陸・第六章 第三話
ンディアナガルを名乗る少女の提案を聞いた俺は、「何一つ問題ない筈の彼女の提案」を何故か素直に受け入れることが出来ず……目を閉じて「何が気に入らないか」に思考を巡らせる。
正直俺は、頷いても良いと思っていた。
少々世界が辺鄙で、他の人たちがいないにしても……そして自分の娘を名乗る相手だったとしても、眼前の少女が自分の娘という感覚は俺にはなく。
つまりは倫理観が邪魔をすることはなく……考え付く限り、俺が彼女の提案を受け入れられない理由なんて何処にも存在しないのだから。
だけど……何かが引っかかっているのだ。
言葉には出来ないけれど……俺が素直に彼女を受け入れられない理由が『何か』ある筈なのだ。
「何を考える必要があるの、パパ?
だって、何も悪いことなんてないじゃない」
そんな俺の様子に苛立ったのか、唇を尖らせながら少女はそう呟く。
「ここ以外に世界はないし。
この完璧な世界の「外」はない。
その上……ここには、ボクとパパ以外に生きている存在は誰一人としていないんだよ?」
少女の手は、文字通り霞むほど遥か遠くにある天井を……彼女の言葉が正しいながら、上の方にある「大地」を指差しながら、そう告げる。
その言葉は、恐らく正しいのだろう。
こうして見渡す限り、どれだけ遠いのかすら理解出来ないほど遠くまで大地は続いていて、大地は卵の内側の形に……つまりがこの完璧なる世界を覆うように広がっていて、そもそも「地平線という概念がない」のだから、距離を測ろうにもどうしようもない。
そんな全てが目視出来る世界の中で、動く者と言えば俺と少女の二人きり……彼女の言う通り、この「完璧な世界」には、俺と彼女しか存在していない。
「そして、ボクはパパを愛してる。
この身体はラーウェアママが読み取って創ったパパの理想。
ま、元々身体なんて好き勝手に出来るんだから、容姿なんて関係ないんだけどさ」
少女はそう笑うと、女子中学生高学年風だったその姿がわずか二秒ほどで女子高生風に成長し……挙句、その次の瞬間にはまるで女子大生としか思えないほどに形を変えていた。
そればかりか、肩口辺りまでだった髪さえも、もはや不気味とも言える速度で伸び縮みしていて……未だに人間の感覚を残していて「容姿なんて関係ない」とは割り切れない俺は、その無貌とも言える変化に、思わず半歩ほど後ずさってしまう。
「どうしたの、パパ?
ほら、この完璧な世界にはもう戦う相手もしないし、守るべき存在もいないんだよ?
まぁ……そういうのが欲しかったら創っても面白いかもね」
ンディアナガルを名乗る少女……いや、俺自身ももういい加減に「そのもの」だと認めつつある眼前の少女は、そう無邪気に笑いながら右腕を一振りすると、手のひらの上に人の頭蓋を丸呑みできそうなサイズの、真紅の龍の顔を創り出していた。
尤も、開いていたその右手を閉じるだけで、龍の顔はすぐさま血と肉とに分離して破裂し……塩の塊へと変わり、消え去ってしまったが。
「うん、愛人だろうと敵だろうと護るべき者だろうと玩具だろうと、このボクが創ってあげる。
それに、エントロピーから解き放たれたこの場所では、もう寒くもならないんだから。
だから、パパ。
……一緒に暮らそう。
ここで、永遠に、ずっと……今までみたいに二人でさ」
少女が両手を広げて俺に向けるそれは……恐らく最大にして最高の誘惑だった。
断る理由は……何一つとして存在しない。
何しろ、この世界、彼女以外には誰もおらず。
若干幼すぎる感はあるものの、彼女は間違いなく美少女に分類される部類の存在で。
