伍・第七章 間章(下)
○三月十二日。
アメリカ合衆国崩壊から三か月余りが経過し、身の回りの整理やら新たな研究設備の手配などのドタバタが終わり、ようやく一息つくことが出来た。
崩壊寸前のアメリカでは蚊がもたらす致死性の病よりも、理性を無くし暴徒と化した人の群れこそが恐ろしかったものだが……私たち研究チームは科学者の特権を使うことで、何とか優先的に国外脱出することが出来たのだ。
そうして私はアメリカ合衆国を出た後、比較的平穏である母国日本へと帰ってきている。
ホームステイ先だったワシントン夫妻からは、共にアフリカ大陸へと来ないかと誘われたが、これでも私は一応日本人である。
母国を捨てることは……いや、正直に言えば、研究の機会を捨てることなど出来る訳がない。
日本でこのまま、『彼女』を調べ尽くすことにする。
……そう。
アメリカ合衆国崩壊時のどさくさに紛れ、私たちは『不滅の心臓』を四つに分割して分け合ったのだ。
勿論、彼女の協力を得て、だ。
そうでなければ、私たちの技術などでは細胞片を入手する程度なら兎も角、心臓を致命的に傷つけることすら叶わなかっただろう。
そうして各々が『心臓』を手にした私たちは四チームに……変な宗教団体が起こすテロが多発しているEUへと向かう組、ワシントン夫妻の故郷であり人類発祥の地へと向かう組、北極にあるアメリカ基地で合衆国再起を図る組。
そして、自分を含め数名の、アメリカを放棄して日本へと向かい……このまま『彼女』の研究を主体として続ける組とに別れることとなった。
心臓を割ったことでしばらく『彼女』との意思疎通は出来ないものの、あの再生速度から見て数ヵ月も経てば彼女とまた会話を出来るに違いない。
取りあえず日本へと戻ってきた私は、政府と三か月余りもの間交渉を行い、研究施設と居住区を勝ち取った……世界中が難民で溢れかえる中で必死に鎖国を貫こうとしていた日本政府に、海外からの居住と研究の継続とその資金の捻出とを認めさせることに成功したのだ。
そんな訳で、明日から研究を再開することに喜びを覚えつつ、こうして再び日記を書くことにしたのだ。
○三月二十二日。
彼女の心臓を運ぶ際、『彼女』に言われるがままに、『不滅の心臓』から取った細胞片を培養、抽出して造りだした細胞液を用い、零度ギリギリまで冷やすことで低温保存を実行したのだが。
これを上手く使えば人類のコールドスリープが可能となるだろうと、不意に思いついた。
動物実験の結果はおおむね良好。
人類での実験は流石に許可が下りないだろうが……この日本が崩壊し、最悪の事態になれば、この技術を使う機会が訪れるかもしれない。
実験データは厳重に保管しておくこととしよう。
○四月十五日。
日本政府から人類再生計画なるものを組み立てて欲しいと頼まれた。
南北アメリカ大陸から蚊を掃討し、アジアからモンゴリアンデスワームを駆逐し、EUで猛威を振るう宗教団体……脳内に蟲が憑りついた「蟲憑き」共を発見して駆除し、地球上で人類を再び回復させる計画である。
自分がそれほど凄いとは思わないのだが、現存する人類で最高の頭脳とまで言われてしまった以上、断れる訳もない。
幸いにしてまだインターネットそのものは生きているのだ。
ダニー=ワシントン博士と情報交換をしつつ、何とか出来る限りのことをやろうと思う。
○五月十七日。
ヤバい。
何がヤバいって黄砂がヤバい。
人類再生計画が煮詰まったこともあり、久々に外出しようと外へ出ていたら自家用車の窓ガラスが凄かった。
ふと思いついてガイガーカウンターを使ってみたら、健常な人でも数年間浴び続ければ遺伝子異常を起こすレベルの放射線量が検出された。
考えてみれば、モンゴリアンデスワームを倒すために核兵器が何発も放たれ、しかもその一帯は砂漠化した挙句、季節風によって日本へと飛んできているのだ。
政府に問い合わせてみたところ、「最善を尽くしております」との回答が来ており……要するに事態を把握はしているものの、対処はまだしていないというお役所的な対応に終始しているようだった。
その瞬間私は、こりゃダメだと政府に頼るのを断念した。
