陸・第一章 第九話
ラティーファの持つその風呂敷……魚の皮を鞣して造られたソレを風呂敷と言うのであれば、だが……その中から出て来たのは、クソ婆の顔、らしきモノだった。
らしきとしか言えないのは、暗くてはっきりとは見えなかったのと……それ以前に、恐らく何らかの凶器でぶん殴られた所為で顔半分が陥没して原型を留めていなかったからだ。
──何が、あった?
その変わり果てた姿を見た俺はそう自問自答するものの……あり得る可能性はさほど多くない。
権力争いに巻き込まれたか、強盗に襲われたか……それとも罵詈雑言を言い放った所為でカッとなったその辺の相手に撲殺されたか。
そうして考え込む俺を見て、俺が何を考えているのか察したのだろう。
「……強盗、です。
これを買おうとしていたので、裕福だと……食料を多く持っていると勘違いされたのでしょう」
ラティーファは俺に向けて、酷く冷静な……一切の感情も抑揚も感じさせない声でそう告げる。
なのにこちらへと差し出した手は震えていて、彼女が泣きたいのか怒りたいのか憎みたいのか……もしくはその全ての感情を必死に抑え込もうとしていることだけは俺にでも理解出来た。
その細くて小さな手の中に握られていたのは、ちっぽけな……本当にちっぽけなガラスの玉、だった。
そのちっぽけな、現代日本では十円以下で買えるようなそのガラス玉が何なのかを理解出来ない俺は、首を傾げながらラティーファへと視線を向ける。
そんな俺の疑問を理解出来たのだろう。
今までずっと無表情を通してきたメイド服姿の彼女は、顔のあちこちを震わせながら……恐らく必死で感情を押し殺しながら、叫ぶ。
「これはっ、この透玉はっ、結婚する男性がっ、女性に贈るものでっ!
海に沈む前のっ、こんなになる前のっ、風習ですけどっ!
こんな時代だからっ!
貴方に、嫁をっ探すためにっ、先生がっ!
溜め込んでいた、食料を、使って……貴方の、ため、にっ」
ラティーファのその声に、俺はようやくあのクソ婆が何を考えていたのかを悟っていた。
要するに……あの婆は約束を守ろうとしたのだ。
俺に、嫁を、探すなんていう……ただの口約束を、守るために。
こんな、食糧もなくなって、治安も悪くなって……どうしようもないと理解していながらも。
ただの同居人でしかない……悪態しか吐かなかった俺のために。
「あの……婆ぁ。
ばか、野郎……」
俺はそう最後まで悪態を吐きつつ、そのガラス玉に手を伸ばし……それに、指を触れることが、出来ない。
理由は分からない。
分からないが、こんな何の価値もないただのガラス玉だと言うのに、現代日本では二束三文にしかならなかったゴミ同然のガラス玉だと言うのに、クソ婆の死を理解した今も、何も心が痛むこともないというのに……俺は何故か自分がソレを手に取る資格がないなんて、俺は何故か考えてしまう。
「これは、お前が、貰ってくれ。
家族、だったん、だろう?」
その所為か、玉に触れられなかった俺は、気付けばそんな言葉を口にしていた。
実際のところ、ただのちっぽけなガラス玉なんて何の価値もないモノだから、譲るのに躊躇うことがなかった、ということもあるのだろうけれど。
「……いえ、私はもう、頂きました。
彼女の、心臓と、両腕を。
それで、十分です」
そんな俺の言葉にラティーファが返したのは、全く理解出来ない……そんな声、だった。
その言葉の意味を考え、悩み……そして不意に理解する。
──まさ、か?
確かに昼間会ったラティーファは顔は蒼褪め、頬はこけ、目の下に隈まで作って酷い悩みを抱えているように見えた。
それが、今は、どうだろう?