成長することも若返ることも……いや、そもそもの容姿すら自由自在な彼女ならば、拒む理由すら見当たらない。
──その上、何でも創り出せる。
正確には、破壊と殺戮の神ンディアナガルの中にあった、破壊と創造の力の内、彼女が創造の力を持って行ったというだけなのだが。
その力を持って思うが儘に何だろうと……戦おうと思えば戦う相手を、誰か他の女が欲しければ浮気も出来て、神と讃えられることも、隠者としてひっそりと人々を見守ることも、いたずらに創り上げた文明を全てを破壊して遊ぶことでさえも可能だろう。
むしろ、退屈しのぎのためにそういう遊びを手伝ってくれると言っているのだから、これ以上、俺を甘やかしてくれる相手なんてどう探しても見つからないと断言できる。
──しかも、相性は抜群だ。
この完璧な世界に来るまでの間、ンディアナガルとして俺と共にあったのだから、性格の不一致もない……いや、そもそも今まで劣悪な異世界環境の中でずっと一緒にいたのだから、これからも共に存在し続けることが当然のようにも思える。
ついでに言うと、生まれた時から俺と共にいた……と言うより、俺の中から生まれた訳だから、他の男の影もない、文字通り純真無垢な乙女だろう。
俺が望んでいた全ての要素を取り備えた少女と共に、この限りなく広い完璧な世界で無限の時を共に生きる。
正直……断る理由なんて何一つとして存在していない。
──だけど……
だけど、俺は頷けない。
何かが……俺の中の何かが、彼女の存在を受け入れることを拒んでいる。
「どうしたの?
まぁ……コレじゃ、雰囲気ないかなぁ?」
俺の中の躊躇いを別の理由だと勘違いしたのだろう。
少女は困ったようにそう笑うと……全てを創造出来るその万能の両手を、特に気負った様子もなく、何気なく大地へと向ける。
たったのそれだけで、何もなかった完璧な世界には王様が寝泊まりしているような、高級そうなベッドが一つ、突如として現れた。
そのベッドの周囲十メートルくらいには良く分からない色とりどりの花が咲き乱れ……室内やら屋外やら分からない、何とも言えない奇妙な空間がその場に創られていた。
──ああ、コイツ。
──俺と同レベルだ。
そんなどうしようもない光景を見た俺は、何となく眼前のンディアナガルと名乗る少女が自分の娘だと……本当に何となく納得してしまう。
何故ならば雰囲気の良い、ロマンチックとかいう「異性を口説く状況」というヤツを俺が思い浮かべた場合、こういう風に高級そうなベッドと色とりどりの花が真っ先に出て来るから、である。
それらを整合性も考えず、ただ言われた通り、必要だと感じた通りにただ並べただけのその光景に……俺はようやく彼女を「自分が今まで共に旅し、育ててきた相棒」だと理解していた。
「ああ、そうだ、な。
お前は、俺の相棒、だ」
「うん、そうだよ、パパ。
ボクのこと、やっと分かってくれたんだ?」
ようやく彼女の存在を認めたような俺の言葉に、ンディアナガルは……ラーウェアの因子だけではなく、恐らくは俺の因子すらも混ざっているのだろうその少女は、満面の笑みを浮かべると……俺の首に手をまわして抱きついてくる。
その仕草、その動作……こうして至近距離で少女の顔を見つめると、こうして触れ合っていると、眼前の少女が紛れもなく「俺の因子を受け継ぎ、俺と共に数多の世界を旅し、俺が育ててきた俺の娘である」というのが分かる。
……分かって、しまう。
そして、同時に……何故俺が、彼女を受け入れることが出来なかったかという、その理由さえも。
「じゃあ、早速……ボクと愛し合おう?