取りあえず、地球を取り戻し人類を再生させるよりもまず、人類の存続から考えるべきだろう。
○五月二十二日。
取りあえず人類再生計画の前段階のプラン、ホームステイのホストだったワシントン夫妻がキリスト教徒だったこともあり、聖書の逸話にちなんで【エクソダス】と名付けたその計画を提出した。
簡単に言ってしまえば、この東京の地下に広大な人工空間を造り上げて人類の居住区とする計画である。
地熱発電や核融合発電を基軸とし、地下水と浄化施設、電力による食料プラントの生成、居住区画の整備を行い、それらの施設を地震・津波の直撃、もしくはモンゴリアンデスワームが日本に現れたとしても耐えられるような強化シェルターで全域を覆うのだ。
申請は一応ながらも通り、財政的な問題から予算規模は縮小されたものの、これで残存する人類の一割は保護出来る施設を造り上げることが可能となる。
○六月三日。
人類再生計画を提出する。
アメリカ大陸を蹂躙した蚊を殲滅するための殺虫剤の作成と、モンゴリアンデスワームを駆除するための巨大殺戮兵器の製造計画、そして教団に対抗するためにスキャナーを開発することが必須となる、文字通り机上の空論ではあるが、政府高官はこんなのでも一応満足してくれたらしい。
何はともあれ、これでしばらくは研究を続けることが可能となる。
○六月十八日。
久々にワシントン博士と会話を交わす。
どうやら南アフリカでは治安の悪化が深刻なようで、特に圧倒的多数である黒人種によって白人種が差別迫害の対象となっているらしい。
とは言え、私にそれが解決できる訳もなく、数百年前とは言え奴隷貿易を行っていた事実がある以上、過去の揺り返しとしか思わない訳だが。
尤も、アレは黒人が別部族との抗争に敗れた者を売り払っていたとか、色々と分断されて出来た結果らしいのだが、私は歴史が専門ではないので詳しくは言うまい。
それは兎も角、ワシントン博士の研究によれば、蚊を駆除するための殺虫剤の作成は可能だろうということだった。
『不滅の心臓』から培養した細胞片から抽出した液体に浸せば、あの巨大蚊はその液体に触れただけで駆除できるのだ。
原理も何もあったものではないが、それでも実用は可能な殺虫剤の完成である。
あとはそれを培養するだけであり、『心臓』の再生速度から考えて大陸中の蚊を駆除するために必要な薬液を生成するまで凡そ五年。
現在は蚊を駆除するのに最適な濃度を検出することで、その五年という期間を如何に短くするかという研究を続けているとのことである。
それに感銘を受けた私は、『不滅の心臓』を上手く用い、人類の繁栄を取り戻すための研究に一層邁進すると決めた。
○六月二十日。
人類のために身命を賭すと誓ったとは言え、それはそれ、これはこれ。
休みが欲しい。
たまにはベッドの中でごろごろしながらネットニュースを眺めたい。
最近はろくなニュースがないにしろ、延々と仕事尽くしでは効率も下がろうというものだ。
○六月二十八日。
四十一日ぶりの休暇である。
いつの間にか黄砂に含まれる放射線量が公表されていたらしく、外を出歩く人の姿はほとんど見えやしない。
見えていてもガスマスクや保護服をつけている人ばかりである。
取りあえず、買い物等で無用の外出しなくても済むように、地下に資材搬入用通路を設けて生活必要物資の配給を行うと同時に、水源の浄化を始めるよう政府に提言するべきだろう。
○八月七日。
ヨーロッパにて二度目の核テロが発生、数万人の犠牲が出たらしい。
犯行声明なんてものはなく、その事実こそが教団によるモノだと察することが出来た。
そして最悪なことに、その時に使われた核が超小型核……アメリカ合衆国崩壊時に兵士の腹腔内に移植したアレだということだ。
何処から技術が流出したかは不明ではあるが、人間の胴体程度の大きさの核爆弾が製造可能ということは、同じように体内に爆弾を隠した「蟲憑き」が、もう一度市街地のど真ん中で核爆発を起こす懸念があるということであり……そんな憶測によってEUは大混乱に陥っているとニュースで報じられている。
ちなみに、この教団の支部は日本にもある、らしいのだが……こちらは地下組織となっている所為か大人しいもので、日本国内では大規模破壊兵器を用いた大量殺傷テロなどは起こっていない。
