど。
──勘弁、してくれっ!
一度、目的地に到着したと思い込んだ俺の身体は、もう休息を求めていた。
この辺り一帯は巨島の日陰になっているということもあり……俺は近くに転がっている岩に座り込んでしまう。
丸一日、延々と歩き続けた所為だろう。
咽喉はカラカラで身体は熱っぽく、全身は歩き続けた疲労で重い。
熱射病や日射病、脱水症状になっていないのは、単に俺が重なり合う破壊と殺戮の神によって守られているから、としか考えられない。
しかも……ここへ至るまで一定の水も食料になりそうなモノの一つすら見かけなかった。
そもそも生き物らしき存在ですら、影も形も見えやしない。
「……ったく。
どうなってるんだよ、この世界は……」
俺はため息と共にそんな愚痴を吐き出した。
……その時、だった。
ふと視線を感じて顔を上げると……
──少女が一人、岩の上に座り込んでいた。
歳の頃は十代前半、だろうか?
貧しいのか酷く痩せていて、服もボロボロの布きれ一枚。
少女の容姿については……綺麗かどうかよりも、まず「小汚い」「痩せぎす」という感想が浮かぶだろう。
そんな少女が何故……こんな砂漠のど真ん中の、ちっぽけな岩場の上で、近くの柱にもたれかかるように座り込んでいるのだろう?
「……やぁ」
何処となく不自然さを感じつつも、俺は精いっぱい愛想良く少女に呼びかけていた。
何しろ……この世界の住人とのファーストコンタクトである。
この第一種接触こそが、この世界で俺が上手くやっていけるかどうかを占う試金石のような気がしていたのだ。
……少なくとも、この時は。
──だけど。
俺は、気付いてしまった。
少女の右足が……真紅に染まっていることを。
少女の瞳が……絶望に染まっていることを。
その瞳は泣き腫らしたらしく真っ赤に染まり、悲鳴を既に上げ尽くしたのか少女が口を開いても声は出ない。
そして……真紅に染まるその少女の右足には……鋼鉄製の捻じ曲がった鉤爪が突き立てられていたのだ。
──アレは、釣り針、か?
ふと、少女の脚を穿つ針を見た俺は、そんな感想を抱いていた。
捻じ曲がり、反しのついた……一度咥えると離れない、針。
その針は鎖で繋がれ……少女がもたれていた柱に、直下の岩に深々と突き刺さっている鋼鉄の柱に結ばれていた。
何故そんなものが少女に足に刺さっていたのかなんて……そんな疑問は少女の真紅の脚を見た瞬間、俺の頭の中から吹っ飛んでいた。
「お、おい!
大丈夫かっ!」
慌てて俺は叫びながら少女に駆け寄る。
そのまま少女の逃げるような、拒絶するような動きにも構わず、俺はその怪我をした足を掴んで見つめる。
どうやら針は少女のふくらはぎを見事に貫通しているようだった。
しかも少女は、数時間以上前に刺さったその針を抜こうと様々な努力していたらしく、傷跡は開き膿み皮膚はめくれ……正直、痛々しくて見ていられない有様だった。
思わずその痛々しい傷跡に、俺は眉を顰める。
……そんな俺を、少女はどう思ったのだろう?
「……てっ」
突然、少女は大きく口を開いて何かを叫んだ、らしい。
だけど……叫び枯らした少女の咽喉は……生憎と声を紡がなかった。
出血多量による貧血と脱水症状も原因の一つかもしれない。
ただ……俺の背後を見つめる少女の瞳が、その恐怖に歪んだ顔が……俺の背後に『何か』が迫っているのを教えてくれていた。
「……何だ?」
少女の視線を辿り背後を振り向いた俺は……
「~~~~っ?」
思わず声にならない叫びを上げていた。
そこにはいつの間にか……砂漠から『紅色の蚯蚓』が生えていたのだ。
──いや、コレを蚯蚓と呼んで良いものだろうか?
