陸・第二章 第九話
「……チャロ。
お前……」
鮮血の臭いに慌てた俺がドアを開いた先に見たのは……ベッドの脇で呆然と立ち尽くす、石仮面を被った少女の姿だった。
その姿は鮮血によって真っ赤に染められていて……俺は一瞬、少女の身に最悪の事態が起こったのを想像し、眉をひそめる。
……だけど、生憎と俺の想像は全く的外れだったらしい。
「……ねぇ、どうしても、なおらない、の。
ベニグノが……おきてくれない」
俺の気配に気付いたのか、少女は振り返ることもなく俯いたまま途切れ途切れにそう答え……だけど、俺はそんな彼女の応えよりも、その右手に握られたままの鮮血に染められたナイフと……
少女の左手に握られた、羽根を千切られ腹を切り裂かれ、臓物をまき散らして動かなくなった妖精とかいう子供のような小動物の姿から目が離せない。
「……ジャン」
俺は、その血まみれになって動かない……いや、まだ臓腑を抉られたばかりなのだろう、生命反応こそないものの、死後硬直も始まってないのか痙攣を繰り返しているその子供くらいの小さな生き物の名前を呼ぶものの……既に死んでいる生き物から返事が返ってくる筈もない。
「……どうして、だ」
俺はこの惨劇を起こしたのだろうチャロに問いかけるものの、それに対する答えはなく……いや、俺の問いすら聞こえていないのか、その返り血まみれの少女は反応すら見せなかった。
だけど、その答えについては、少女の口から聞くまでもなく……ベッドの上で身体の七割を石化させたまま、眠り続けているかのように見えるにもかかわらず、指一本どころか呼吸のための胸すらも動かなくなっている、その相棒の姿を見るだけで分かる。
……分かって、しまう。
──間に合わなかった、のか。
ベニグノの身体は服で見え辛いものの、首の辺りまで石と化しており……恐らく、胸か腹辺りが石化した時点で呼吸すらも出来なくなり、我が相棒だった少年はその若い生涯を終えたのだろう。
そして、あのカマキリの老妖精が言っていた通り……妖精であるジャンの能力では、死者の復活までは出来なかったのだ。
──だからって……何も、殺すこと……
俺はそう言葉を出しかけ、チャロが何故そうしたのかに気付き、口を噤む。
あの少女は恐らく、兄と慕う少年を必死に生き返らせようとしたのだ。
チャロが命懸けで都市を飛び出してまで、死に瀕しているベニグノを救おうとようやく見つけたか細い希望……妖精の鱗粉を使ったにもかかわらず、その効果がなかったなら?
幼い少女はこう考えたのだろう。
……「鱗粉で病気が治るのなら、血ならもっと効果が高い筈だ」と。
勿論、その論理には何の根拠もない。
何しろ、ベニグノはもう死んでいたのだから。
だけど……他に救いがない、唯一の家族を亡くす喪失感に耐えられなかった少女は、その穴だらけの理論に縋るしか道がなかったに違いない。
たとえそれが、「善意で自分たちを救おうとした恩人」の命と引き換えだったとしても、だ。
──くそったれがっ!
俺と存在を重ね合わせている破壊と殺戮の神ンディアナガルの『天啓』の所為だろうか?
それとも数多の世界を渡り歩き、追い詰められて足掻く人たちを幾人も見えてきた所為、だろうか?