しかし、この教団の何が恐ろしいと言うと知らない内に盲目的な信者を増やしている点、だろう。
洗脳して狂信者を作るよりもまだ早く、最悪の事例として七日前まで信者ですらなかった人間が、神経ガスを放つテロを起こした事例もあるくらいだ。
しかも、信者となったその一週間の内、風邪を引いて寝込んだ最初の三日を除き、家族から見ても全く不自然なところがなかったというから恐ろしい。
だからこそ、教団連中はアングラサイトでは蟲憑き……脳内に入り込んだ蟲によって身体を動かされている、なんて言われている訳だが。
それは兎も角、そんな事件が多発している所為でEUに渡った研究チームの仲間たちは蟲憑きを発見する手段を探すのが最優先となっているとか。
日本の危機とは言え、彼らに人類再生計画作成の協力を依頼するのは流石に躊躇われた私は、口先まで出かかっていた三度目の協力要請を呑み込んだのだった。
○十月十一日。
モンゴリアンデスワームの増加に歯止めがかからない。
中国のほぼ全土を砂漠化させた巨大な蟲たちは、中国人難民によって治安が壊滅している南アジア諸国にまでその猛威を振るい始めたのだ。
治安を必死に維持するために全軍事力を投入していた発展途上国に蟲と戦う術なんてある訳もなく、あの辺りの人類はただの餌となっているとのことだ。
かといって、自衛隊しか持たない日本に援軍が送れる訳もなく。
難民を虐殺してでも国境線を維持しているトルコとロシアの奮戦に期待することしか出来ない。
早く研究を進めるべきだとは思うものの……地下シェルターの建造に、蚊の媒介する死病を防ぐための医療システム、日本国内における機械化師団の増設など、やるべきことは多すぎてどうしようもないのが現状である。
研究チームもそうだが、それらの開発品を製造する国内の人手すら足りてない有様なのだ。
かといって下手に難民を受け入れると、治安が悪化して南アジア諸国の二の舞になる上に、小型核によって致命的なテロを引き起こしかねない教団の連中まで入って来る恐れがあり、労働力を期待した難民受け入れにさえ舵を切れないのが日本の現状である。
こればっかりはどうしようもない。
せめて過去にあったデフレ期の人余り期にとっとと災害への備えくらいしておいてくれれば、こんなことにはならなかったのだが。
そんなことを今更愚痴っても仕方ないのだが。
○十月十五日。
『彼女』と協議している内に、何故かアニメーションを見せられた。
その内容に感銘を受けた私は、この絶望的な人手不足を解決する悪魔の一手を思いつく。
人類の友人計画。
動物の遺伝子を組み込ませた新人類を造り出し、彼らに地下シェルターの建造をやってもらうという計画だ。
今でも人道的観点から、人の思いつく計画じゃないと分かっている。
分かっているが……このままのペースじゃ日本は、人類はもうもたない。
せめて地下シェルターだけでも早急に建造しないと……予算が足りない、人手不足だ、労働基準法を順守だの要らぬ配慮をし続けていれば、本当に日本という国家、いや人類そのものがなくなってしまう。
尤も、これだけで現状の人手不足が埋まる訳もなく、そもそも超巨大シェルターを建造するのに必要なのは人手よりも機械である。
だからこそ、機械を作る機械を製造する。
その機械のコントロールは『彼女』に任せ、完全自動によってシェルターを築き上げる仕組みを、政府を通さずに作り上げねば。
『彼女』と話していて自覚したが……人類を救えるのは、もう自分しかいないのだから。
○十一月七日。
人類の友人計画がとん挫した。
人道的な問題から世論の賛同を得られ辛い、らしい。
政治的なモノが絡んでくるため、私が幾ら頑張ったところでどうしようもない。
『彼女』と色々と案を出し合って、いくつか人と遺伝子組み合わせる動物の候補を絞っていたのだが、どうやらそれも無駄になるようだ。
それは兎も角として。
事後承諾が得られると思って研究を進めていた……地下生活に適応できそうなオオクロアリと自分の遺伝子を組み合わせたこの遺伝子、どうしてくれよう?