その長さは俺の身長を三・四倍ほど。
身体の太さは俺が丸々ソレを着込めるほどに太く。
しかも……その先端には牛を丸々と喰い切りそうなほどの、凄まじく鋭利な牙が生えている。
その化け物はどう見ても土を食べる無害な蚯蚓と言うよりは……明らかに肉を食むために特化した猛獣という様相で。
「なん、だよ、コレはっ!」
見たこともない化け物が突然、背後の砂漠から生えていたという『あり得ない光景』に、俺は反射的にビビッてしまい、完全にパニック状態だった。
……そう。
俺は前の塩漠にて戦闘経験を積んできたつもりだった。
──飛んで来る矢に慣れた。
──鋼鉄の武器にも慣れた。
──集団の圧力にも慣れた。
……だけど。
「化け物を相手にするなんて、聞いてねぇぞっ!」
その蚯蚓のような化け物が、巨大な牙を生やした口を大きく広げてこちらに迫ってくるという、B級モンスターパニック映画でしか見られないその光景に、俺は慌てふためいて叫ぶ。
叫びながらも、その場から逃げようと踵を返す。
……いや。
踵を返そうとした。
「~~~っ?」
……だけど。
背後を振り返ろうとしたその瞬間に、気付く。
俺の背後にいるのは、ちっぽけで無力な十代前半の少女だと言うことを。
そして……
──俺は、誰かを助けたくて、この世界まで、来たんだろうがっ!
俺は内心でそう叫ぶことで、なけなしの勇気を振り絞る。
振り絞ったその勇気で、俺は後退の螺子を脳から外し、大きく腰を落として大地を踏みしめる。
とは言え……一瞬逃げようとした分、俺の反応は遅れていた。
もう眼前には……巨大な化け物の口が迫っている!
「がぁああああああああっ!」
咄嗟に俺が出来たことと言えば、その巨大な牙だらけの口を、両の腕で必死に掴んで食い止め……喰われないようにすることだけだった。
俺はその、人間なんてぼろ雑巾のように変えてしまいそうな鋭利な牙を掴むことで、牛をも真っ二つに引き千切りそうな顎を必死に食い止める。
──破壊と殺戮の神として覚醒した俺の膂力は伊達ではない。
巨大なその蟲を俺は膂力だけで食い止めていた。
……だけど。
「ち、く、しょうっ!
くせぇえええええんだよぉぉおおおおっ!!」
蟲の口臭は、凄まじく臭かった。
ここへ来る前に嗅いでしまった、生ごみとか酔っ払いの吐瀉物とか、そんな生易しいものじゃない。
一月もの間放っておいて腐敗した肉に、ナメクジの汁を煮詰めたエグい香りをブレンドしたような……と、勝手に思う。
勿論俺は、一か月モノの腐敗した肉を嗅いだこともなければ、ナメクジの汁を煮詰めたこともなかったが。
「がぁああああああああああっ!」
あまりの臭いに耐えかねた俺は、力ずくでその化け物を力任せに引っこ抜いていた。
俺の膂力は、牛をも飲み込めそうな、数トンほどもあるだろうその化け物を軽々と砂漠から引っこ抜き、中空へと引っ張り出す。
「くそがぁああああっ!」
そのまま、苛立ち紛れに俺は叫びながらも、両の腕を大きく開く。
──その化け物の、顎ごと。
ブチブチとゴムを引き千切るような感触と共に、化け物の顎が裂ける。
裂け目からは皮、筋肉、肉らしきピンク色が窺えたが、すぐに傷口から噴き出た真紅の体液によって傷口は隠れていた。
そして……化け物を頭上で引き千切った俺にも、その真紅の体液は振りかかってくる。
「ぐあぁっ!
コレも臭せぇっ!」
さっき嗅いだ悪臭を、更に数倍にしたような刺激臭が俺の顔面へと襲い掛かる。
鋼の剣にも百を超える矢をも弾き返す俺でも、その匂いには耐えきれず……慌ててその巨大蚯蚓をその辺に放り捨てる。
俺の両腕から解放された化け物は、顔面を引き裂かれた激痛に耐えかねてか、それとも本能的な動きか……砂に潜ろうと地上をのたうち回り始める。
だが、どうやら砂に入るためにはその口を使わなければならないらしく、裂けたその顎が邪魔して砂の中には戻れないらしい。
砂煙と同時に何か変な白い煙を上げつつ、化け物は砂の上で暴れ回っていた。
「ったく、何だったんだ……」
化け物が砂の上でのたうち回っているのを眺めながら、俺はそう呟いていた。
驚かされた分の報復をしてやったつもりだが……それでも無敵であるハズの自分が驚かされたという苛立ちは隠せない。
「畜生、臭せぇっ!