パパの望みがボクの望み。
パパはこのために頑張ってきたんだよね?」
「……ああ」
……そう。
俺は、そのために頑張ってきた。
あの塩の荒野で、蟲の砂漠で、腐泥の森で、空の浮島で、氷に閉ざされた地下世界で、水没する世界で、石の風が吹く世界で、全てが燃え尽きる世界で……そして、光を喰らいながら無限に旅した宇宙でさえも。
人を守りたいとか悲劇を繰り返したくないとか、他にも色々目的はあったものの……ソレこそ、俺が旅を続ける目的の一つだったことは紛れもない事実である。
そうして自らの行動原理を再確認した俺は、眼前の少女の顔を……その瞳へと視線を向ける。
そこには、ラーウェアと良く似た、こちらをまっすぐに見つめる少女の瞳があり……そして、その瞳の中には「俺が彼女を受け入れられない理由」が写っていた。
その所為で俺は、少女と瞳を合わせただけでも……ただただ嫌悪感しか湧いてこないのだ。
だから俺は目を閉じると……
「……ぇ?」
……それらの未練、全てを断ち切るために、渾身の力で右腕を突き出した。
「……どう、して?」
その掠れたような問いかける言葉が耳に入ってからようやく俺は目蓋を開き、自らの罪を……少女の胸を貫いている、俺自身の右腕をこの目に焼き付ける。
俺の腕に胸を貫かれた少女は、自分の身に起こった悲劇を信じられない様子で、俺の顔をまっすぐに見つめていた。
その瞳には、俺に対する恨みも憎しみも嫌悪もなく、ただ悲しみしか映っていないのが……何故か俺の胸を痛ませる。
「誰かと愛し合いたいから……誰かに愛して貰いたいから、パパは頑張って来たんだよね?
知ってるよ。
ボクはずっと一緒だったんだから」
「ああ、そうだな」
やはり彼女は神なのだろう。
胸を腕で貫かれていながら……確実に致命傷を受けているというのに、即死することもなく俺に向けてそう尋ねてくる。
その口ぶりに怒りがない事実が、少女の誘いを断ち切った俺には余計に重く圧し掛かる。
「ボクが創造の力を持ってるから……パパはもう、創り出せないんだよ?」
「……知ってる」
それも俺は何となく分かっていた。
俺と存在を重ね合わせていたンディアナガルが母役を行うため、創造の力を持って行った時点で……俺はもう何も創り出すことが出来ない、と。
恐らく、宇宙空間で感じたあの耐えがたい寒さは……宇宙空間によって体温を奪われていたこともあるが、それよりも彼女が創造の権能を自分に、破壊の権能を俺に集めていたのが原因なのだろう。
そうして身体を作り変えることにエネルギーを費やしていたから、俺はエネルギーが減っていく感覚を寒さとして感じていたに違いない。
「この完璧な世界……パパ以外には、ボクしかいないんだよ?」
「……分かってる」
そして、少女が告げるその言葉も、俺は嫌というほど理解していた。
何しろ、この「完璧な世界」とやらは、こうして周囲を見渡したところで、何一つとして動くものが見当たらないのだ。
だからこそ、分かってしまう。
俺が如何に愚かな選択肢を取ったか、ということも。
……だけど。
「だけど……愛せないんだよ。
お前を……いや、お前の中に、この俺がいる限り」
何もかもを放棄した、最も愚かな行動は……それが、理由の全て、だった。
……そう。
共に旅を続けていた相棒であろうと、理想の彼女であろうと、純真の乙女だろうと、何もかも叶えてくれる女性だろうと。
彼女の中に俺自身が見えてしまった時点で……全世界で俺が最も嫌いな存在の影が見えてしまった時点で、愛情の対象にはなり得ない。
「……そっか。
ダメ、か……ああ、残念だ、なぁ」
「ああ、そうだな」
自らの死よりも、理想の未来を手に入れられなかった嘆きを口にする少女に……形的には少女を振った俺はただそう頷くことしか出来ない。
だけど……どう頑張っても無理なものは無理なのだ。
この嫌悪感を無理に呑みこんで彼女を受け入れたところで、彼女が在り続ける限り俺は無理を強いられ……そんな生活はいずれ破綻していただろうと予想出来る。
「実のところ……そうじゃないかとは思ってたんだ。
万能である筈の、祖父の権能が通じなかった時に。
だけど、パパの権能はパパを容易く切り裂いたあの時に」
ンディアナガルが何の意図があってそんな話を持ち出してくるか心当たりがなかった俺は一瞬だけ悩み……そしてすぐさま理解する。