身内を亡くした現実に耐えられない、幼い少女の思考回路が嫌というほど推理出来……何故かそれが真実だと「分かってしまう」ことにこそ、俺は苛立ち歯噛みする。
何故ならば、この惨劇を作り出した少女はただ身内を救うべく必死に奇跡に縋っただけでしかなく……惨殺された誰かを救おうとした被害者は、ただ死者を救えなかっただけでしかなく……。
……それが「分かってしまった」からこそ俺は、腹の奥から噴き上がる怒りをぶつけるべき純粋な悪役がいないこの事態に、俺はただただ苛立ちを募らせることしか出来ないのだった。
「お、おい。
ラーディ、これは一体……」
「チャロ……い、いや、ベニグノ?」
「俺の救いが……妖精が……
何だよ、一体何が起こったってんだっ!」
そうして俺が呆けている間に、ダビド、エメリコ、ファブリシオの三馬鹿が追い付いてきたらしい。
尤も、好奇心の赴くままに追いかけて来たのは良いものの、この血まみれの部屋を見て腰が引けているようだったが。
──あ~、今さら来てもなぁ。
俺がそぅ内心で呟いたとおり……事実、コイツらが来たところで、もう何も出来やしない。
ベニグノはもう死んでいてどうすることも出来ず、『禍憑き』を癒せた筈の妖精のジャンは腹腔を割られて血と臓腑をまき散らして死んでいるし……そこまでしても家族を救えなかったチャロは最後の希望すらも失い、何かをぶつぶつと呟いている有様なのだから。
「ひでぇな、こりゃ……」
「どうするよ、おい……」
そして、角野郎ことダビドも甲殻腕のエメリコも俺と同じく、この状況を「どうしようもない」と理解しているのだろう。
入り口近くに立ち尽くしたまま、何処となく他人事のようにそう呟いているのが耳に入って来る。
──さて、これからどうしたものか……
そして、相棒を喪った俺も彼らと同様に、何処か他人事のようにこの状況を眺めていた。
実際問題、ベニグノは良いヤツだったと思うし、チャロもろくに喋らなかったものの数日間を共に暮らした仲だったのだが……だからと言って別に彼らは俺と血のつながった家族という訳でもない。
だからこそ俺は、相棒の死を嘆いたり、絶望の淵から必死に救い上げてやろうとはならず、ただ先のことへと意識を向けていた。
その所為、だろうか?
「……ぁ、ぁぁあああああああああっ。
治らねぇじゃねぇかっ!
くそがっ、治りやしねぇえええええええっ!」
その叫びに視線を向けると、いつの間にかふらふらと入ってきたらしき、石顎ことファブリシオが蹲ったまま、そんな叫びを上げていた。
石化した顎に、辺りに飛び散っている血液と臓腑を……『禍憑き』を癒せた妖精の血と肉とを貼りつけたままのその嘆きは、狂気以外の何物でもなく。
──喰った、のか。
──あの血を、肉を。
一連の言動を見る限り、石顎のヤツは『超越者』としての能力を失ったとしても、同じ立場である二人の友人を失ったとしても……それでもコイツは、普通の人間に戻りたかったのだろう。
ただし、妖精たちが口にしていた一翼の神の云々という件から考えて、恐らく鱗粉だけにしか癒しの効果はなかったらしく……『禍風』の影響を癒せた筈の妖精の血肉では、コイツの石化した顎は治らなかった
そうして血と臓物を顎にこびりつけたまま嘆きの叫びを上げ続けていたファブリシオは……その叫びの所為で、隣に立っていた少女の視線が自分に向いていることに気付けなかった。
「兄ちゃん、がっ。
あんたの、所為で……」
それは、恐らくベニグノの身体を預かっていたにもかかわらず、彼を死なせた相手に対しての八つ当たりか……もしくはただ悲しみから逃れるためだけの衝動的な行動だったのだろう。
ただし、最悪なことに少女の手には生き物を軽く殺せるナイフが握られていて……当のファブリシオは自らの望みが叶わなかった事実に呆然としていて、「ソレ」を防ごうという意識は欠片もなく。
そして一応「ソレ」を防げる立ち位置にいた筈の俺も、そんなことになるなんて予想すらしておらず……
ただ呆然と「ソレ」を……少女が手にしていたナイフが、ファブリシオのヤツの眼球へと突き刺さって行くのを、眺めることしか出来なかった。
だからこそ、その鮮血に染まっていたナイフの切っ先は、石化した皮膚に護られていない……無防備な眼球へと何の抵抗もなく吸い込まれ。
十センチを超えるそのナイフの、切っ先の八割くらいが埋め込まれた辺りで、ファブリシオの身体がビクンと跳ね……その身体はゆっくりと真後ろへと崩れ落ちる。
「ばっ、馬鹿野郎っ!
