陸・第二章 第一話
俺が『爪』によって虚空を切り裂き、その向こう側へと足を踏み入れた時に眼に入ったのは、赤黒く固まった塗料を塗りたくられた……まるで数日前に鮮血が降り注いだことがあるかのような、酷く邪悪な気配のする祭壇の前、だった。
──またこういう場所か。
そんな……人によっては人生に一度目の当たりにすれば十分どころか、十数年に渡って精神的外傷になりそうなその光景を見てもただ既視感を覚えるだけだった俺は、目新しくもなんともない血まみれの祭壇を前に内心でそう溜息を吐き出す。
実際問題、こういう邪悪な割に使われた形跡のある宗教的施設に喚び出されるということは、新たに訪れたこの世界が「かなり切羽詰っている」ということを意味していて……この手の光景に慣れ親しんだ俺にとっては血や臓物が飛び散ったこの場に喚び出されたことよりも、「また救えないかもしれない」という現実の方が遥かに深刻な問題だったのだ。
「……くそったれ」
既視感ついでに周辺を見渡した俺は……ソレを目の当たりにした時、この手の光景に見慣れているにもかかわらず、思わずそう呟いていた。
子供、なのだろう。
三歳児のようにも五歳児のようにも見える、十数センチから数十センチの子供らしき存在が、生皮を剥がれた後に四肢や胴をバラバラに切断されて殺されているのが目に入ったから、だ。
それが恐らく十数人……もしくはそれ以上か。
少なくともそれらの死体がこの祭壇に祀られた神に向けての生贄であり……祭壇の周辺に置かれている苦悶の表情を浮かべた人間のような生々しい石造たちが、この祭壇を彩るオブジェだろうか。
それ以外にも、剣を手にした死体やら槍を手にした死体やらが、斬られ刺され矢で射抜かれて苦悶の表情を浮かべたまま死んだと思われる死体が転がっていて……それらの死体の所為で周辺には凄まじい血と臓物と腐臭が漂っている。
「こんな場所に、長居してられるか」
血や臓物や死体にはそろそろ慣れては来たものの、この手の悪臭に対する耐性が出来た訳ではない俺は、そう吐き捨てると祭壇の反対側にある出口の方へと歩みを進めることにした。
祭壇に繋がる廊下には絨緞が敷かれていたものの、固まった血でごわごわしている所為で歩き辛く……
そうして祭壇の部屋を出た俺が周辺を見渡すと、どうやら此処は何処かの地下室だったらしく、石畳の廊下が続き……そのあちこちに血と死体が点々としているのが目に入る。
「皆殺しにあった、って感じだな」
出来るだけ死体を踏まないように歩きながら、俺は小さくそう呟く。
生憎と理由はさっぱり分からないものの、周辺の状況を見る限り、この祭壇の持ち主やこの神に祈ってい信者たちがあまり良い最期を迎えていないことだけは一目瞭然だった。
そうして廊下を歩き、鍵のかかっていたドアをただ膂力に任せて強引に押し開いた俺は、同じように死体だらけだった豪華な建物内を抜け、ようやく外へと辿り着く。
「……臭ぇんだよ、ったく」
そんな苛立ちついでに正面ドアを蹴破って外へ出た俺は、外の空気を吸い込むと同時に周囲を見渡し……外が夕暮れだということに気付く。
どうやら俺が召喚されたのは小高い丘の上の、街外れに位置する別荘だったらしく、眼下にある小さな森を抜けた先には石造りの街並みが並んでいるのが見えた。
──ゲームみたいな世界だな。
よくある中世ヨーロッパ風、という感じだろうか?
石畳の街路に石造りの家々、街を歩く人々はみんな頭を垂れて疲れ果てている様子で、やはりこの街も今までの経験に違わず、あまり活気ある様相ではない。
そんな街並みを城壁がぐるっと囲い……俺が今立っている位置は城壁の端ギリギリの辺りらしく、背後すぐそばに三メートルほどの城壁を見上げることが出来た。
城壁は石を適当に積み上げたような出来で、あちらこちらから植物が生えてたり蔦系の植物が絡んでいたり、崩壊してたりと……あまり手入れをしている様子はない。
それどころか、その街のど真ん中にあるのは大きな石造りの城で、周囲にある三本の尖塔や見張り台はあるものの……その城も何処となく老朽化しているようにも見える。
──この国……もしかして困窮してたりするのか?