確かに俺は、戦いで真っ当に傷付くことなどなかった。
ンディアナガルと完全に存在を一体化させた後は特に……いつだったか、ランファクェーニに左腕を斬り落された時に感じたのが記憶に新しい。
そして、創造神たる髭爺に胸を貫かれた時も同じだった。
あの時の俺は、アレをンディアナガル本体が強大になり過ぎた所為でダメージを喰らわなかったと思っていたし……勿論、それこそが他の神を一方的に討って行ったことの理由だろう。
だけど、実際のところ、アイツらは俺とほぼ同格か格上だったというのに……その格上相手から受けたダメージは明らかに痛みが「遠かった」のだ。
本来であれば、創造神の力は俺に対して特別にダメージを通す効力があるにも関わらず、だ。
もしかするとンディアナガル自体が防御に特化した権能を持っているのかもしれないが……
──そうすると、あの時、簡単に自害出来たのがおかしい。
その時よりも遥かに権能が増した宇宙空間で、俺の『爪』はあっさりとンディアナガルの権能を突き破り、俺の命を奪った。
それを考えると、恐らくンディアナガルの権能が防御に特化していると言うよりは、その防御構造自体が「特定の対象からの攻撃には非常に弱い」という呪いじみた防御力の対価として「それ以外の攻撃への耐性を持つ」という、歪な構造になっていたのではないだろうか?
そう仮定すると色々と辻褄が合ってしまうのだが……それもこれも、ンディアナガルを始めとする破壊の神が持つ権能が「『最も殺したい相手』に対して特化している」ことに由来しているんじゃないだろうか?
事実、俺が殺してきた破壊の神連中ってのはそういう奴等ばっかりだった。
ンディアナガルは世界の全てを枯死させるために塩を撒く権能を、蟲皇ンガルドゥームは全てを砂漠とするため喰らったモノを砂へと変える権能を。
腐神ンヴェルトゥーサはあの緑豊かだった世界を腐らせ滅ぼすため泥に巣食う蚊の形を取り、无命公主は好き勝手に戦う奴らを戦いの中で皆殺しにするため死人兵を動かす権能を持っていた。
他にも、海に沈める石へと化す炎で焼き尽くす……己の恨みを果たすためにこそ、恨みの対象である世界そのものを壊し殺し尽くすためにこそ、破壊の神は存在していた。
そして、それらの攻撃的な権能の裏側で、蟲皇は砂に住む人々には抗えない蟲に護られていたし、腐神は腐泥と同化して木々を燃やすという発想が出来ないあの世界の人々には抗えない身体を持ち、无命公主とは戦ってないので記憶にないが、海没世界のンスラヴァーリは海中に潜みあの世界の人々の手が届かない場所に棲むなど……恨んだ相手に対して最も効果的な防御手段を手にしていたように思う。
ついでに言うと、その恨みを果たしたと満足するや否や、連中は極端に無力化し……実のところ、蟲皇と腐神を滅ぼせたのは相手が弱体化したから、というのが大きい。
だからこそ全ての創造神は俺の失敗を論い、心からへし折ろうとしていたのだろうが……
──だけど……
そもそも俺には、特定の世界への恨みなんてなかった。
もし本当に召喚された時点で呟いていたように、世界の全てに恨みがあったのならば、地球の人類全てを殺した時点で……あの滅んだ世界が地球だったと気付いた時点で弱体化し、創造神ラーディヌゥクオルン=ヴァルサッカラーヴェウスに滅ぼされなければならなかったのだ。
「本当は、ボクはあそこで顕現する筈だったんだよ。
そもそも、ボクの持つ『簒奪』の権能の、「自分と同等の相手を殺せばその命を奪い取る」……要するに、生き返りの手段は、あの瞬間のために用意されていたんだ。
だからこそボクは、パパが一度目に死んだタイミングで生まれるように、プログラミングされていて……そうしてお爺様を弑し、二人で新たな世界を創っていく予定だったんだ」
そして……ンディアナガルが語る通り、ラーウェアの計算では俺はあそこで死んでいるべき、だったのだろう。
世界の全てに対して……人類の全てに対して恨み言を吐き捨てることしか出来なかったあの頃の俺の言葉が正しければ。
結果、殺された俺は権能によって甦り……同時にンディアナガルが具現化することで、あの髭爺を討ち、太陽圏内の質量を固めた今よりも小さな「完璧な世界」で、俺と相棒は二人幸せに暮らすという……ラーウェアはそんな計画を打ち立てていたのだろう。