何してやがるっ!」
ガタンと、男の身体が倒れた音を聞いてようやく我に返った俺は、その惨劇の元凶である少女から凶器を奪い取ろうとして……いや、ほぼ反射的に石顎のヤツを救うために元凶の少女を少しばかり遠ざけようとしたのかもしれない。
ただ……この有様に動揺を隠せなかった俺は、少しばかり力を込め過ぎたのだ。
「……ぁ」
俺がただ払っただけの、殺意すらもなかったその右手が、少女の頭蓋を捉え……少女の軽いその身体は、虚空でふわりと三回転ほど回った筈だ。
俺の手によって加速された勢いのまま、狭かったファブリシオ宅の壁へと少女の身体が叩き付けられた時も、それほど大きな音は上がらなかったと思う。
何故か、そのまま重力に引かれ、彼女の小さな身体が床へと転がった時には、何故か酷く大きな音が響き渡っていた。
──しまっ……
俺が、自分の振るわれた右手を見て、自分の仕出かしたことを後悔した時にはもう全ては終わっていて。
ただ……どの時点でそうなったかは分からないものの、床に伏したまま動かなくなった少女だった筈のソレは、右手と左足は関節でない場所で不自然に歪み、その瞳には生前のような輝きはなく。
そして何より、その細い首から上にある頭蓋は、本来あり得ない角度を向いたまま動かない。
「ぁ、ああ、あああああ」
「おっ、おいっ。
ファブリシオ、おい~~~っ!」
呆然と自分の右手を眺めたまま動かない俺の周囲で、角野郎と甲殻腕の二人は友人だったファブリシオの身体に取りつき、その死を悼んでいた。
それを何処か遠くの出来事のように視界の縁で捉えつつ……俺は石化した少年の身体と、臓腑をまき散らしたまま死んでいる妖精の残骸と、絶望の中で死んだ石顎の死体と。
そして、武器を手にしたままで動かなくなった少女の身体を見て、何となく理解する。
──ああ、そうか。
──この世界に来たばかりの、あの光景は……
この『禍風』が吹き荒れる世界へと訪れた時に見た、周辺に手に武器を持った惨殺死体と人間そっくりと石像と……そして、三歳児のようにも五歳児のようにも見える、十数センチから数十センチくらいの、生皮を剥がれた後に四肢や胴をバラバラに切断されて殺されている死体の数々。
アレは恐らく……チャロと同じ行動を行ったのだ連中の末路だったのだ。
石化した人々を救うべく妖精の鱗粉なんて奇跡に縋り……だけど死者は救えず。
だからこそ身を落したのだ。
……己を救おうとしてくれた妖精たちを殺し、斬り刻み、その身を薬として、己の身内を、大切な人を救おうと……
──だけど、それも無意味だった。
結果として、儀式の場に踏み込んだ衛兵たち相手に武器を手に抗い、殺され……救いたい人を救うことも出来ず、罪人として殺された。
要するに、この場とほぼ同じことが、俺が召喚されたあの場所で起こったのだ。
──どうして、こんなことが起こる?
未だに少女の身体を撥ねた感触が残る右手を眺めながら、俺は現実逃避気味にそう自問自答するものの……答えなんて一つしかない。
……『禍風』。
ソレこそが、人を石化させて殺すからこそ、人々は城壁の中に囚われ……死に怯え、失った身内を救おうと必死に希望に縋り。
その絶望の中に見える希望こそが、奇跡を齎す誰かを殺してでも身内を救いたい……という悍ましい願望へと形を変える。
だけど、そんなのも全ては『禍風』によって人類が追い詰められたからこそ……今まで俺が旅してきた世界と同じく、塩によって砂と蟲によって腐泥によって戦によって神によって海水によって……それぞれ追い詰められていたからこそ生まれる悲劇なのだ。
だからこそ俺は、この世界を救うべく……『禍風』という世界を滅ぼす元凶を食い止めなければならない。
──今度こそ、世界を救う。
実際問題、この世界に来てベニグノから色々と聞かされた時点で、その結論は出ていたのだ。
ただ……あの海水に没する世界で、世界を水没させようとしていた破壊の神を殺した余波によって、人々は殺し合い自滅していったのを目の当たりにした所為で、少しばかり結論を出すのが遅れただけで。
──この世界を滅ぼそうとしているヤツが、どんな存在かは分からない。
だけど、今の俺なら……数多の世界を旅し、五体の破壊の神から権能を奪い、五柱の創造神の権能を獲得した今の俺なら、如何なる破壊の神だろうとも殺すことなく、力の差を見せつけることで上手く説得できる筈だ。
──殺すことなく、滅ぼすことなく。
──この悲劇を……止めて、みせる。
そう決断した俺は、未だに血の臭いが満ちる部屋を出るべく、踵を返す。
「……何処へ?」
「ちょいと、この『禍風』を止めてくる」
友人の死を悼みながらも俺の動きには気付いていたらしき角野郎ことダビドの問いに、俺は振り返ることなくそう答える。
背後の二人が何か言葉を返す前に、俺は持ち主がいなくなったファブリシオの部屋から外へと出ると、『禍風』が吹いてくるという山を睨み付け……城壁の崩れた場所へと歩き出したのだった。
2019/09/04 23:12投稿時
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