○十二月二十二日。
EUのチームと連絡が途絶えた。
恐らく蟲憑き共のテロによって壊滅したのだと思われる。
先日の連絡により、群衆の中から蟲憑きを見つけ出す機械の開発に成功したとのメールが来たばかりであり……証拠こそないが、状況的に考えて恐らくは「そういうこと」だろう。
尤も、ヨーロッパも治安が悪化してからは蟲憑きの数が爆発的に増えているらしく、もし判別に成功する機械が導入できたとしても、隣人全てが蟲憑きとなっていてもうどうしようもない、なんて可能性もあるのだが。
不幸中の幸いというべきか、先日のメールに添付される形で蟲憑きを判別させる装置の具体的な仕組みは私の手元へと届いている。
非常に簡単に原理を説明すると、人の脳内に寄生した蟲は蚊と同じ高周波の微細なエネルギーを放っているため、そのエネルギーを探知出来さえすれば、蟲憑きを遠くからも判別することが可能だとのことだ。
『彼女』曰く、その波形こそが破壊と殺戮の神に繋がる、神へ供物を捧げるエネルギーラインなので、それが途切れることはない、らしい。
兎に角、この発明があれば、EUの奪還作戦を組み立てることが出来る。
人類の反撃は、今ここから始まるのだ。
○一月一日。
新年早々に最悪の事態が起こった。
EUにて三発、トルコの最前線にて二発、インドにて三発、オーストラリアにて四発もの、教団による同時核テロである。
EUは人口密集地が狙われ、少なく見積もったとしても数千万人の犠牲者が出たが……言ってしまえば、まぁ、それはまだマシな方だ。
トルコとインドは、モンゴリアンデスワームを食い止めるための最前線だったために、冗談抜きでまた人類の生息域が大幅に減ることになる。
そして、オーストラリアが一番致命的だった。
テロによって主要都市が壊滅したのは痛ましい事件であったにしろ、それでも言ってしまえば数万から十数万人程度の犠牲者でしかない。
それよりも大きな問題は、そうして主要都市から逃げ出した人々の前に、陸続きでないにも関わらずオーストラリア内にモンゴリアンデスワームが確認されたのだ。
アジアで猛威を振るっている種よりも大幅に小型であるのだが、そんな連中がどうやって海を渡ったのかはまだ分からない。
分からないが、今言えることはただ一つ。
……オーストラリア大陸に暮らしていた人類は、二千万人超の人々はもう、ダメだろう。
○二月十三日。
研究ばかりの日々が続く。
日記ですらも、もう月に一度くらいしか書く暇がない。
だけど未だにこうして続けているのは、『不滅の心臓』を見たあの時の感動を取り戻したいから。
そしてその感動を原動力として研究を少しでも先に進めたいから、だろう。
○三月二日。
『彼女』の再生が進み、脊椎から脳の辺りまで回復したので脳細胞の再生について、心臓と脳との間に走る神経パルスの確認をしている最中に凄まじい発見をしてしまった。
脳内記憶の電子化、である。
これを上手く用いれば、人格の複製が可能となり……義手義足プログラムと併せて用いれば、無限の労働者を造りだすことが可能となるかもしれない。
問題は、機械の身体になるとはいえ永遠に労働を強いられる、文字通りの無間地獄に誰が好んで志願してくれるか、ではあるが。
○三月十七日。
結論から言うと、志願者を見つけ出すのは辞めた。
死がそこら中に散らばっているこの混乱した時代に、記憶を複製して『死なない人間』を造り出せば、不死を求める人々によって、こんな研究室など焼き討ちにあってあっさり滅ぶだろうと簡単に予想出来たからだ。
「不死」という魅力的な餌をちらつかされた人間の理性に期待するほど、私は純真無垢でも人類の理性に万全の期待を寄せている訳でもない。
そこで私は、ブラウザ上にて架空のゲームを造り、ロボットを使って資材運搬や掘削作業という時世代の土木業務トレーニングという形を用いてみたのだ。
もはや使い切れないどころか天文学的な数字が記載されている私個人の口座を使い、仮想通貨での報酬を用意してみると、幾らでも喰いつく食いつく。
放射線混じりの黄砂の所為で、外出が推奨されない環境となった所為もあり、誰も彼もがゲームに飢えていたのだろう。
おかげで土木作業用のロボットを三倍に増やす必要があるほどである。
ただ、このお蔭で人類再生計画が早まった。
地下シェルターが完成すれば、ようやく人類の生息域を奪還する作戦へと転じられるのだから。
○四月七日。
以前、共にゲームで遊んだ記憶から、ふと思いついて『彼女』の脳を調べたところ、人智を超越した凄まじい反射速度と判断力を兼ね備えていることが分かった。