だけど……そうはならなかった。
結果、顕現できずに慌てたンディアナガルが俺の身体の中の権能を組み替え始め……その所為で宇宙空間で俺が凍えることになったのが真相のようだが……
そんな事態を引き起こしたそもそもの、ラーウェアの最も大きく致命的な計算ミス。
それは……
「つまり、俺の憎悪の、本当の対象は……」
社会に適応できない恨みを人間全てにぶつけながら……人類の死滅と世界の崩壊を望みながら、気に入らない相手に呪詛と殺意を向けながら生きていながら。
俺が本当に殺したかったのは……
「矛盾してる、な」
いつかの世界で、誰かに言われた記憶が甦る。
──「貴様は矛盾の塊だ」と。
結局のところ、それが全てだったのだ。
俺自身が、一番殺したいのは……壊したかったのは、あんな小さな世界で何も出来ず呪詛を吐き捨てることしか出来なかった自分自身。
そんな自分を変えたいと思っているのに、変える努力すらも疎み、そもそも何をして良いかも分からず、ただ斜に構え、心の中だけで周りに苛立ちをぶつけ、孤立し……何も出来ない自分にますます憤るという下らない生き方しか出来なかった俺自身こそ、全宇宙の全ての生命体を殺してきた俺が最も殺してしまいたかった相手だった、という救いようのないオチだ。
──己自身を疎み嫌っている癖に、己自身の変革を嫌うという訳の分からない自己愛に満ちている。
──だからこそ、労苦を避け努力から逃げ現実からも逃げるばかりで変わることも出来ず、それでも中途半端な自己愛の所為で己を肯定することも出来ず。
──結局、何処にいようと何をしようと、貴様は満足することすら出来やしない。
だけど、それを認めることが出来ないからこそ……異世界への入り口なんて安易な逃げ道を見つけた途端、後先も考えずにただ手を伸ばし。
己自身を認められないからこそ、何にも満足できず……現状に満足できぬまま、自分自身が何を求めているかも分からないままにただ人智を超えた力を振るい、敵対する者を滅ぼし、矛盾し無軌道な暴力はやがて味方どころか周囲の何もかもを滅ぼし……
「くそったれ。
……あの、クソ爺の言葉が、正しかったって訳か」
酷く長い旅をして、ろくでもない遠回りを繰り返して、己自身をようやく理解した俺は、少女の胸から手を引き抜くと……力なくその場にしゃがみ込む。
──愛を求めながら愛せず。
──死と暴力を疎みながら死と暴力に逃げる。
──正しくありたいと望みながら、何が正しいかすら知らず。
──生きる美しさを認めながら、生きる醜さから目を逸らす。
──幸せを望みながらも、自らの幸せには視線を向けられず。
──そんな己自身を嫌いながら、己自身を変えようとすら思えない。
あの時は苛立ちと不快感によって耳を塞いでいたものの……結局俺は、あの髭爺が言った通りの生き方しか出来なかった訳だ。
事実、こうしてンディアナガルという、俺を打算なく愛してくれる理想の存在を眼前にしながら……自分自身が探し求めていたものに触れていながら……その少女の中にある自分自身の因子を忌み嫌い、俺は腕を突き立て、その理想を破壊することしか出来なかったのだから。
「ああ、済まないな、ンディアナガル。
俺の間抜けな一人芝居に今まで付き合ってくれて……」
「ううん、良いよ。
ボクはそのために創られたんだし……何よりもパパのためだからね」
こうなって初めて……いや、あの髭爺の言葉が正しければ、生み出されて初めてかもしれないが、ようやく自省をした俺は、長い間付き合ってくれたパートナーに謝罪の言葉を告げる。
それすらも全肯定し、命すら奪った俺をそう微笑んで赦す相棒の声に、俺は静かに頭を下げ……恐らく生まれてから初めての、心のこもった感謝と謝罪を声なく告げる。
勝手に湧き上がってくる涙と、口にしようとしても出てこない声に、何故か鬱陶しいとも情けないとも感じない。
そうして体感時間で数十秒が経った頃のことだった。
「でも、パパ。
……これからが大変だけど、頑張ってね?」
「……ん?」
そんな俺の心の内に荒れ狂っていた激情が収まったタイミングを見計らったのだろう。
ンディアナガルは静かにそう言葉を紡ぎ出した。
「だって、もうパパには創造の力はないんだよ?