暗くてそこまではっきりとは分からないものの……確かに表情は暗く目の下は赤く腫れ隈は消えていないのは昼間と同様ではあるが、蒼褪めた顔色や痩せこけたような頬は若干ながら改善されているように見える。
つまり、それは……
「死体を、食べた……なんて言わない、よな?」
「いえ、その通りです。
尤も、他の肉は、魚を釣るために明日使われるようですが。
心臓と、両腕だけは身内である私のモノで、頭は貴方へと、何とか譲っていただけました。
やはり先生は歳を召していて、食べるところも少なく美味しくないだろうというのが幸いでしたね」
思わず尋ねた俺の問いは……出来れば否定してほしいと口にしたその問いは、あっさりとラティーファによって肯定され。
それどころか、むしろ聞かなくても良かった、食べた部位まで語られる始末となる。
「これで、あのすばらしいアイーシャ先生の教えが……あの卓越した技術が少しでも身につけば良いのですが」
──コイツ、は。
味を思い出している……訳ではなくて、死んでしまった親類の身体を己の内に取り込んだ、という感覚を思い起こしている様子でお腹の辺りをさすりながらそう呟くラティーファに、俺は思わず後ずさってしまう。
いや、実際のところ、俺自身も人肉を食べた経験があるし、飢えに耐えかねれば人の肉を食べるくらいは当然のことだと思っている。
だけど……食肉という行動に精神的な何かを見い出そうとするような、そっち系の行動は流石に許容できない。
たとえそれが、尊敬する身内が突然殺された……その状況に適応するため、精神の均衡を保つための行動であっても、だ。
「お前、それは。
……そんなことが、許される、のか?」
「ええ、今の王宮では……いえ、街でも人間狩りなんて普通に行われていることです。
……もう私たちには食べるモノなんて、ろくに残されてないのですから。
王宮も、平民も貧民も……漁師も兵士も王族も、老若男女の何もかもが、一切れの肉片を争っています。
知っていますか?
あれだけ余っていた魚が、今は黄金よりも価値があるのですよ」
そう呟くラティーファは少し憂鬱そうに赤く染まる空を眺める。
それはあの火災の向こう側で何が起こっているのかを俺に悟らせていた。
──暴動、か。
何が引き金になったのかは知らないが……何となくあの巨大魚が陸揚げされたのが原因だと思うのは、俺の気の所為だろうか?
何故だかは分からないが、あれだけの肉が城へと向かうのを……高貴な連中が独占するのを目の当たりにした貧民たちが、飢えと自らの境遇に耐えきれなくなって武器を手に取ったのだと、俺は何となく察することが出来た。
尤も、正解を知る術はないので、ただの穴だらけの推測でしかないのだが。
そして……暴動が起こるということは、今までも不満や鬱憤が溜まっていたのだろう。
──人間狩り、か。
貧民を肉にする、弱い連中を餌にする。
……そういう行動を王宮が繰り返していたとしたら、飢えた挙句に餌として殺される現実に絶望した大多数の弱者連中が、武器を手に取って数を頼りに秩序を破壊するために暴れたそしても、そうおかしくはない。
「それに……貴方も言っていたでしょう?
生きるためには、殺すのが当然だと」
今までそれなりに回っていた社会が不意に崩壊し、誰も彼もが狂ってしまったのだろう現状を理解した俺が眉間に力を込め始める中、ラティーファは俺に笑みを向け、そう告げる。
半日ほど前に、確かに俺が語ったその言葉を。
──ああ、確かに、そう言った。
何度も何度も戦場に立ち、生きるために人を殺し続けていた俺は、そう告げることしか出来なかったからだ。
……だけど。
「だから、私も間違ってなんか、いません。
王宮に使える侍女として、あんなのを……孤児たちを、捌いて、煮込んで、焼いて、料理したのも、当然、なのです」
だけど、俺は、こういう形での状況は想定していなかったっ!