何なんだよ、こりゃああっ!」
だが、すぐに俺の意識はそんな苛立ちよりも、顔や手に浴びた化け物の体液が放つ、凄まじい悪臭の方へと向けられることになった。
正直、臭いなんてもんじゃないソレを洗おうと周囲を見渡すが、生憎とここは、足元の砂しか使えない。
「砂しかないのかよ、畜生っ!」
俺は慌てて顔と手を砂で洗う。
日光で熱せられた砂は凄まじく熱かったが……この悪臭よりは遥かにマシである。
「……ん?」
気付けば、その体液に砂が触れた途端、砂は白い煙を上げて溶けていたが……まぁ、この臭いが取れるんだったらもう何でも良い。
しばらくすると手や顔にこびりついた体液はその痕跡すらなくなっていた。
……未だに臭いが完全に取れた訳ではないが、まぁ、多少は我慢するしかないだろう。
「……ぁ、あぁ」
そんな俺に背後から突然、声がかけられる。
あの臭いにすっかり失念していたが、そう言えば俺は少女を守ろうとしてあの化け物と戦ったんだった。
恐る恐る自分を救った相手に手を伸ばしている、という様子の少女の、その隣に俺は無雑作にしゃがみ込むと……
「ったく。
ひでぇことしやがる」
その少女の脚を貫いていた鉄の針を、軽々とへし折った。
……いや、捻じ切ったというのが正しいのだろうか?
少なくとも親指ほどの太さの金属程度では、俺の膂力には耐えられないらしい。
「ぇ、ぇえぁ?」
自分がどんなに頑張ってもどうしようもなかったその針があっさりとへし折れたのを、少女は不思議な目で見つめていた。
だが、俺はそんな少女の視線を気にすることもなく、その右足にある、未だに針が突き刺さったままの傷跡を見つめていた。
……針が柔肌を貫き、皮が捲れ肉が抉れ傷口に砂が混じり、時間の経過の所為か、針と肉が癒着し始めている、その傷跡を。
──引っこ抜かない方が、良いよなぁ。
針は痛々しく、血は未だに流れ出ている。
……だけど。
それ以上、俺は何も出来なかった。
何しろ、俺は医者じゃない。
とある世界では『破壊と殺戮の神』なんて異名を貰った俺は、人を殺したり城壁を破壊することには慣れているが……誰かを治療するなんてこと、一度もしたことがなかったのだ。
……力ずくで引っこ抜くならどうとでもなると思うが、それは最後の手段である。
「ま、止血くらいはしないとな」
俺は少女が着ていたボロボロのワンピースの裾を引き千切ると、簡易の包帯を造り少女の脚に巻き付ける。
俺に医療的知識なんてない以上、ないよりはマシ、程度ではあるが。
「あ」
ついでにワンピースの裾を引き千切った所為か、少女の下着が丸見えになっていた。
恐らくは針を突き刺された時か、砂漠に放置されていた間に垂れ流した所為だろうか。
股間を中心として黄色に染まった、その文字通り小便臭い下着を見ても……生憎と俺は全く何も感じることもない。
そのまま少女を軽々と肩に担ぐと、俺は立ち上がる。
──命を助けたんだから、飯と水にはありつけるだろう。
……という、打算まみれの思惑によって。
正直、ここまで歩いて来るので俺はもう飢えと渇きの極致にあったのだ。
その程度の打算くらい、まぁ、許して貰えるだろう。
勿論、このままじゃ歩けない少女を放っておけないという慈悲もあったのだが。
「さて。
お前の家はどっちだ?」
そうして俺は少女の指差すがまま、岩が転がる砂漠の中を歩き始めたのだった。