そんな疑問を胸に街並みをよくよく見渡してみると、正門から城へと真っ直ぐに走る大通りの道端には座り込んでいる物乞いらしき存在が多々あるし、街並みも結構なボロ小屋が多い。
困窮しているかどうかは兎も角としても……この街が何らかの原因で衰退期にあるということだけは俺の未熟な観察眼でも悟ることが出来た。
「ま、こうして眺めてみても仕方ない。
……行ってみるか」
自分の恰好を見下ろして、魚の皮で造られた微妙な服一張羅という現状に少しだけ躊躇いを覚えた俺だったが……どう取り繕ったところで、この世界で通用する金どころか武器一つ持っていない現実に気付き、何もかも諦めて街へと真っ直ぐに歩き始める。
正直に言うと、多少のごたごたがあれば……強盗でも出ればその連中から服と武器と金を奪えるし、誰かを助ければお礼にと服や飯くらいは貰えるだろう……という淡い期待を抱いていた訳だが。
……だけど、現実はそんなに甘くはなかった。
「う、うわぁあああああああああ、化け物だぁあああああああああっ!」
最初に出くわした農夫みたいな男は、俺と目があった瞬間にそんなことを叫んで商売道具らしき鍬と肥桶を放り出して逃げ出す始末である。
その慌て方があまりにも酷かったので、俺は思わず背後を見返したほどだ。
「ま、ま、『禍憑き』だぁっ!
逃げろ、逃げろぉおおおおおおおっ!」
「ひぃいいいいいいいいっ!
誰か、誰かっ!
誰かぁああああああああああっ!」
しかし、二度三度と出くわした人間がそう叫んで逃げていくのを目の当たりにして、俺の背後には何もいないとなると……彼らが逃げ出した理由が自分にあるんだと、嫌でも悟ってしまう。
──この、左腕、か。
そして今更ながら、左腕が異形と化していた事実を思い出し……溜息を一つ吐き出す。
実際問題、生活に多少不便だとは思うものの、しばらく暮らしている内に慣れてきてしまったものだから、すっかり忘れていたのだ。
──そういう意味じゃ、クソ婆もラティーファも、寛容だったんだなぁ。
忘れていた理由の一つに、さっきまで暮らしていたあの海に沈む世界で出会った二人が全く忌避感なく接してくれたこともあったのだろう。
俺は今さらながらに、あの平和な海だらけの世界は良い場所だったなどと感想を抱きながら、のんびりと道を歩く。
そうして歩くこと数分程度。
「いたぞっ、化け物だっ!」
ふらふらと歩いている俺の前に、ハーフプレートとかいう感じの金属鎧と、鉄製のヘルメットを身に着けた連中が十数人現れ、横陣を敷いた……と言うか、俺をこれ以上進ませないようなバリケード代わりになった、というべきか。
彼らの手には槍と、クロスボウらしき武器が構えられており……
「くそったれの『禍憑き』がっ!
見境なしに殺しまくる、貴様ら化け物がここから先へ進むことは許さんっ!
全員構えっ!」
隊長なのか鉄の兜にポニーテールのような妙な飾りをつけた男がそう叫んだかと思うと、クロスボウを手にした七人が前に出て片膝を突き、俺へと狙いを定める。
残された八人は手に槍を構えていて……恐らく一斉射の後で前に出てボウガン隊と前衛後衛を入れ替わるのだろう。
「……意外としっかりした組織になってんだな」
そうしてボウガンを向けられた俺は、自分へと向けられた矢じりの鈍い光を見て……特に危機感を覚えることもなくそう呟いていた。
正直な話、俺が今までに経験した戦場と言えば、砂の荒野で入り乱れての乱戦と、蟲の砂漠での蟲相手の混戦、地底世界での狭隘な場所での戦闘など……部隊が各々の役割分担をしている戦場はほぼなかったのだ。
違ったのは腐泥の世界で盾の部族や槍の部族など、各々の部族に役割を持たせたのと、浮島の上で軍を率いていた時、くらいだろうか。
尤も、浮島のアレはほぼ一騎討ちで勝負がついていたので、こういう組織された軍隊という雰囲気はなかったのだが。
「くそっ、言葉が通じん……いや、もはや理性すら無くしているのかっ!
構わん、射れ射れぇえええええええっ!」
そうやって呑気に記憶を辿っていたのがいけなかったのだろうか。
隊長格の男が突然そんな叫びを上げたかと思うと、俺に向けて矢が一斉に飛んでくる。
尤も……今更細い木の棒に鉄の矢じりをくっつけただけの武器なんざが、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を持つ俺に通じる訳もない。
ぺちぺちと小石が当たったほどの感触もなく、俺の身体のあちこちに当たった矢じりは歪み、全てがぽろぽろとその場に落ちる。
「くっ、何だこの化け物っ!
だが、我々も栄えある王都警備隊っ、この場を通す訳にはいかんっ!