勿論、何度問われても答えは変わらない。
生きるために他者を殺しても……何かの命を奪っても生きようと願うのは生物の本能であって、それを否定しようとは思わないし、否定など出来やしない。
正当防衛という言葉もあって、現代日本の法律でもそれは認められていた。
……それでも俺が言っていたのは、武器を手にしたヤツが眼前に迫ってきている状況を必死に生き延びようとする状況であって、こんな、人を餌にして、人を捌くなんて。
今まで言葉が通じていた相手の命を奪い、太い血管を切り裂いて血を噴き出し、腹腔を切り裂いて臓物を抜き、皮膚と肉との間に刃を入れて皮を剥ぎ取って。
四肢の継ぎ目を切り離し、筋肉や脂肪をブロック状にバラして焼いて煮込んで食べるなんて状況は、想像なんてしなかったのだ。
だとしても……俺は、彼女の生きたいと願う気持ちを、何に縋っても生きようとする覚悟を否定することだけは出来やしない。
「……そうか。
それでも生きるのなら、それしか選べないなら、それで良いんじゃない、か?」
「……そう、ですよね。
それしか、選べないの、ですから」
慰めると言うよりは言い訳するかのような俺の言葉を、彼女がどう受け取ったのかは分からない。
それでも、いつも無表情だったラティーファが、微かに笑みを浮かべた……いや、無理矢理笑みの形に表情筋を動かしたのは間違いのない事実だった。
「では、この透玉は……貴方の、この透玉は、私が貰います。
……構いません、よね?
もう、返しません、よ?」
「ん?
ああ、良いんじゃないか?」
その言い回しに何の意味があったのか良く分からない。
ただ、妙に力の込められた瞳でこちらをまっすぐに見つめながら、そう念を押すメイド姿の女性を否定する気にはならず、俺は取りあえず頷いて見せる。
「では、少し片づけることがあるので、失礼します。
その後はこちらに伺いますので、よろしくお願いしますね」
俺の首が縦に振れたことで安心したのか、珍しく……本当に珍しくラティーファは小さな笑みを浮かべると、大きくお辞儀をしながら俺にそう告げた。
その仕草は大仰というか不自然なほど礼儀正しくて、俺は少しだけ戸惑ってしまう。
尤も……
──王宮に仕える侍女だからな。
──職業病、ってヤツか。
すぐさま彼女の仕草について、そう納得した訳だが。
そして俺は、彼女の言う「こちらへ窺う」という言葉を聞き、ラティーファが抱えたままのクソ婆の生首の存在を思い出す。
──葬式、しなきゃなぁ。
実際問題、穴を掘って埋めるだけの埋葬ならば俺でも何とか出来るだろうが、それ以上の……この世界での宗教観に基づいた葬儀なんて、俺に出来る筈がない。
と言うか、そんなもの、この世界に来て二週間しかない俺に分かる訳がない。
それでも人が死んだ以上……一応、悪態しか吐き合わなかった関係とは言え、同居人である以上、葬儀くらい世話してやるのが礼儀、というものではないだろうか?
たとえ、その死を悼む気持ちが欠片も湧かなくても、だ。
「……そう、か?
ああ、分かった」
だからこそ俺はそう頷き……その俺の返事を聞いて、メイド姿の彼女は手に持ったままの生首をもう一度風呂敷に包むと、その場に丁寧に置いて立ち去っていく。
──大丈夫、なんだろうなぁ、やっぱり。
相変わらず城がある側の空は真っ赤に染まっていて、何やら物騒そうではあるが……ラティーファもそれを承知で歩いて行っているのだから、自分の身を護る術くらいは心得ているのだろう。
俺はそう内心で呟くと、近くに転がっていた婆の首を手に取って家の中へと戻り……近くの台の上へとその首を無造作に転がして、溜息を一つ吐く。
──飯食って、寝るか。
……そう。
クソ婆を待つために飯を喰わなかった俺は、いい加減腹が減っていたのだ。
そして、生首だけになってとは言えクソ婆が帰ってきた以上、飯を喰うのは必然であり……飯を喰い終わったならば、この娯楽一つない世界ではやることすらもありゃしない。
だから、その直後に俺が寝床へと転がったのは、そう変なことでもないのだった。
2019/05/06 20:46投稿時
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