『彼女』専用の巨大な戦闘機械を造り上げることが出来たなら、そしてあのモンゴリアンデスワームを誘き寄せることが出来たなら……誰一人の犠牲も出さず、アジア大陸を人類の手に取り戻すことが可能かもしれない。
彼女の脳内記憶にあった『蟲と戦う人型兵器』を参考に、モンゴリアンデスワーム用の戦闘兵器の設計を描くこととしよう。
○五月十一日。
……あり得ない事態が起こった。
突如中空に現れた謎の巨大な島が墜落し、アフリカ大陸が壊滅的被害を受けたのだ。
最後までメールでやり取りをしていた、尊敬するワシントン夫妻との連絡も途絶え、二人とも亡くなったのだろうが、正直その感傷に浸る時間もない。
何しろ、本当の地獄は此処から始まるのだ。
島との衝突によって、粉じんが巻き上がるのが確認されており、恐らくは恐竜が滅んだ白亜紀のチクシュルーブ衝突体による環境変動……アレと同規模の被害が起こることが予想される。
衝突によって発生した三酸化硫黄からなる酸性雨によって海洋が酸性化し、海洋生物のほぼ全てが滅ぶ。
また、粉塵によって太陽光が遮られ、地球全土に及ぶ寒冷化が発生。
そうなってしまえば、人類はもう数年と生き延びることは叶わないだろう。
つまり……もう四の五の言っている場合じゃない。
幸いにして地下シェルターそのものは半分ほど完成している。
コールドスリープ技術も半ば確立しているし、人類を護るための番人も作る計画もある。
あとは、人類が滅ぶまで……出来れば一年間でそれらを実用化にこぎつける。
そうして、この環境変動が終わり、人が住める環境が回復するまでの間、人類をコールドスリープで保存することで、何とか人類存続のために尽力するだけだ。
これらをプロジェクト【ノア】と名付けよう。
時間がないため完璧な計画など望める訳もないのだが……この状況では仕方ない。
せめて数%の犠牲は覚悟しなければならないだろう。
○五月十二日。
恐ろしい想像が止まらない。
こうして幾ら地下シェルターを必死に作っても、モンゴリアンデスワームの牙に耐えられる甲殻でシェルターを覆っても、シェルター内にあの巨大な蟲が現れたらもう終わりである。
シェルターを護る番人は設置しているものの、もし人類がこれ以上数を減らすこととなったらどうしようもない。
コールドスリープと同時に、DNAを採取してその情報を保存……脳内記憶を電子化して個人の記憶を保存するシステムを早急に作り上げなければ。
そうすれば、予期せぬ事態が起こってコールドスリープ内の人々が死に絶えたとしても、それでもなお人類が存続できるに違いない。
……だけど、時間がない。
思考速度を高速化する麻薬の類があるのは知っていた。
以前、本当に時間がなかった時、連続勤務のストレスから半ば発狂寸前になり、その場の勢いで取り寄せていたものだ。
せめて、あと七日間の内にこのシステムだけでも作り上げなければ。
酷い副作用があるこの麻薬によって自分の人格データが壊れ、私自身はその人類再生計画から弾かれるとしても、それでも人類を救わなければ。
それが出来るのは、この私だけしかいないのだから。
○五月十三日。
咽喉が乾く。
頭が痛む。
身体中が痛む。
時間の感覚が完全に狂い、今が朝か夜かすら分からない。
これこそが、あの麻薬の副作用なのだろう。
だけど……体感時間で一週間ほどの仕事量をこなした筈なのに、まだ半時間しか経っていない。
これで、人類が救えるかもしれない。
○五月十三日。
麻薬のお蔭か、たったの半日で人類の記憶データとDNAデータを保存するシステムの構築が完成した。
聖書にちなんで、この計画をプロジェクト【エデン】と名付けよう。
カプセルの番人として人類の友人計画をそのまま用いる。
この期に及べば、政府のお偉いさんの意向も世論すらも配慮にも値しない。
今は人類が生き延びることこそが最も重要なのだから。
一応、政府高官が以前、懸念事項として伝えていた人類の友人による反逆という可能性を考慮し、彼らが絶対に人類に危害を加えないよう遺伝子に組み込んでおくとしよう。
○五月十四日。
コールドスリープカプセルが既に一万近く作成されていた。
培養液も既に揃っていて……それらは全て『彼女』の手によるモノ、らしい。
それらを維持するエネルギー源として、地熱発電と核融合、そして『不滅の心臓』から発生する超高周波のエネルギーを直接電力へと変換するシステムをもう既に組みこんでいる、とのことだ。