この広大な世界に一人きりで」
少女のその言葉を聞いて、俺は慌てて顔を上げる。
空はなく……ただ上の大地が遥か遠くに霞んで見えるだけ。
その距離は分からず、その大きさは分からず……ただただ果てしない大きさが広がっているだろうことだけしか分からない。
「何も創り出すことも出来ないまま、寿命もない身体で一人きり生き続けなければならないんだ。
それに、ボクが死んでしまえば……『簒奪』は姿を消してしまう」
そして、次に発せられたその言葉で俺は自らの手を眺める。
人を殺してきた……ただ破壊と殺戮しか出来ない、ただの人でしかないその手を。
万能に思えた『創世』の権能は、今にも死にゆく少女が「新たな命を産む」ために俺の元から持ち去ってしまっている。
それはこのまま少女と共に破壊され……もう俺の元には戻らない。
「この世界が滅ぶのは……前にも言った通り。
宇宙開闢と熱的死を3,007万2,572回繰り返すまでだから」
それは嫌でも覚えている。
基本的に宇宙開闢から熱的死までが10の27乗……凡そ1,000「杼」年も続くらしいので、もうその数字は正直さっぱり理解出来ない時間でしかないが。
それを、三千万回繰り返さねければならない。
──そんなの……
──耐えられる、訳がない。
たった一人、ただ生き続けるなんて……そもそも正気を保てる筈がない。
そんな時間、何の救いもなくただ一人、延々とこの何もない完璧な世界で生き続けるくらいなら、もういっそのこと……
──いや、だけど。
一度味わったから分かるが……「死」というのはあんなにも痛くてあんなにも悲しくてあんなにも寒くて、あんなにも辛くて、もう二度と耐えられないほど苦痛と絶望に満ちた最悪の体験だったのだ。
アレを、もう一度味わうなんて……
「あの、ごめんね。
実は、パパ自身も簡単には死ねないんだ。
ンスラヴァーリの、海没する世界の海龍が持っていた権能……『死を超える者』で今まで殺した分、命のストックがあるから」
「……なん、だと?」
そうして老化という概念のないからこそ、「死」という苦痛と絶望を何とか受け入れて救われようと考えていた……そんな俺に向けられたのは、ンディアナガルが突き付ける最悪最低の現実、だった。
「本当だったら、ボクの『簒奪』だと同格の神を殺した分だけ、命のストックが出来る筈だったんだけど。
あんな権能を持ってるやつがいるなんて完全に計算外だったんだ。
だから今、パパが持ってる命は……24阿僧祇1,629恒河沙9,528極3,825載8,872正4,468澗2,925溝3,682穣7,714杼9,278垓4,465京3,237兆2,129億8,858万3,637もあって……」
もはや、数字そのものが訳が分からない。
訳が分からないが……俺が一秒に一回死に続けたとしても、その数字を死に切るのは宇宙開闢が始まって終わるまで続けたところで不可能じゃないんだろうか?