槍兵、前へっ!」
「応っ!」
隊長格の男がそう叫んだかと思うと、わずか二秒ほどの間にクロスボウ隊が後ろへ下がり、槍を手にした連中が前へと跳び出してくる。
しっかりと練習したのだろうその動きに思わず拍手を送りたくなっている俺の前で、槍兵たちは槍をこちらに向けたままじりじりと距離を詰めてくる。
──別にぶっ殺しても構わないんだが。
──前もこうして突っかかってきたヤツを殺した所為で、世界が滅んでしまったからなぁ。
今まで何度も世界を滅ぼしてしまった失敗だらけの俺であっても、流石に一日も経ってない、あの海没世界での失敗はまだ生々しく記憶している。
「う、動くなよ、動くなよっ!」
「良いか、逆らうなよ、暴れるなよっ!」
そうして棒立ちの俺に警備隊連中の槍が向けられ、恐怖混じりの殺意を向けられているというのに……俺の中からは殺してやろうと思うほどの激情は湧いてこなかった。
むしろ練度はそれなりであっても実戦にはあまり慣れてないのか、こちらをなるべく殺そうとしていないその不慣れな叫びが微笑ましいほどである。
「……あ~、なら、俺はあっちへ行くとするか。
お勤め、ご苦労」
理由は分からないものの、俺の中で殺意が高まらなかった所為、だろう。
俺は武器を向けてきた連中に反撃一つすることなく、そう告げて槍の切っ先に背を向けると……右手をひらひらと振りながらその場を離れていく。
逃げ出す訳でもなくただ歩いて離れるという俺のその仕草に、兵士連中は戸惑っていたようだったが……
「あ、アレハンドロ隊長。
あんなこと言っていますが、どうしますかっ!」
「構わん、放っておけっ!」
「しかしっ!
あれほどの『禍憑き』を放っておくなどっ」
「矢も立たん化け物を、どうしろってんだっ!
黙って去ってくれただけ幸運だったと思えっ!
下手に刺激して街に入られたらどれだけの犠牲者が出るか考えたくもないっ!」
背後からそんな応答が聞こえてきて……どうやら追いかけては来ないようだった。
どうやらこの城壁周辺は人気のない無法地帯になっているようで、栄えある王都警備隊様たちの護るべき場所ではないらしい。
──お役所仕事だなぁ。
管轄を離れたらもうどうでも構わないというその姿勢に、俺は溜息を吐きつつも安堵する。
実際問題、刃を突き立てられても俺の身体には傷一つ付かないだろうが……それでも、軽く殴るだけで死んでしまうあんな脆弱な生き物が突っかかってくるのを殺さずに落ち着かせるってのは、なかなかハードルが高い。
こうして平穏無事に終わったのなら、それはそれで良しとするべき、だろう。
そう割り切った俺は、転移してきた別荘とは少し角度を変えつつ……丘に登らずに街から離れる方向へと向かっていたのだが、荒れ果てた畑と手入れもされずに崩壊した家々が並ぶ、あまり人気のない方向へと辿り着いてしまっていた。
周囲のボロ家の中でも、崩壊もせずそれなりに手入れがされている幾つかからは視線を感じるものの……向こう側から何かを仕掛けてくる訳でもないので、それらを無視して俺は歩き続け……
「……これ、城壁としての意味がないんじゃねぇか?」
疲労という意味ではなく飽きるという意味で俺が歩き疲れた頃、ようやくたどり着いたのは、整備されなくなって崩れ果てた城壁だった。
大昔に戦争でもあったのか、見事に崩壊したその城壁は、ただの瓦礫の山以外の何物でもなく……
──まぁ、外も見ておくか。
──この街とはどうも相性が悪そうだし。
いきなり追い出されたこともあって、少しだけ逃げ腰になっていたのかもしれないが……俺はさっさとそう結論付けると、瓦礫の山を登って城壁の外へと顔を出す。
「何だ、コレは……」
そして、絶句する。
何しろ俺の眼下に広がっていたのは、人と見紛うばかりの石像が、老若男女と問わずに数百と転がり……それらは救いを求めるかのように城壁に群がっている光景だった。
その上、その石像たちは祈りの姿勢のまま手を合わせていたり、城壁に縋りついていたり、絶望に頭を抱えていたり、嘆くように天上の神に呪詛を放っていたりと恰好こそバラバラだったものの……それら全てがまるで生きた人間をそのまま石へと化したかのように精緻な出来栄えであり。
もし、コレらを造った彫刻師がいたならば明らかに正気を失っているだろう……そんな自分の眼球と同時に正気をも疑いたくなる、文字通り狂気じみてあり得ない光景だったのだ。
2019/05/15 22:49投稿時
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