そのお蔭でプロジェクト【ノア】は数ヵ月は早まり、遅くても数日のうちに避難民を地下へと誘導し、冷凍保存に同意した人のみではあるが、彼らを未来へと送ることが出来るようになる。
避難民のリストを見る限り、金持ちや政府高官が多いように思えるが……今は貧富の差とか選別の不公平などという細かいことを気にしている場合じゃない。
今は一人でも多く、人類を生かすことを考えなければ。
○五月十五日。
アジアと海で隔てられているオーストラリア大陸にモンゴリアンデスワームが現れた件を考えると、シェルター内に蟲が現れる可能性は高いと思われる。
そこで私は地下シェルターを造ったゲームを流用し、コールドスリープ中の人格データを用いてゲーム感覚で地下防衛をしてもらうようにシステムを造り上げた。
この辺りの面倒極まりない作業が僅か一日で出来るのが、この薬の良いところだろう。
だが、徐々に全身の痛みと倦怠感が消え、身体の感覚がなくなってきているのが分かる。
元々、連続服用して耐えられるような薬じゃないのだ。
それでも、今は、私が何とかしないと。
○五月十六日。
地下シェルターに入り込むメンバーの素性調査を行っていたところ、EUから亡命してきたと思われる超能力者の一団を発見した。
思考速度と体感時間が加速し、もはや他者との会話もままらない中、彼らとメールを介してコンタクトを取ったところ、彼ら自身は住める場所を欲しているだけで、コールドスリープは行うつもりはない、とのことだった。
細胞になにやら秘密があるらしく……まぁ、その辺りは深く追求しない。
呉越同舟という訳でもないが、シェルター作成時で必要だった、イベントで使った適当な空間を提供してやることとする。
そのついでとして、電力と水道、食料プラントを提供する代わりに、こちらのコールドスリープ空間には近づかないという協定を結んでおいた。
上手くいけば、モンゴリアンデスワーム、もしくは『彼女』の夫たる破壊と殺戮の神が訪れた際に良い防壁となってくれることだろう。
○五月二十日。
そろそろ身体の感覚が無くなってきて、なのに思考速度だけがどんどん加速していて、こうして文字を書くのもこれが最期となるだろう。
そうして気の狂いそうな体感時間で作業を進めてきた結果、もう後は自分がいなくても、何とか人類の存続だけは可能……というところまではこぎつけたと思う。
そんな中、最終チェックを行っている最中、資材の運搬経路を調べて分かったことがある。
私の知らない内に、コールドスリープカプセルを安座させる最奥の部屋で、『彼女』の脳を用いた戦闘兵器の建造が勝手に始められていたのだ。
それ自身は悪くない。
もし破壊と殺戮の神がこのシェルター内に訪れ、コールドスリープカプセルの破壊を目論んだ場合、それに対する対抗手段が必要なのは紛れもない事実なのだから。
……だけど。
今、私は恐ろしい想像をしている。
今まで世界最高の頭脳なんて唄われた私は、人類を救うのだと必死に頑張って来た。
休日を返上し、寝る間も惜しみ、こうして麻薬に頼ってまで人類を救おうと努力を重ねてきたという自負がある。
そんな私の発明を支えていたのは、『不滅の心臓』であり『彼女』とのコミュニケーションである。
だが、今になって思い返してみれば、私が新たな概念を発明したその時は、常に『彼女』と会話を交わしていた時ではないか?
いや、思い返してみれば「常に」ではないものの、かなり多い確率で『彼女』が関わっていた覚えがある。
つまり、私は人類をこの状況へと叩き落とした破壊と殺戮の神の妻である『彼女』の言うがまま、世界を変えて来たということではないか?
勿論、『彼女』がいなければ人類は滅んでいたのだから、『彼女』が人類に害意を持っているなどと疑うつもりはない。
だけど、結城拓也という名の私個人は、『彼女』の……異世界の女神ラーウェアの都合の良い隠れ蓑になっていたのではないか、という疑問が尽きない。
そうだとした場合、この私の人生には、一体何の意味があったというのだろう?
それでも、人類を救ったのは、この私だ。
この私がやらなければならなかったのだ。
この私しかいなかったのだ。
私が、私として、私にしかできないことを、だから私が私が私がわたわたたわあわたたたたたわわたわわたたわたたわたわしわわ
2018/05/08 23:45現在
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