つまり、俺は誰もいない、何もない、退屈という名の地獄の時間をほぼ無限の時間耐え続けなければならないという……
「しかも、この「完璧な世界」を永遠とするために……パパが死んだときは、その死のエネルギーがこの世界構築のために使われるって保険を、顕現する寸前にボクがかけちゃったから。
パパは死に切るか、死なずに耐えるかのどっちかしかないんだ」
俺が脳内で必死に探していた救われる道を完全に断ち切ったのは……ずっと共に居続けたンディアナガルが更に突き付けた、慈悲の欠片もない現実だった。
つまり、こうして孤独にして最強となった俺が助かるためには……いや、終わるためには、あの想像すらもできない永劫の年月をただ生き続けるか……もしくは、その訳の分からない回数を死ななければならない。
たった一人、この何もない世界で退屈に過ごす日々の苦痛は想像すらつかないが……もう一方の「死」は味わったばかりなので想像が出来ることが逆に辛い。
死の苦痛を知っているということは……そんな理解すら及ばないほどの回数を、あの最悪の激痛と最低の絶望を味わい続けなければならないと理解出来てしまうことを意味する。
これは……誰かが蓄えた知識の中にある、無間地獄というヤツに等しい状況なんじゃないだろうか?
「もう、限界……みたい。
最期まで一緒にいられなくて、ごめんね、パパ」
「ま、待てっ、おいっ?」
事態に付いてこられない俺を嘲笑うかのように……ンディアナガルは殺された恨みを口にするでもなく、胸を貫かれた痛みを訴えるでもなく、ただ俺を案じるようにそう告げると、その姿を塩の塊へと変え、消えてしまう。
それは、本当に彼女の存在すらなかったかのように、その痕跡一つとして残さない完璧な消滅で……いっそンディアナガルという相棒が具現化したこと自体が幻だったんじゃないかと思えるほどだった。
「待て、おいっ。
冗談なんだろうっ?
冗談だと言えよ、おいっ!」
そして一人この完璧な世界に取り残された俺は……いや、違う。
「こっ、これの何処がっ完璧な世界だっ!」
ンディアナガルが消滅してしまったことで、変化が解けた……そう表現するしかないだろう光景が周囲には広がっていた。
一面を覆っていた真っ白な「何もない地面」は、いつの間にか人の死体、化け物の死体、腐った死体、獣の死体……兎に角一面の凄惨な死体で埋め尽くされていて。
これこそが、この完璧な世界の真実だったのだろう。
あの時、ンディアナガルを名乗る少女の言葉に頷いていれば、この地獄のような空間で仮初の幸せだけを手に、騙されて生き続けていたのだと思わされるその世界は……文字通り俺と相棒とが共に歩み築き上げた世界に相応しい……救いようのない光景だった。
──いや、それでも良かったのか?
もしも騙されたのだとしても……生涯騙され続けるのならば、それは真実と何が違うのだろう?
そして……永遠に騙され続けるならば、それはとても幸せな結末だったに違いない。
だけど、自分自身を認められず、更には少女を手にかけ、こうして図らずとも真実と向き合う道を選んでしまった……眼前に広がる地獄のような光景と救いの欠片もない未来に、俺はただ悲鳴を上げることしか出来なかった。
──いや、ただ、消えた筈だ。
──俺自身が、それだけ生き返られるんだから……アイツだって。
自分で殺していながら……何とかって水没龍の権能があるなら、あの少女にも同じように命のストックがある筈だと。
俺は何とか救いを求め、自分自身すら騙せない嘘を、声にならない声で自分自身に告げる。
──いや、アイツがいなかったとしても。
──この広い世界の、死体の山の中に、どこかに、誰か一人くらい生きている人がいても……
俺はただ、その微かな望み……いや、願望以外の何物でもない妄執を胸に、ただただこの『完璧な世界』を探し回るべく、半ば現実から逃避するかのように、ただ前へ前へと足を踏み出すことにしたのだった。
……次回、エピローグ。
2020/04/23 00:01投稿時
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